ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日
2014年01月27日
インドからアメリカに移民しようと乗った船が難破して、一緒に難破した虎と漂流していた。
虎の名はリチャード・パーカー。
虎に付ける名前では無いが、買うときに売り主の名前を虎の名前と勘違いして付けてしまったのだ。
船と共に海に沈んだ親父は、インドで動物園を経営していた。
動物園を畳んで動物たちをアメリカで売り払らって、再び生活を一から始めようと一緒に日本の貨物船に乗った。
その船が嵐にあって転覆し、家族は船と運命を共にしたが、たまたま私は運良く救命ボートに乗り込むことが出来た。
他に救命ボートに一緒に乗り込んだのはシマウマと、ハイエナと、オランウータンで、食料も水もない救命ボートの中でこんな状態になれば結果は目に見えている。
最後に残ったのは虎と俺、しかも救命ボートの主は虎で、俺はあり合わせの材料で作った筏に避難して救命ボートに繋がれている有様だ。
まあ、この時のいきさつは「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」という映画を観て貰えば分かると思うのだが、此処では映画の中で語られなかった出来事について話したいと思う。
漂流中にちびた鉛筆でサバイバルマニュアルにしたためた日記を嵐の中で風に飛ばされてしまったので、おぼろな記憶をたどるしかない。
漂流を始めて一と月経った頃、ようやく水や食料を自力で調達できるようになり、虎のリチャードとの関係もある種の均衡状態に落ち着いた。
そこに至るまでの苦労は大変なものだった。
何せリチャードの食料を確保しなければ、こちらが餌になってしまうのだ。
雨水を貯め飲料水を作り、たまたま筏の上に飛び落ちたトビウオや、サバイバルキットに用意されていた釣り針と糸で魚を釣り、それをリチャードと分かち合って生き延びていた。
その頃にはリチャードは私が居なければ食料が手に入らないし、私にしてもリチャードが居る事で孤独を感じないですんでいた。
お互いを必要とする運命共同体になっていた。
悲惨な状況であるには変わりはないが、今日を生き延びる希望も見えてきた。
そんなある日暴風雨がやってきた。
閃光と雷鳴と激しいうねりに翻弄される筏の上で一晩中耐えた翌朝、空は嘘のように晴れ上がっていた。
うとうとと眠っていたら、遠くから船のエンジンの音が聞こえたような気がした。
今まで幾度も幻聴を聞いては失望していたから、今回も同じだろうとまどろんでいた。
しかしエンジンの音はだんだん大きくなってきて、こちらに向かって来るようだった。
飛び起きて見ると嵐のうねりの名残が残っている海を、上下に揺れながらまっすぐこちらに向かってくる小型船が見えた。
これで助かったと思い、大声で叫び両手を振った。
やがて船は筏の所に停止し、白いパナマ帽に白いシャツ、白いスーツを着た男が船縁から顔を出した。
首から名札と,何に使うのか分からない携帯電話のような物をぶら下げた東洋人の男で、明らかな作り笑いで白い歯を見せて言った。
「こんにちは、NHKの者ですが視聴料の集金に伺いました。」
私は彼の言葉の意味が分からず問い直した。
「NHKって何の事でしょうか。この状態を見れば分かると思いますが、私は船が難破して漂流している最中なもので、助けていただきたいんですが。」
すると男は
「これは失礼いたしました。NHKとは放送法に基づいて1950年に、あまねく日本全国において受信できるように豊かでかつ、良い放送番組による国内基幹放送を行うとともに、放送及びその受信の進歩発達に必要な業務を行い、あわせて国際放送及び協会国際衛星放送を行う日本放送協会の略称でありまして、、、、」
とNHKなるものの成立から現在に至るまでの歴史を延々と述べ始めたので、話の腰を折り
「そんな事はどうでも良いので、私をあなたの船に乗せて貰うとか、ロープで牽引して貰うとかして貰えないでしょうか?」
と言うと
「残念ながらそれは私の仕事の範囲外なので出来ません。私はただ受信料の徴収に伺っただけなので」
「受信料って言ったって大体私はインド人で日本人ではありませんし、この状況ではテレビもラジオも持っていないのは明白でしょう。その私が何故日本の国営放送の料金を払わなければならないんですか!」
