新京市街地図

傍らに新京の地図がある。
もう20年以上前に古本屋で見つけて買ったものだ。
俺は地図が好きで、地図を見ながらその場所や時代のことをあれこれ想像するのが趣味なのだ。

それでこの地図を見ると、一見欧州の都市かと思うような町並みだ。
あちらこちらに円形の広場があり、そこから放射状に道が伸び互いに連結している。
まるで運河があちらこちらに放射状に広がって網目状になり、合流点が黒い染みになっているスキャパレリの運河を描いた火星地図のようだ。

ゴルフ場があり、動物園があり、公園もある。
銀行や郵便局、学校や消防署、警察署、寺や教会、都市にあるものは何でもある。
区画整理がされ、家々が整然と並んでいて、初めから用意周到な計画性を持ってこの町は作られたのだとわかる。

いったいこの町はどうしてこんなにも端正な街並みを持っているのだろう。
しかし満州にあった、いや多分今もある町なのだろうが、地図を調べても新京などという地名は無い。
ということで中国の東北部の何処かにかつてそういう町があったのだということだけを知り、地図はそのまま本棚の何処かに埋もれていった。

数年前その地図が本棚の深い地層の中から気まぐれに顔を出したので改めて眺めてみた。

「新京市街地図」 縮尺一万分の一 康徳(こうとく)8年(昭和16年 注 西暦1941年) 昭和57年復刻 謙光社資料部発行となっている。

そして箱の裏には

「憶いではかくもたのしくかなしきものか。
ひたむきに生きぬいたわが青春に悔いなしという、大陸に生命をかけた人たちにおくる夢うつくしき望郷の書」

という言葉が書かれている。

もうネットの時代であるから「新京」で検索をかけると、すぐにそれが現在の長春市であることがわかった。
それでグーグルアースで調べてみると地図のとおりの町並みが現れた。
そこで70年前の地図とグーグルアースの現代の様子を並べてみる。

何といってもこの地図で一番目立つ場所は帝宮だろう。
映画「ラストエンペラー」の愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)の居城だ。
東西450米南北1200米の馬蹄形をしている。



溥儀


当時の帝宮の内部が何も書かれていないのは警備上の理由なのだろう。
1938年9月に新宮殿の建設に着工したが、戦時の資材不足のために完成しなかった。
溥儀の弟溥傑(ふけつ)は関東軍による政略結婚で嵯峨浩(さが ひろ)と結婚したが、結婚生活は幸せで二人の娘を設けた。
しかし長女の慧生(えいせい)は学習院大学国文科2年の同級生、大久保武道との結婚を反対され、天城山中で拳銃を用いて心中死する。
そして敗戦後溥儀と溥傑は日本へ脱出を試みるが、侵攻してきたソ連軍に捕らえられ中華人民共和国に引き渡される。
最後は二人とも一市民として中国で亡くなった。
何とも波乱に富んだ人生だ。


1932年(大同元年3月 昭和7年)に満州国が誕生。4月に長春を首都とすることになり、新京と改称される。
その頃にあった旧市街が下の地図の網の濃い部分だ。
南から城内、商埠地、満鉄付属地、北の寛城子駅周辺の土地だ。
場所ははっきりしないが大体こんな所だと思う。




城内とは18世紀の末頃から農地の開拓がなされた古くからの地域だ。
1865年に匪賊の襲撃を防ぐために地元の商人が城壁を作り(長春城)その内側を城内と呼んだ。







商埠地

商埠地とは(wikipediaより)

商埠地とは1905年光緒31年/明治38年)に「日清満洲善後条約」第1条に準拠して、清が外国人居留地として自ら指定・開放した地域である。長春は同条約1条で、遼陽吉林、哈爾濱、満洲里等と共に16ヵ所の開埠通商(外国人に交易地として開放)の都市のひとつとされた。

長春の商埠地は、1909年宣統元年)に満鉄附属地により商業的地位が脅かされると考えた現地官憲が、長春城北門外と満鉄附属地の間及び附属地を囲む土地を買収して設置したものである。これは満鉄附属地への対抗策として設けられたものだったが、商業者の移住を奨励し、満鉄附属地と城内を結びつける役割を果たすことにより、長春全体の発展に貢献した。





