2014年四国九州への旅 6
2014年10月26日(日) 島根県松江市〜京都府久美浜
| 10月26日(日)島根県の道の駅「本庄」を出発。 本庄という所は弁慶の生まれた所らしく、道の駅の看板にも弁慶が描かれている。 弁慶の母親は弁吉という男の様な名前で、今の和歌山県田辺市の辺りに住んでいた。 大層ブスで嫁のもらい手が無く、心配した親が出雲大社に娘に縁が出来るように願掛けに行かせた。 その甲斐あってか、現在の松江市長海町で山伏の夫に出会い弁慶が生まれた。 しかしこの弁慶、大層悪ガキで手に負えないものだから松江市の東にある中海という湖に浮かぶ弁慶島に捨てられてしまう。 そこへ山伏がやってきて、遊び相手になったり兵法を教えてくれた。 やがて山伏は 「自分はお前の父親の天狗だ。この島から他へ渡すことは容易だが、自分で工夫して渡れ。」 と言い残して飛んでいってしまう。 弁慶が10歳の時、袖に入れた砂を落として島と岸を繋ぎ長海に帰り着く。 その後枕木山、澄水寺、鰐淵寺、清水寺を渡り歩いて修行を重ね、16歳の時京の都に上り義経と出会ったのだという言い伝えがある。 中海には大根島という島があり、この島と岸を繋ぐ橋が架かっているのだが、この勾配がもの凄く、車のCMにも使われたらしい。 「本庄」の道の駅から望見するに、45度くらいの傾斜があるように見え、アクセルペダルをべた踏みしないと登れそうもない。 5000トン級の船を通すため、こんな高さと勾配になってしまったらしい。 うちの車じゃ無理そうなので初めから挑戦する気は無い。 境港市に到着。 境港は水木しげるの出身地で、水木ロードという商店街がある。 店の前に水木しげるの漫画に出てきたキャラクターや、妖怪達の像が並んでいる。 この妖怪達の像は商店街の人々や境港の企業が寄贈したものなのか、それぞれに寄贈者の名前が彫ってある。 朝8時前だったがすでにカメラを持った観光客達が居て写真を撮っていた。 境港なんて小さな町だから、水木ロードの経済効果は大なるものがあるだろう。 それから大山(だいせん)の麓を周りながら日本海の海岸線を走る。 そしてとうとうハワイに着いてしまった。 鳥取県の羽合なのだが。 白兎海岸に到着。 ここには大国様と白兎の神話で有名な白兎神社がある。 白兎が体を洗ったという「不増不減の池」がある。 「出雲風土記」の国引き神話は豪族達の国の取り合いを神話化したものだと思うのだが、この大国様と白兎の話も何かのエピソードの神話化なのかも知れないなあ。 http://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/izumo_fuudo/izumofudoki/fudoki/fudokif/fudo03.html 鳥取といえば砂丘。 月の〜砂漠を〜はーるーばると〜♪ というわけで鳥取砂丘を見に行く。 純子は砂丘なんか、あんただけで行っておいで。私は絶対降りないからねと言う。 まあそれならば一人で見ることにしようと、とりあえず鳥取砂丘に行ってみた。 鳥取砂丘の展望台を登ってゆくと砂丘が見えた。 なに?あの汚い砂の堆積。 枯れた様な草が点々と生えていて、何処かの砂の採取場の様だ。 600円出すとリフトに乗って砂丘の傍まで行って登る事が出来るが、観光写真に写っているような風紋が出来ている場所は、リフトの降り口の周辺のほんのわずかな場所の様であった。 誠に観光写真というのは都合良く作られて居る。 あれなら銭函のロングビーチと大差は無いだろう。 らくだも尻をまくって逃げ出すよ。 あとは延々と鳥取から兵庫、京都府と運転して現在は京丹後市の「くみはまSANKAIKAN」という道の駅に停泊中。 九州では300円台の風呂がいくらでもあったのだが、本州に戻ってからは500円600円で、なんか風呂に入るのがもったいなく思えて仕方がない。 |

