激流に生きる男


知ってる人は知ってるが、知らない人は知らないだろう。
ま、当たり前か。
バタフライのドルフィンキックは日本の長沢二郎が発明したのだ。
それまでのバタフライの足の動きは、カエルキックに上下のうねりを加えた物だった。
流石、海洋国日本だね。

でも、今の水泳という物はスピードを出すための泳ぎ方で、服を着た人間が川に落ちたとかいう場合あまり役に立たないのではないのだろうか。
重たい鎧、兜に身を固め、槍などを持った状態で敵の城の堀を泳ぐ為の古式泳法の方がいざというときには役に立つ気がする。

水兵服のラッパズボンなんかは海に落ちても脱ぎやすいように裾が膨らんでいる。
裾を縛って空中で振って空気を入れ、腰の部分を縛り浮き袋の代わりにする。
しかしサラリーマンが川沿いの道路を歩いていた時に、突然鉄砲水が襲ってきて川に流された時にどう対応すればよいのだろう。
ビルの林立する都会のどこから鉄砲水がやって来るんだよ?!
というあなた、災害というものは何時何処で発生するか解らない。
オウムの事件だって、阪神大震災だって、9.11だって、映像を見た時、まさかそんなことが、、、と思ったのではないですか?
だから都会のど真ん中に突然鉄砲水が発生してもおかしくないんだ!と、言ってみる。

あなたは凶暴な水の直撃を受け川に落下してゆく瞬間、

「一体これは何なのだろう。夢なのか?」

と思うだろう。
水面に落下した時の衝撃も濁流の音が酷くて感じられない。
水中で身体が木の葉の様に翻弄されている。
目を開けるが、暗くて見えない。
ゴーゴーという音だけが聞こえる。
やがて頭が水面に浮かび上がり、濁流の轟轟たる音に自分が置かれた状況をおぼろげながら悟る。

この時あなたがやるべき事は、何ヶ月も足を運び、ようやく取り付けた契約の書類の入った鞄を投げ捨てることだ。水が入って重くなるし、第一手がふさがって泳げなくなってしまう。
それから彼女との愛のメールのやりとりが記録されている携帯も躊躇無く捨てよう。
少しでも浮力を確保したい。

スーツを脱ぐのはこの状況では適切でない。
身体を流れてくる物から防御するためだ。
近くに流れてくる浮力のありそうな物に掴まろう。
布団が流れてきたら掴まろう。
この場合綿の布団は水を含んで沈んでしまうから、化繊の物がよい。

畳が流れてきたら布団は放り出し畳に掴まろう。
余裕があるなら水の寒さから身を守るため、畳の上によじ登ろう。
寝ころんでくつろいでも良いし、茶道の道具でも流れてくればお茶を点てても良い。
湯はどうするんだって?
コンロくらい流れてくるだろう。

運が良ければ空気嫁が流れてくる。
その時は畳を蹴って空気嫁に飛びつこう。

「愛子、ずっと探していたんだよ。こんな所で会えるとは、、、。思い返せば10年前、こっそり隠し持っていたお前を母親が掃除で見付けて、他のゴミと一緒に収集車で運ばれてゆくお前を、『愛子カムバック〜!』と叫びながら何処までも追いかけ続けたなあ。地球半周はしたかなあ。」

と再会の感慨を味わおう。
何よりも浮力が大切なのだ。

幹事長の椅子が流れてきたら、すぐさま空気嫁の栓を引き抜こう。
空気嫁は空気を吹き出しながら、ひらひらと濁流の中を流れ去ってゆくだろう。

幹事長の椅子によじ登り、柔らかいクッションに身体を沈めれば、天下を取った感慨に浸れるだろう。
すると隣を総理大臣の椅子に座って流れてゆく、痩せたぎょろり目の男が居る。
君はこう言わなければならない。

「君、その椅子は誰の座る椅子なのかい?本当はこの私のための椅子なんだよ。」

するとぎょろり目の男は言うだろう。

「この椅子はママがぼくちゃんに買ってくれた椅子なんだよ。何故君はそんな言いがかりをつけるの?僕は命こそが地球より重たいと思ってるんだよ。そんな政治家今まで居なかったじゃないか。僕の理想と総理の椅子さえあれば必ず地上の楽園は実現するんだ。」

