旅の記録 1

いざ行かん  2013年08月01日

一と月も旅をするとなると準備が大変だ。
持病の薬も切れるから貰いに行かなければならないし、お盆にはゆけないから早めにお寺に行かなければならない。

純子の検査結果も聞きに行き、旅に行ってよい物か確認しなければならない。
結局純子の病気は急ぐ必要はないとのことで、帰ってきてから検査入院することになった。
いずれにしても命に関わるようなものではない。

そんなこんなであわただしかったが何とか準備完了。
あす最後のものを乗せ、ゴミを出し函館に昼までに着くようにする。
1日でなく2日に出発するのはゴミを出したいからだ。

函館から大間行き14:30発のフェリーをネットで予約。
ネットだと10パーセント割引きなのだ。
ぴぴが居るからフェリーが一番心配だ。
航行中は車に戻れない。

あまり暑いようだと発電機とエアコンを回さなければならないだろうし、荒れた天気で船が揺れたら耐えられるか?とか、船倉で大きな物音がしてオカメパニックを起こさないかとあれこれ考える。

まあ、その場になってみなければわからないが、要は慣れの問題だけで、何とかなるだろうとは思っている。

大間着が16:00でぴぴは寝る前の食事をする時間だから、そのまま大間で一泊することにしている。
予定では本州最北端の大間岬駐車場で停泊の予定だが、その後どうするかは決めていない。

生きていれば来年も旅は出来るから出来るだけ南に向かって走る予定。
東北の太平洋岸を走り仙台へ。
仙台の七夕祭りを見たり、昔住んでいた場所に寄り道したりしながら松本へ。

上高地の大正池の写真を撮り(美善ちゃんのご要望)後はイプシロンロケットの発射日時に合わせて四国、九州をぶらぶらと、、、と考えている。

札幌〜大間  2013年08月02日(金)

6時30分自宅発。
純子は朝3時から起きていたらしい。
まるで小学生の遠足のように前日は眠れず酒を飲んで無理矢理眠った。

札幌から千歳まで高速を走り、千歳から伊達まで走ったところでこのままではフェリーの出発時刻に間に合わないことがわかり、伊達から又高速に乗る。

今函館方面の高速は終点が大沼公園であることを知らず、高速で走った場合の時刻計算をしていたためフェリーに乗るのにぎりぎりの時間しかない。
何せ今の季節は出港70分前に乗船手続きを済ませなければならないのだ。

大沼公園のインターチェンジで一旦一般道に降り、七飯藤城のICから函館市内に向かう高速に乗る。
時間はどう考えてもぎりぎりか少し遅れる位だったが、急いで事故を起こしても仕方がない。

フェリーターミナルへの分岐道を間違えないように注意しながら走る。
北斗追分で降りなければならなかったのだが看板にフェリー乗り場の案内が描かれていなかったのでそのまま通過。
通過した後ナビを見るとやはり北斗追分で降りるのが正しかったようだ。

これで遅刻は確実。
次のジャンクションで降りるが反対方向の入り口がわからない。
辺りをうろうろした後ナビに打ち込んで走ったら、さっき出てきたところをそのままUターンすれば良かったのだ。

引き返して結局20分のロス。
燃料も少ない。
もう遅れてしまっているのだから燃料も入れることにして、道すがらのスタンドに入る。
店員にどこまで行くのか聞かれたので、何となく得意げに「鹿児島まで」と答える。

燃料の心配をせずに済むことにすこし安心する。
フェリー乗り場まであとわずかだ。

フェリー乗り場に着き、急いで乗船手続きをする。
ペット乗船の書類を出すと「車内に置きますか?」と聞かれる。
「無理なんでしょ?」と聞くと書類のオカメインコの記載を見て「ああ、そうですね。」と言う。
犬猫ならば専用の部屋があるようだ。
鳥なんかと旅する奴は居ないよなあ。

手続きをし終わったらすぐに乗船だという。
キャンピングカーは他に2台並んでいた。
一台は宮城、もう一台は大宮ナンバーだった。

船倉は予想していたよりも暑くなく、これなら窓を開けておけば1時間30分くらいならぴぴも我慢できるだろうと安心する。
津軽海峡だけは船で渡るしかない。
船倉には航海中は入れないから、大間に着くまでが心配だ。
でも波も穏やかだし何とかなるだろう。