中国人の作った町並みはかなりてきとー、無計画、秩序が無い。
日本が作った押し寿司の様に家々が並んだ整然とした町並みとは明らかに違う。
入り組んだ街を胡同という幅9、3メートルより狭い路地が走っている。
これはこれでなかなか味わい深いのではないかと思う。



こんな路地を胡同という。

新京駅前

 


新京駅の外観と内部


広場

新京の町並みの特徴は円形広場から放射状に広がって広場同士を網目状に結びつける道路だろう。



大同広場は円形のロータリーで直径300メートルもあった。






デパートもあった。写真は三中井百貨店、その後ろが康徳会館、さらにその後ろが日本毛織株式会社。
先日姉の所に行ってアルバムを見せて貰った。
そのアルバムの表紙にニッケと書かれていた。
姉の義父、親父の弟は毛糸店を営んでいたから、ニッケから貰ったのだろう。

ウィキペディアによると

以下引用

新京の街路は、放射状、環状、方形式の街路を巧みに組み合わせたもので、大同広場や駅を基準に放射状道路を設け、それを囲むように環状道路を配した。また、大同大街、順天大街などのメインストリート沿いは二線直角を原則とした方形式の街路を配した。

また、街路方向の一般観念を示すため、南北方向を「街」、東西方向を「路」とし、幅員38m以上のものはそれぞれ「大街」「大路」と称した。また、補助道路は最寄りの街路を採って「胡同」と称した[41]。なお、斜路については、北東 - 南西方向を「街」、北西 - 南東方向を「路」としている。

新京の都市計画では、街路を幹線、支線、補助線の3つに区分し、幹線は24 - 80m、支線は10 - 18m、補助線はそれ以下の幅員(最低幅員4m)とした。幹線、支線はすべて車道歩道に分けられ、幹線道路の車道は、中央を自動車バス等の高速度車用、その両側を馬車人力車等の緩速車用に分離し、さらにその両端を安全な歩道とした。各道の間には街路樹が植えられて区切られている。

幅員60mの幹線の場合、中央部に幅16mの遊歩道が設けられ、その両外側に幅12m(3車線)の道路が併設され、更に両端に幅10mの歩道が設置されていた。また遊歩道と歩道は街路樹による緑地帯で車道と区切られていた。幅員45mの幹線の場合、幅16m(上下4車線)の中央高速車道の左右に、それぞれ幅2.5mの樹林帯、幅6mの緩速度車道、幅6mの歩道が設けられた。幅員26mの幹線の場合、幅18mの車線の両側に幅4mの歩道が設けられた。

幅員10m以上の道路は総て舗装され、交通の頻繁な主要道路は瀝青舗装(アスファルト及びタールマカダム舗装)、荷馬車専用道路は荷重に耐えられるよう小舗石又は硬質煉瓦舗装、歩道の主要部分はコンクリート板石張りとされた。幅員14m以上の街路は必ず街路樹で両側を飾り、同時に美観を保つために電信電話電灯用の電柱や架空線その他の一切の路上施設を禁じて地下配管とし、宅地の背後にある裏通り(背割道路)に電気・電話の架設線、上下水道管・ガス管を設置した(電線類地中化)。なお、市街地建設中の箇所については暫定的に架空線の設置を許可している。

これらの道路建設には、当時の日本でも珍しかったブルドーザーモーターグレーダーロードローラー、牽引式スクレイパー等の建設機械が投入されている。

さらに上下水道に関しては

上水道 [編集]

旧長春時代の水飢饉に鑑みて、新京の水源獲得は喫緊の課題だった。そのため国都建設局は満鉄の協力を得て水源調査を実施し、地下約100mに一大地下水層を発見した。1932年(大同元年)9月、大同公園内に深井戸を築造したのを始めとして、新京各地20箇所に水源井を設け、1日あたり11,000の涌水能力を保持したが、地下水による給水量にも限度があり、改めて新京全人口に対する水道計画樹立を認め、新京市街から南東12kmにある伊通河支流の小河台河を堰き止めて貯水池を設けた。堰提の長さ550m、貯水面積4.7km²、総工費350万圓、1933年(大同2年)10月に現地調査を開始し、1934年(康徳元年)5月着工、1935年(康徳2年)10月(附帯設備は11月)に完成した貯水池は「浄月潭」と命名された。