2014年10月27日(月) 京都府久美浜〜福井県高浜町
| 京都府京丹後市の「くみはまSANKAIKAN」を出発。 純子の希望で天の橋立を見に行く。 日本三景に美保の松原って入って無かったっけ?と思ったら、陸奥の松島、安芸の宮島、そして丹後の天の橋立であった。 静岡の美保の松原は大正4年に作られた日本新三景であった。 新三景の残りは北海道の大沼と大分の耶馬溪だ。 天橋立のお土産屋の入り口に、駐車場の呼び込みのおばさんが居た。 純子は走りながらビデオ撮影するから通り過ぎるだけで良いよ、と言うのだがナビの通りに走るととんでもない路地に行きそうなので、やはり駐車場に入れる事にした。 リフトも乗ろうかどうしようか迷ったが、往復で一人660円だったので乗ることにした。 ここにはスキー場で使うようなリフトと、ケーブルカーが併設されていてどちらに乗っても良い。 まずはリフトに乗ることにした。 係員が前の人に「雨が降りそうですが良いですか?」と尋ねている。 「仕方ないでしょう。」と言い乗っていったので、我々も後に続く。 そうしたら頂上まで三分の一を残したところでぱらぱらと雨が降り始め、そのうち本格的に降ってきた。 通り雨の様だった。 リフトの上部には申し訳程度の屋根が付いているが、濡れないのは頭だけだ。 とりあえずカメラだけはぬらさないようにシャツの中に入れる。 太ももの辺りはびしょ濡れだ。 降りるわけには行かないので、仕方なく濡れたままで頂上まで我慢をする。 頂上に着いて見おろすと、写真で良く見た天の橋立の風景が広がっていた。 成る程なあ、これでは下を走ったって何も分からない。上から俯瞰しないと橋立を見たことにはならないよなあと思う。 雪舟の「天橋立図」が解説入りで掲示されていたが、昔の人もこの山の上からこの風景を見ていたのだろう。 雨はやはりにわか雨ですぐにやんでしまったが、もう濡れてしまったし帰りもリフトに乗って降りた。 おみやげ物屋が左右に並ぶ小路を歩いてゆくと、籠(この)神社の境内に出た。 無信心な我々はバシャバシャ写真を撮っていたが、後から見ると撮影禁止であった。 天の橋立から舞鶴に向かう。 途中「由良」という所に「安寿と厨子王」のイラストが描かれて居て、その百米程先で後続の車を先にやるために泊まると、たまたまそこが山椒大夫の屋敷のあった所だという看板が立っていた。 舞鶴の道の駅「舞鶴港とれとれセンター」は道の駅はおまけ程度。 従ってスタンプラリーのスタンプも大手抜きで、3センチの丸の中に「とれとれセンター」と書かれただけの「これがうちのスタンプなのだ!文句あっか?」といった代物だ。 純子は他にちゃんとした物があるんじゃないかと一所懸命に捜したのだが、結局これだけだった。 しかし「とれとれセンター」の方は大きな建物で、舞鶴港で水揚げされた魚介類の他に北海道のしまホッケの開きなんかも売られていた。 センターの外で野外食堂が開かれていて、こんな日には売り上げあがったりだと思っていたら、ここでご飯とあら汁を買い、センターの中でおかずを買って、中の椅子とテーブルで食事が出来るらしい。 我々もうなぎ丼とあら汁のセットを買って食べたが、うなぎは中国産のできあいの物ではあったが、あら汁は赤味噌で純子は赤味噌が苦手でがっくりしていたが、食べて見るととても美味しく、赤味噌に対する見方が変わったと言っていた。 舞鶴は昔から軍港で、日露戦争の時の日本の軍艦の多くもここから出発したし、現在も海上自衛隊の基地になっている。 終戦後には引き揚げ者が舞鶴港に運ばれてきた。 舞鶴引き上げ記念館もある。 二葉百合子の岸壁の母のモデルとなった端野いせさんも、舞鶴港で何時までも帰らぬ息子を待っていたのだ。 舞鶴から高浜町の道の駅「シーサイド高浜」までの道は雨が降り、風が強く、昼なのにライトを点けたいくらい薄暗かった。 着いてみたらここには風呂もあるし、こんな悪天候で走っても仕方がないので昼ではあったがここに停泊することにした。 ここには発電用の風車が二基あって、勢いよくまわっているところを見ると、元々風が強い地域なのかも知れない。 |