14時30分定刻で出港。
函館山を左に見ながら大函丸は滑るように海を進む。
津軽海峡に出て多少うねりがあったが、殆ど穏やかな海で大間には16時に到着。

船中で無料のパンフレットを見ていたらちょうど今、青森のあちらこちらでねぶた(ねぷた)祭りの最中なのだとわかった。
明日は恐山に行く予定だったが、恐山で沼や寺を見るよりは絶対ねぶたを見るべきだという結論に達し、明日はもう一泊青森に停泊し、夜のねぶたを見ることにする。

あちこちでやっているが、五所川原の立佞武多(たちねぷた)は高さが20メートルもの山車が出るとのことで、ここを見ることにしようか。
田中りんご園の板柳町もすぐ近くだし。

と思って田中に電話したら五所川原立佞武多は無理矢理作ったので実はしょぼいとの指摘を受け、青森のねぶた祭りに行くことにした。

そして今は本州最北端の大間岬の駐車場にて停泊中。
まぐろ丼の弁当を買って夕食としたが、さすがに旨い。


  
 

就寝前の歯磨きがてらに岬を散策するに、田舎の村だとて静かとは限らないことを発見。
夜中に漁をする漁船はエンジン音を鳴り響かせながら港を出港してゆくし、岬のそばの居酒屋からは話し声が聞こえる。
おまけに近所で熊が出たらしく注意を促す車が走っている。

夜の岬から北を望むと函館山の山頂の灯りが見える。
点々と灯りが水平線に見えるのは、地球の丸さ故、水平線の下に隠れた函館周辺の町の灯りだろうか。

大間岬の赤提灯、心惹かれるのだが、まだ旅は始まったばかりなので今日は我慢することにする。
そも、純子はすでに高いびきなんです。

もう少し飲んで眠ることにします。


大間〜恐山〜碇ヶ関  2013年08月03日(土)

8月3日(土)AM4:00頃に眼が覚めて岬に行ってみるともう漁師が海で箱めがねを使って何かを捕っていた。
貝でも捕っていたのだろうか。

出航する漁船あり、帰ってくる漁船ありで朝の漁港は慌ただしい。
漁師たちも起きるのが早いが、キャンパーたちも早い。
何せ日が暮れるとすることが無くなるのだから寝酒を飲んで眠るだけなので起床も早くなる。

我々も6時45分には出発した。
恐山を見る時間はありそうなので、純子はあまり気乗りがしないようだったが寄ることにする。

昔「紙のプロレス」という自費出版の雑誌があった。
町のプロレス好きのあんちゃん二人(山口昇・柳沢忠之)が編集をやっていて、薄っぺらくざらざらした質の悪い紙を使っていて、いかにもチープだがやりたい放題の面白い雑誌だった。

寄稿者は殆どボランティアであったが、亡くなった消しゴム版画家の「ナンシー関」やら、個性的な人たちが関わっていた。

同人誌のような雑誌で次の号がいつ出るのか、果たして本当に出るのかわからない座敷童の様な雑誌であったが、中身は面白かったのでメジャー出版社から発刊されるようになり、上等な紙に印刷され、分厚くなり、毎月定期的に発行される様になった途端つまらなくなった。
あれは「雑紙のプロレス」であった頃がやりたい放題で良かったのだ。

その山口昇と柳沢忠之が罰当たりにも恐山でジンギスカン鍋をやるという企画があった。
霊場恐山で煙ももうもうとジンギスカン鍋などをやって祟られることは無いのだろうかと思っていたら、やっぱり「紙のプロレス」も廃刊となってしまった。

そんなことを思い出しながら恐山のつづら折れの急な坂道を、非力なキャンピングカーで上ってゆく。
道路脇にはやたらあじさいが咲いている。
標識ではあと15キロ等となっているが、曲がりくねっているせいか走れども走れども距離が縮まらない。

ようやく頂上にたどり着き下っていったが、これまた行けども行けども辿り着かない。
延々と走っていったら硫黄の臭いがし始める。
そのうち視界が開けると湖が見えた。

道路脇を流れる川から硫黄臭のする湯気が立っている。
湖は不思議な青さで、今まで暗い森の道を走って来た所為か、景色がとても明るく感じられる。

恐山という名前から、至るところでイタコの婆さんたちが霊に憑依されて白目を剥き口から泡を出して倒れていたり、訳のわからないことを口走っている姿を想像していたが、実際はイタコも居ないしとても静かで美しいところだった。
山道を登ってくるときに純子は

「あんた筋がいいねえってイタコにスカウトされたらどうしよう。」

等と言っていたが、幸か不幸かそんな心配は無さそうだ。

賽の河原と言っても

「ひとつ積んでは父のため、、、ふたつ積んでは母のため、、、」

と石を積み上げている子供は居らず、弟子屈町川湯温泉の硫黄山に転がっている様な岩に、
誰かが小石を積み上げたたものがあるばかりだった。
しかし小石に戒名が書かれていたりして、きっとずっと昔から亡き人を想い積み上げて来た人たちが居たのだろうと思う。