上水道は1937年(康徳4年)末の第一期建設事業の完成に伴い、市水道科に引き継ぎ施行された。1936年(康徳3年)1月に於ける1日の給水能力は32,000m³を保持したが、1939年(康徳6年)度より給水量の不足が感じられたため、1940年(康徳7年)に3ヵ年継続事業として工費713万圓を投じて第2次拡張工事を実施した。浄月潭貯水池からの取水量を10,000m³増加し、更に伊通河地表水を1日20,000m³取水して合計30,000m³に増加、これに伴う浄化送配水設備を増設し、既存の分と併せて合計62,000m³を確保した。しかし、新京特別市の異常な発展により給水量の増加が著しく、計画給水量1日62,000m³を即に消費しつつあったため、抱擁人口100万人を目標に1942年(康徳9年)度より第3次拡張工事として飲馬河の流水採取を企画した。

なお、浄月潭貯水池の上流には水源林を目的とした植樹が行われ、現在では中国最大級の人工林とされている。1988年に「浄月潭国家森林公園」に指定され、浄月潭と併せて中国国家風景名勝区中国国家4A級旅游景区等に指定されている[43]

下水道 [編集]

新京では、国都建設局顧問の佐野利器の強い要望により、新市街全域で水洗便所の普及を実施した。当時の中国大陸の各都市では一般的に便所が存在せず、井戸に汚物が流れ込むなど極めて不衛生だった。新市街においては建築規則に基づき強制的に実施して、100%の便所の水洗化が達成され、アジア初の水洗便所が全面普及した都市となった。汚水は伊通河河畔の汚水浄化施設で処理された後、河川に放流された。

下水道は新市街では汚水と雨水を分ける分流式が全面的に採用され、その他の地域では合流式が採用された[44]。雨水は新市街を流れる伊通河支流を堰き止めた人工湖(雨水調整池)に蓄えられ、非常水源として確保された。また、伊通河支流は総て親水緑地帯とされ、人工湖を利用した臨水公園が建設された。この結果、新京は世界最高水準の緑化・親水都市の様相を呈するに至った。

下水道は1937年(康徳4年)末の第一期建設事業の完成に伴い、土木科に引き継がれて管理経営すると同時に、新設も土木科で行う事とされた。下水道計画は地形に応じて9箇所の独立した排水区域に分割し、更に50余りの排水系統に分けて、分流式及び合流式により伊通河へ放流した。下水工事の完成区域は、1943年(康徳10年)時点で安民大路、至聖大路以北の殆ど全市にわたり、敷設延長は43万mに及んでいる。




家々に水洗便所まで完備した、当時の日本国内より遥かに近代的な都市を創ろうとしていたのだ。
下水道は雨水と生活排水を分けて排水する分流式で、雨水はそのまま川に流し、汚水は処理して流していた。

おそらくこの街の都市設計をした人達は楽しかったと思う。年若い設計者であっても意見が採用される可能性があったと思う。
日本国内で高速列車を走らせようとしていた島安次郎は、日本に普及した狭軌という軌道幅(1067mm)がネックとなって、標準軌(1435mm)の高速列車を走らせる事をあきらめ大陸へ渡った。
そして満鉄理事となりアジア号を作った。
尤も設計したのは設計責任者の吉野信太郎だったが。
そして安次朗の息子が戦後親父の意志を継ぎ新幹線を作る事になる。




国内では思うように出来ない閉塞状況にあった若者達にとって、満州は思い通りの夢を自由に描ける場所だったろう。
理想と希望に胸を熱くして仕事に没頭したことだろう。
新京という街は一攫千金を夢見る者、日本で食えなくなった者、自由に活躍出来る場所を求めてきた者、雑多な人たちが集まって作り上げた混沌とした街だったのだろう。



公園




児玉公園は元々は西公園と呼ばれていたようだ。
日露戦争を勝利に導いた児玉源太郎にちなんで名付けられた。

児玉は台湾総統として台湾の近代化に貢献し、且つ内務大臣をも兼任して居たが、露戦計画を立案していた参謀次長の田村怡与造が急死したため、大山巌参謀総長から特に請われ、降格人事でありながら両職を辞して田村の後任を引き受ける。日本陸軍が解体する昭和20年(1945年)まで、降格人事を了承した人物は児玉ただ一人である。1906年(明治39年)7月13日南満州鉄道委員長になったが23日には脳溢血で死亡している。