君はこう言う。

「この青二才が!私が幹事長の椅子に座るために、どんなにあくどい事をしてきたと思うんだい。
権力さえ握れば法律なんかどうにだってなるんだよ。
時間との戦いなんだ。
捕まる前に誰も手を出せない存在になれば上がりなんだよ。
君の空想的理想主義なんて政治の世界では役に立たない。
力、すなわち金が正義なんだ。」

と言って総理大臣の椅子を蹴飛ばすと、ぎょろり目の男は総理の椅子から転がり落ち

「あれ〜!なんて乱暴な事するんだい。ママに言いつけてやるぞ〜!」

と叫びながら濁流の中に消えていった。

幹事長の椅子にふんぞり返りながら、ふと横を見ると、何やら赤いカプセルの様な物が流れてゆく。
尋常な量ではない。
おびただしい数が次から次へと流れ去ってゆく。
まるで「風の谷のナウシカ」の王蟲の大海嘯の様だ。

幹事長の椅子から、流れゆくカプセルの一つに馬乗りに飛び乗った。

「失礼ですが」

と君は言う。
先ほどまでの傲慢さは何処に行ってしまったのだろう。
あの椅子は呪われて居たのだ。
誰でもあの椅子に座ると権力を自由自在に行使できる、世界は自分の思い通りになるという錯覚に捕らわれてしまうのだ。

「どなた様なんでしょう」

君は訊く。
するとカプセルは丁寧にお辞儀をしつつ名刺を差し出す。
そこには

「生命エネルギープラント係長 水戸 混怒離亜」

と書かれていた。
ミトコンドリアがどうして名刺を持ってるんだよって?そんなこと知らないよ。だって持ってたんだもん。

「何かご用でも?私はただのサラリーマンですが。」

と人の良さそうな笑顔を見せた。
何処にでも居るふつーの人だ。いやミトコンドリアだ。
地味でこつこつと仕事をこなしてゆく小市民だ。

「いやー、あんまり沢山水戸さんのお仲間が流れて来るんで、何事があったのかなあと思ったんですよ。」

というとミトコンドリアははにかむような、ちょっと困ったような顔で

「いえね、今会社の状況がちょっと危ない物ですから、寝る間もなく働かなければならないんですよ。会社あってこその私たちなんですから。
私たちは会社の為なら死ぬことも厭いません。
いや、もともとそう作られている。
203高地を目指してばたばたと撃ち殺されてゆく兵隊みたいな物なんです。
消耗品。
DNAを焼き焦がす危険極まりない酸素を使ってATPを作る、一人放射能ジャジャ漏れ原子力プラント。

これでもサラリーマンやる前は自分で仕事してたんですがね、ちょっとは目先が利いて、図体はでかいが動きが緩慢な間抜け野郎を食ってやろうと潜り込んで見たんだが、何故か居心地が良くて、俺の行動力とこいつの大人振りが組み合わさったら大きな物が出来るんじゃないかと思ったのが運の尽きでした。
私にも活性酸素からDNAを守ってゆきたいという事情もあって、DNAの大部分を会社の金庫に預けてしまった。
そしたら会社と私は運命共同体として生きてゆくしかないじゃないですか。

私個人は滅びても、私がその一部である会社という物は生きてゆく。
そういう選択をしてしまったんです。
でもそのおかげで会社はお互い同士繋がりあい、どんどん大きくなって、私なんかのあずかり知らない事業を展開するようになった。

私のしている仕事なんて会社のトップは気にも留めていないでしょう。
やるのが当たり前、経営が傾いた時に調べて初めて私の存在に気がつく。
如何に私たちが経営を献身的に見えないところで支えていたのかを。
私は全国にあまたある支店の一つに勤めてますが、私の支店はつぶれるために作られたんです。支店がつぶれなければ、あなたの指の間にはカエルの様なひれがあった筈なんですよ。」

そう言うとミトコンドリアはちょっと悲しそうな笑顔を見せた。
突然またがっているミトコンドリアの身体が光り始め、胴体の一部に小さな穴が開き、それが次第に広がってゆく。
ドーンという破裂音と共に玉が花火のように空中に飛び出した。
それが合図だったように周りのミトコンドリアからも次から次へと花火が上がる。
またがって居たミトコンドリアが光を失い風船のようにしぼんでゆく。
あれはアポトーシス(プログラム細胞死)の合図だったのだ。

天蓋がゆがんだような気がする。
遠くでなにか大きな事が起こっていると直感する。
天蓋はやがて野球場のドームのようにあなたの身体に覆い被さってくるだろう。
それは柔らかく、透明で、暖かくあなたの身体を包み込んでゆくのだ。