2014年10月28日(火) 福井県高浜町〜岐阜県美濃加茂市
| 10月28日(火)昨年の旅でイプシロンの発射延期のニュースを聞き、さらにお盆の帰省ラッシュに巻き込まれ、おまけに猛烈な暑さに愛知県の菰野まで逃げて道の駅に泊まったが、ここも猛烈な暑さで朝3時頃ラッシュを避けるために出発し、明け方関ヶ原に着いた。 そこで関ヶ原町歴史民俗資料館を見つけたのだが、あまりにも早すぎて開いていない。 それに出来るだけ裏日本側に逃げたかったので、すぐに出発してしまったのだがそれを見たいと思った。 それで関ヶ原に向かって出発。 皿を洗ったりする水はガソリンスタンドで調達できたが、飲料水が無くなってきた。 地図を見るとこのルートには名水百選に選ばれた名水がいくつかあり、途中の「若狭熊川宿」のすぐ傍にもわき水があることになっている。 それで「若狭熊川宿」に向かう。 途中名水の看板を捜しながら走ってきたが、結局見つからず到着してしまった。 ちょうど傍に居た人に聞いてみたら、我々が通って来た道の途中に「瓜割の滝」というのがあって、彼らもそこに水を汲みに行くらしい。 ガソリンスタンドの所を左に曲がって何とかいう寺の看板を目指し云々というので引き返して見たがいつまで経ってもガソリンスタンドなど無い。 これは我々の考えている水汲み場とは違うと思い、もう引き返そうかと思ったら「瓜割の滝」の看板を見つけた。 お寺に登る坂道を登って行くと駐車場があって、その一番端に水汲み場があるようで地元の人たちが水を汲んでいた。 純子に偵察させると、水を汲むにはペットボトル代として300円払わなければならないらしい。 7本のペットボトルに入れると3000円になってしまうではないか。 地元の人なら一度ペットボトルを買ってしまえば後は無料だが、我々旅行者はもう二度と汲むことは出来ないのだ。 水汲みは断念して「若狭熊川宿」に戻る。 一体あの道の駅のすぐ傍に書かれているわき水のマークはなんなのだろう。 絶対よそ者に荒らされたくないと案内看板をあげないのだと俺は思う。 「くつき新本陣」「藤樹の里あどがわ」を経て、琵琶湖の北半分の湖畔をΩ型を描いて走る。 京都府とはいってもこの辺りは田舎で空き地がたくさんある。 純子がビデオを撮りながら「歌わないのかい?」というので「第三高等学校寮歌 琵琶湖周航の歌」を歌う。 われーは うーみのーこ さすーらーいのー♪ たびにしーあれーば しみーじーみとー♪ 途中ラジオで「ミーシャのアフリカの風」という番組を聞いたが、その中で流れた曲が心に感応する。 あれはミーシャの歌だったのだろうか。 琵琶湖の湖岸を去り関ヶ原に向かう。 関ヶ原歴史民族資料館で思った事は、松尾山で何時までも日和見を続けて居た小早川秀秋の心境は尤もだということ。 戦況を誰よりも有利に見下ろせる山の上にいれば東軍の劣勢は分かるわけで、嫌いな石田三成とはいえ、ここは裏切らずに居た方が良いのかな?とは俺でも思う。 団体客に館内説明をしていた爺さんは、自分は家康が嫌いで、人格的に優れた石田三成を判官贔屓していると言っていた。 資料館の側の家康が敵将の首実検をした場所に水道があったので、これ幸いと4Lのペットボトル7本に水を汲む。 関ヶ原からどういうルートを通ろうかと考え、純平おじさんのご先祖様の出身と思われる土岐市に向かったが、途中ぴぴがお腹が空いたと鳴きわめくのでコンビニで駐まり、ぴぴともども食事をする。 