日露戦争終結後10ヶ月後の事であり、戦争の激務が死期を早めたのかも知れない。
日露戦争の勝利へのシナリオは児玉が書いたのかも知れない。
戦費調達、ロシアの内乱を誘発させる工作活動、日本周辺の海底ケーブルの敷設による情報収集能力の充実、終戦後のシナリオまで、一本の映画を始めから最後まで作りあげたのは児玉なのかもなあ。
乃木が攻めあぐねていた203高地を、東京湾に設置していた28cm榴弾砲を突貫工事でコンクリートの基礎に固定し砲撃、わずか一日で203高地を攻略する。
現場の指揮官としても抜群に優秀だった。





児玉源太郎の銅像

伊通河の支流の周辺は公園になっている。児玉公園、大同公園、牡丹公園、順天公園、動植物園等がそうなのだろう。
自然河川をそのまま生かして市民の憩いの場にしている。

札幌なんかも豊平川の支流、鴨鴨川の水が中島公園の池を作っている。何となく札幌市に似た景色だったような気がするなあ。
とても緑の多い街だったと思う。
大同公園なんかは飲料水の確保のために井戸も掘ったらしいので、その水も流れているのかも。

江戸なんかもそうだけれど、都市というのは発展するにつれ飲料水の確保が問題になる。
そしてその水を動脈や毛細血管の様に張り巡らせた給水管で給水する。
使われて汚れた水は集められ処理されて川に流される。
都市というのはそれ自体生き物に似ているなあと思う。




  

李香蘭こと山口淑子が所属していた満州映画協会って何処にあったのだろうと調べたら上の場所にあった。
官庁街のど真ん中だね。国策映画だからか。
満州映画協会の二代目理事長は甘粕正彦。

1923年9月1日に起きた関東大震災のどさくさに乗じて、9月16日、東京憲兵隊麹町分隊長の甘粕はアナキスト大杉栄伊藤野枝とその甥・橘宗一(7歳)の3名を憲兵隊本部に強制連行の後、虐殺し、同本部裏の古井戸に遺体を投げ込むという、いわゆる甘粕事件を起こした。

ということになっているが、甘粕の満州での行動や言動、周囲の人たちの評判を聞くとスケープゴートにされたのではないかと思う。
甘粕自身も酒席で「自分はやっていない。」と言っている。
刑務所に3年服役した後ひっそりと釈放され、しかもその後官費でフランスに留学しているのもおかしい。
フランスから満州に渡り、予備役で関東軍特務機関で諜報、謀略工作を行う。
1939年に満映の理事長になる。



あれこれ新京に住んで居た人のホームページを調べていると「あれ?これ地図の此処の事じゃないか。」と思うことがある。

http://www.asahi-net.or.jp/~mf6t-tkhs/man_1.htm

このホームページの作者が住んでいた寮は下の「電業社宅」らしい。

渡満したときに入寮した「都南寮」は、(資料がなく極めてあやふやな記憶ですが)男子ばかりの独身寮で、収容人員2000名、地下には室内プールがあり、裏にはサッカー・コート、野球のグラウンド、テニスコート8面があり、電業病院もある…東洋一の社員寮だと誇っていました。

地下にプールまであったのか。
サッカーコートではなく地図ではラグビー場になってるね。



動植物園




植物園、水族館もあった。
どういう動物が居たかというと、満州鹿、赤鹿、山羊、綿羊、シロクマ、狐、狸、ペンギン、海獣、キリン、象、高等猿類、水牛、猛禽類、虎、ダチョウ、カバ、タルバカン(リスの仲間)猿山もあるし児童遊園地もある立派な動物園だ。
動物園に隣接して各種競技場があり、現在もほとんど同じ場所にあるようだ。



園内のレイアウトは大分変わったようだ。重ねるとこうなる。




教育施設








南湖と連合法衛

こうやって昔の地図と現在の衛星写真を較べると、日本が残した建物がそのまま使われていることも多い。
殆ど何もない土地に道路を造り上下水道、鉄道、電気を引き、街を作った。
巨大な費用と労力が費やされたと思われる。
1932年に約10万人だった人口が1944年には86万人に膨れあがっている。

YOUTUBEで捜すと新京の動画があった。

http://www.youtube.com/watch?v=7LAAM2JSnr4

http://www.youtube.com/watch?v=tir3-u3OL8Y&feature=related


70年も前の映像だ。

行ったことも無いのに懐かしい気がする。