江戸
東京という町はやたらと川が多い。水上バイクで通勤した方が早いのではないかと思う。
これらの川のほとんどは人工的に作られた堀だ。
江戸というのは江戸城、今の皇居を中心にして「の」の字に堀を作っていった町だ。
「の」の字の尾の方をくるくる回していけばいくらでも町を広げることが出来るという考えで徳川家康が城下町を作った。
「江戸」とは海水が入り江に入り込んだところの入り口という意味で、家康は1590年(天正18年)に江戸城に入ったがその当時、江戸城のすぐ目の前は日比谷入り江と言う遠浅の海だった。その当時の海はどのあたりまであったのかと調べてみようと、衛星写真と昔の河川の描かれた地図を重ねてみた。
これには縮尺をあわせ方向も微妙に調整せねばならず、えらい苦労をしてしまった。
こういう努力を仕事に向けていれば家のもう一軒ぐらい建っていたかもしれない。
まあ、そうやって苦労して作ったのが下の写真だ。
画像をクリックするとでっかい写真が見られる。
1602年(慶長7年)関ヶ原の合戦の2年後
江戸の町作りは陰陽学を元にしてなされた。
陰陽学では町作りをするに当たり東に青竜が宿る川、南に朱雀が宿る池か海、西に白虎が宿る道、北に玄武が宿る山を配置するのが良いとされている。
それで平川を青龍に、江戸湊を朱雀に、東海道を白虎に、麹町大地から富士山を玄武に見立てるように大手門を作り町作りを始めた。
1608年(慶長13年)6
6年後の1608年(慶長13年)の地図を見ていただくとわかるように日比谷入り江が埋め立てられている。
これは家康が江戸城を建てるための資材を荷揚げするための船着き場をもうけるために神田山を切り崩し運んできて埋め立てたのだ。
元々家康が江戸に入城したときには太田道灌が建てた江戸城があり、荒れ果てていたのを補修しながら使っていたのだが、家康が征夷大将軍になり江戸に幕府を置くこととなり、それにふさわしい城を建てることとなった。江戸城の堀は元々海を埋め立てたところだから石垣を作るには工夫が必要だった。
松の木を並べて筏を組みそれを杭で固定してその上に石を置いていったが、石垣が崩れて多数の死人が出た事もあった。
それを聞いた加藤清正は武蔵野に生い茂っている茅を刈り取らせて泥の中に敷き、子供たちを集めて泥遊びをさせ地面が固まってから石垣を築いたため、時間はかかったが地震にもびくともしない石垣が出来たと云う話である
石垣の石は伊豆から、木材は利根川上流や木曽の山で切り出され1年かけて運ばれた。
江戸城の本丸が完成したのは1606年の事である。その後幾度か立て替えられている。
江戸のように「の」の字に堀を作りそこから放射状に街道を造ると沢山の橋が必要となる。
実際江戸の頃から東京は橋だらけだ。
江戸から放射状に延びる道は東海道、大山道、甲州道中、上州道、中山道、奥州道中があり、その起点となるのが日本橋だ。
堀にかけられた橋のところには「見付」という城門があり江戸町中の一般人の出入りを改める幕府の侍が番をしていた。
神田山が切り通され小石川の水が平川でなく、神田川から隅田川に流れるようになっている。
これによって外堀が出来た。この大工事は伊達政宗が担当し1620年(元和6年)秋に完成した。
ついでに云うと「神田川」というビンボ臭い歌があるが神田川という名称は1960年代になってつけられた名前だ。
1644年(生保元年)
このように年代別に見てゆくと江戸が「の」の字状に拡大してゆくのがよくわかる。
江戸というのは堀を掘ったり山を崩したりしてその土で海を埋め立てて作った町だ。
それは現代でも同じだ。
江戸の人口調査は1721年(享保6年)に初めて行われたがその当時で130万人、ロンドンでさえ1801年でやっと85万であるから、いかに江戸が巨大都市であったかがわかる。
これだけ巨大になると飲料水の確保が大変だ。
特に埋め立てた土地では井戸を掘っても海水混じりの水しか出ない。真水の水脈まで掘るには莫大な金がかかる。
それで上水道を作る必要があった。江戸市内の上水道の総距離は150kmになったと云う。
開発当初は赤坂溜め池や神田上水を引いて使用してきたが、それでは間に合わなくなり玉川上水を引いた。
現在の玉川上水の名残
玉川上水は水量が多く、江戸市民の水をほとんどまかなった。
上水道は途中から地下に木管を埋め配水された。水道橋という地名は井の頭池の水を江戸市中に引く際、途中の神田川に上水を渡すための橋を造ったからだ。
矢印が水道の掛樋と思う
しかし18世紀になると大阪からあおりという井戸を掘る技術が導入され、安価に井戸を作る技術が取り入れられ、上水道に頼らなくともすむようになった。
お茶の水の水道橋。手塚治虫が大阪から東京にやってきたとき、お茶の水という地名に興味を持ちお茶の水博士という名前をつけたそうだ。
かつて順天堂病院のあたりにあった高林寺の境内に名水が涌き、2代将軍秀忠が鷹狩りの帰りに立ち寄ってお茶を飲み、それ以来、将軍家御用のお茶の水にされたのが、お茶の水の由来だということだ。
神田上水は水源を現在三鷹の森ジブリ美術館のある井の頭恩賜公園の池の水とすぐそばの善福寺池の水,妙正寺川の水に求め、大洗の堰で合わせて水位を上げ、その勢いで小日向台の南麓を流れて水戸屋敷(後楽園)に入り、埋樋で屋敷を出ると、掛樋で外堀を渡って、神田・日本橋地区へ給水されていた。
江戸市内へは地下に木樋を埋めて給水した。
大きな管では120から150cmくらいあったらしい
土中に樽状の物を埋め木樋から竹の管で水を引き井戸として使った。これはあくまでも飲用水で洗濯などに使う井戸は別にあった。飲料水は貴重であるからだ。現代と同じように水道料金(水銀)を徴収されており、その金は水道管の補修や新たに上水道を引くために使われていた。
神田上水を作るに当たって松尾芭蕉も工事に参加したらしい。
現在目白に芭蕉庵と云うところがあるが、それは芭蕉が工事の折住んでいたのを偲んで建てられた。
関口上水芭蕉庵椿山 江戸名所百景 広重
上の絵の駒留橋の右手に大洗の堰があり神田上水と江戸川とに分かれる。
大正時代の大洗の堰
「春」という唱歌がある。
春のうららの隅田川という奴だ。
淡谷のり子が青森から東京に出てきたとき隅田川の河畔の桜を見て、「東京ってなんて美しい町だろう。」と感激したそうだ。
その頃の東京はあの歌に描かれている様な美しい町だったらしい。
我が家の母親もずっと東京の下町に住んでいたから、子供の頃の東京の話はよく聞いた。
北海道には歴史がないからこういった歴史のある町はうらやましい。
東京に住みたいとは思わないけどね、江戸なら行ってみたい。