その時「日本昭和村」という道の駅が近くにあるのに気がついた。 急遽そちらに目的地を変更。 「日本昭和村」は昭和の日本の庶民生活を再現した村だが、名誉村長は中村珠緒らしい。 元々あった「日本昭和村」を道の駅にしたらしい。 若い女の子達が来ていたが、我々は「ああこんなジューサー昔あった。懐かしいなあ。」とか思い、それなりに楽しめるのだが、彼女たちがじじばばの時代の庶民の住宅を再現した物を見て何が面白いのだろう。 昔の出たてのジューサーを見て 「ねえ、これなんだろうね。餅つき器かなあ。」 というと 「きっとこれはアイスクリームを作る機械だよ。」 などと言って謎解きを楽しんでいるのかも知れない。 |

2014年10月29日(水) 岐阜県美濃加茂市〜石川県能登島
| 10月29日(水) 旅生活も一月経った。能登半島を前回の旅では行っていなかったので、輪島辺りを目指して出発。 岐阜県美濃加茂をAM7:00に出発。 今まで通った事のないルートをということで御嶽山の麓の下呂(げろ)を通って飛騨高山を経由して能登半島に入るルートを選ぶ。 富山に抜ける国道41号線は飛騨川の深い渓谷に沿って走っている。 景色は最高なのだが、昭和43年8月、集中豪雨を路上で待避していた観光バス2台が土石流に巻き込まれ、飛騨川に転落し104名が無くなった。 ここにはニホンカモシカが生息していて、トンネルの入り口傍の空き地にカモシカが草を食べているのを一瞬見た。 御嶽山の麓の下呂から御嶽山は望めない。 周りを山に囲まれているからだ。 でもスタンドのお姉ちゃんによれば、火山灰が酷く降ったらしい。 下呂の町を過ぎたら、今度は中呂という所を通った。 それなら上呂もあるんでは?と思ったら本当にあった。 でも「何処にお住まいですか?」と聞かれて「下呂なんです。」と答えるのに抵抗があるのは北海道人だけなのだろうか。 飛騨高山は古い商家が残っているらしい。 町には外人観光客が歩いていたが、あまり見る気も無く通過。 神岡での鉱石の発掘は奈良時代にさかのぼる。 イタイイタイ病は神岡鉱山の閃亜鉛鉱に含まれるカドミウムが川に流れだし、その水を飲んだ人たちが発症した公害病だ。 現在は鉱山は閉山されているが、三井金属鉱業株式会社の100%出資子会社の神岡鉱業株式会社が建ち、鉱物のリサイクルなどを営んでいる。 神岡と言えば坑道を利用してニュートリノの存在を確認してノーベル賞を取った小柴昌俊東大特別栄誉教授のカミオカンデだ。 今はカミオカンデではなく、スーパーカミオカンデというのが出来ているらしい。 あの山の何処か地下深くに大量の純水のプールがあり、いつ起こるか分からない遙か遠くの恒星が超新星爆発した時に放出されるニュートリノをフォトセンサーで捕らえようと待ち続けているのだろう。 富山市、高岡市を通り、今は能登半島の付け根にある能登島にいる。 途中富山湾の海の向こうに立山連峰が見えていた。 頂上は雪で白くなっている。 |

2014年10月30日(木) 石川県能登島〜新潟県市振
| 10月30日(木) 何故ちょっと無理して走ってこの能登半島の付け根の島まで来たのかというと、井上陽水の歌に「能古島の片想い」という曲があり、ここが能登島では無く能古島(福岡湾に浮かぶ小さな島でした)だと勘違いしていたわけでありまして、着いてからなんか変だなあと思い始めて勘違いに気がついた訳です。 風景的にいってもここより良かったところは途中にあったわけで、そこに泊まれば良かったのですが、まあ成り行き任せの旅なれば、それも又楽しからずやということです。 ここはここなりに良いこともあったわけで、そのひとつが夜は怖くてトイレに行くのもはばかれる程に誰も居ない静かな所だということです。 