と怒りを込めて言うと男は
「NHKとは先ほども言いましたが日本放送協会の略称でございまして、国営放送ではないのです。従って視聴者の皆様の受信料によって組織が運営されておりまして、こうして受信料を徴収して回っている私の給料もその一部でまかなわれている次第でございます。
あなたは日本の船に乗っていて難破され、今漂流なさっているのですよね。船に乗っている間テレビはどのような番組をごらんになりました?」
「それはまあ、日本の船員達が見ているテレビですから、ジャパニーズ レスリング、、、スモーっていうんですか?とか見ていましたが。」
すると男はわが意を得たりとばかり笑顔になり
「そうですか、その相撲中継をしているのが、我がNHKなのです。これで私があなた様に受信料の請求に伺った訳が納得していただけたと思うのですが。」
「はぁ?全然納得がゆきませんが!私はただ日本の貨物船に乗船していただけで、 これがアメリカの船でも、イギリスの船でも良かったわけで、何でたまたま日本の船に乗っていたからという理由で受信料を払わなければならないのですか?請求するなら船会社でしょうが!」
「実はですね、、その船会社が船舶保険の書類の手続きミスで保険金を受け取ることが出来ず倒産してしまったのですよ。
それで私どもは苦労して乗員の皆様を捜し出し、ひとりひとり受信料の請求に伺っているわけで」
「それは何ともベラボーな話ではありませんか?私には全く納得行きませんので支払いは拒否いたします。」
「それはご自由に。
しかしそういうことであれば我々はあなたに対して訴訟を起こさせていただきますよ。
過去の日本国の地裁の判決では被告が勝訴した例はありません。
裁判にはお金がかかります。
負ければ費用はあなた持ちと言うことになります。
それでもあなたは受信料の支払いを拒否なさいますか?
私なら莫大な裁判の費用を払うよりは、受信料を払うことを選びますね。
実際殆どの方がそうなされています。
それが利巧な対応というものです。
なんてったって私たち天下のNHKです。
愚昧な民衆を導いてゆかなければなりません。
私たちとシナ朝鮮の、、おっと、、人類の行くべき正しい道を指し示すのが私たちの仕事なのです。
そのためにはお金が必要で、その金を集める最前線の仕事をしているのが我々受信料の集金人で、如何に罵倒されても必ず私たちは正義の為に戦います!!」
と「サクラ大戦」の「真宮寺さくら」の様に虚空を見上げてきっぱり言うので、
私もこの不毛な会話にうんざりしていたことゆえ、受信料を払うことを約束して、今は現金の持ち合わせが無いことを告げ、銀行振り込みにする契約書にサインをした。
サインをし終えて私は男に聞いてみた。
「あなたのリストにはリチャード・パーカーの名前は載っていなかったんでしょうかねえ。」
男は名簿のリストを調べていたが
「そういう名前の方はおられないようですが。」
という。
「リチャードも私と一緒に船に乗っていましたので受信料支払いの義務がある筈なんで、一度話してみたらどうですか?」
と言うと男は嬉しそうに笑い
「その方はどちらにおられるのですか?」
と聞くので
「その船の中に居ますよ。」
と、筏を牽引している救命ボートを指さすと、男は救命ボートに乗り移った。
その後の事は良く覚えていない。
男はまたNHKの成り立ちの事をリチャード・パーカーに説明していたようだが、リチャードの吠え声を聞き、男の悲鳴を聞いたような気もする。
その後も長く私とリチャードは漂流を続けた。
島全体が食虫植物のような所に流れ着き、危険を察知しかろうじて逃げ出した。
漂着して助けられ病院に収容されて居る時に、沈没した船会社の日本人二人が事故の詳細を聞きに来た。
漂流中の現実と幻想の境目が分からないままの状態で、虎のリチャード・パーカーとの227日間の出来事を話し始めたが、船会社の日本人達と話しているうちに、私はあまりに悲惨な現実から逃避するために人間を虎やオランウータンやシマウマ、ハイエナに置き換えていたのだと気付いた。あの食虫植物の様な島でさえ。
しかしそれから何十年も経った今振り返るに、いまだに分からないのはあの日本放送協会なるものの集金人の男の存在で、一体あの男は私の心の消し去りたい記憶の何を象徴していたのだろう。