我々の他に、ここに泊まっていたのは神戸ナンバーの軽ワゴン一台だけでした。 駐車場の街灯も玉が切れていて、星を撮影するには丁度良かったです。 とりあえず能登半島に来たならば輪島にだけは行っておかないとと、能登半島を横断。 輪島では朝市をやっていて、市場近くの駐車場では料金を取られる。 別に買い物をする予定はなく、ちょっとだけ見るつもりだったので、埠頭の無料駐車場に車を置いて歩き始めると、おみやげ物屋の客引きがつきまとう。 適当にあしらって朝市を覗く。 野菜や魚やおみやげ物等等、いろいろな物を売っている。 きっと輪島の朝市というのは有名なのだろう。 観光バスが立ち寄り、観光客で朝市がごった返す。 輪島を出て能登半島の西側を南下する。 平日ということもあって車は殆ど走っていない。 琴ヶ浜の辺りでは市の職員みたいな人たちが砂浜のゴミ拾いをしていた。 この辺りの浜の砂は「鳴き砂」らしい。 「鳴き砂」というのは石英が粉末になった砂で、歩くと「きゅっきゅっ」と音がする。 しかし汚れてしまうと音がしなくなるらしい。 琴ヶ浜から曲がりくねった山道になるのだが、前方で車が列を成して停車している。 道路工事の車両だと思って脇をすり抜けようとしたら、道路をふさぐ形で軽自動車が二台フロント部を潰して停まっていて、警官がいて、救急車の隊員が担架に中年の女の人を仰向けに載せて手当をしている。 これは何時事故処理が終わるか分からないなと思っていたら、警官が壊れた車のエンジンをかけて動かそうとしている。しかし、タイヤが変形している為か動かない。 渋滞で停まっていたトラックの運ちゃん達と一緒に車を押しながら、とりあえず片側車線を開ける。 車の部品が散乱しているのを警官に片付けて良いのかと聞くと、構わないというので片付け、エンジンオイルがこぼれ出ているのを運ちゃん達が、救急車が下ろしたおがくずを撒いて滑り止め処理をする。 彼らはこういう事を何度も経験しているのだろう。実にてきぱきとやりこなす。 路上の担架に載ったおばさんはたぶん肋骨骨折、むしろ初めから救急車の中で処理を受けていた方が重傷だろう。 救急車がサイレンを鳴らして走り去って行った。 警官が片側通行を認めると運ちゃん達は 「俺たちが先な。」 と言って通って行った。 彼らは色々事故処理の手伝いをしていたが、反対方向の連中は車の中から出てこなかったのだから当然である。 我々はさほど急ぐ必要も無かったのでみんなが行ってからで良かったのだが、急ぐ人たちが通った後、誰も行かなかったので先に通らせて貰った。 正面衝突の事故だったようだが、そんなに急なカーブでは無し、お互い峠の頂上付近の登りなのに何故こんな事故が起こったのか不思議だ。 降りてゆく途中もう一台救急車がサイレンを鳴らしてやってきて、その後もパトカーや事故処理の車などとすれ違った。 我々も事故を起こさないように慎重な運転をする。 出来るだけ北に行こうとしていたのだが、ガソリンスタンドで燃料を給油した後フロントのブレーキパッド摩耗のランプが点灯しているのに気がついた。 とりあえず他の車の邪魔にならないよう停車する。 この車は旅に出る直前に車検をし、その時にブレーキパッドとパッドの摩耗検出センサーを交換している。 車の販売店の担当と連絡を取り、とりあえず近くの三菱ふそうの修理工場で見て貰うことにした。 今停泊しているのは富山と新潟の県境の新潟側なのだが、あと10キロ程新潟に向かって走った糸魚川の修理工場で見てくれる事になった。 新潟には三菱ふそうの直営修理工場は無く、下請けの下請けの工場となる。 次から次へと問題が発生して来るのは人生そのものだ。 それらを何とか解決したり我慢したりしながら旅をしてゆくしかない。 |