  


恐山を下り青森に向かって下北半島を南下。
途中浅虫温泉で風呂に入ろうと思ったら、道の駅浅虫温泉はホテルの駐車場のような狭いところで駐車できるスペース無し。
土曜日で目の前が海水浴場になっているから当然である。
あきらめて又走り出す。

青森には昼過ぎに着いたが、ねぶた祭りを見るには時間がありすぎる。
町中を走ってみると祭りの準備をしていた。
進入禁止のテープが張られていて、どうもこの調子では混んでいて大変そうだった。

それで弘前のねぷたはどうかと思って弘前に走ったが、これまた同様であっさりあきらめ碇ヶ関の道の駅で停泊。
碇ヶ関は秋田と青森の間の関所らしく門が立っていた。



碇ヶ関〜遠野 2013年8月4日


8月4日(日)6:50に出発。
高速は使わない予定だったが東北自動車道に乗り南下。
途中岩手山の山麓が右手に見えた。
一瞬だが頂上も見え山体の巨大さが想像された。

盛岡で高速を降りスタンドに寄り燃料と水を補給。
札幌を出てから3度目の給油だ。
スタンドで水も補給できることが分かり、今後の旅の目安が付く。

そして洗濯物。
旅とは生活だから服だって洗わなければならない。
ナビで探したらわずか10メートルくらいのところのコインランドリーがヒット。
なんか今日は何もかもうまく行く。

純子が洗濯をしている間自転車で近所を走る。
雫石川が流れていて河畔には野球場や菜園サイクリングロードなどがある。
緑の多い町だ。

洗濯を終わり高速で花巻へ。
花巻といえば宮沢賢治記念館とか羅須地人協会(らすちじんきょうかい)とか高村光太郎記念館とかあるがいずれも俺は過去に行っており、純子も興味が無いと言うので、100円ショップに寄る。

純子が腕が日焼けして皮が剥けてきたというので、ながーい手袋を買う。
それをつけるとなんだか「マダーム」という感じになる。

花巻から釜石自動車道に乗り遠野へ。
民話の里遠野は日本昔話のような風景で、空は快晴でとても気持ちよく走ることが出来た。
道の駅もとても綺麗で多くの観光客でにぎわっていた。
すっかり気に入ってしまい、ここで停泊してじっくりと観光をすることにする。

遠野といえば柳田国男の「遠野物語」、座敷童、そして何よりもカッパだ。
町はカッパであふれている。
道の駅のグッズはカッパばっかりだし、至る所にカッパの像が立っており、カッパロードなる新しい道路も建設中だ。

田んぼではひからびない様に時々薬缶に入れた水を頭の皿に注ぎながら農作業をしているカッパが居るし、コンビニに入れば愛嬌いっぱいの雌ガッパが応対してくれる。

回転寿司は「かっぱ寿司」のみ。
「スシロー」とか「元気寿司」なんて無いよ。
カッパのすし職人が握ってるんだが、カッパ巻きは必ず頼まないといけないよ。
「鉄火巻き」とか「かんぴょう巻き」なんか頼んだら客のカッパ達が一斉に驚いてこちらを見るし、職人も苦虫かみつぶした顔になるからね。

遠野には観光名所がいろいろあるのだが、5カ所を選択して1050円で巡れる周遊券みたいなものがあったので買う。
それを使って「遠野ふるさと村」に行く。

巨大な「南部曲がり家」が建っている。
曲がり家とは上から見るとL字型になっており、母屋と厩が繋がっている建物だ。
寒い南部の冬の寒さから馬を守るための暖房設備まで備えられている。
南部の農家にとって馬というのは大切な働き手、家族の様なものだったのだろう。

かっぱ淵というところがあった。
言い伝えに寄ればカッパが馬を水に引きずり込もうとしたら逆に厩まで引きずられてしまったという。

カッパ淵とはいうが田んぼの中を流れている小川で、とても淵といえるほどの深いところは無い。
キュウリを餌にカッパを釣り上げようと竿が仕掛けられているが、残念ながらいまだかつてカッパが釣り上げられた事は無いと思う。

  


遠野〜陸前高田〜気仙沼〜南三陸町〜野蒜海岸〜村田  8月05日(月)

8月5日(月)AM6:30 遠野出発、仙台に向かう。
太平洋岸を南下。
釜石、大船渡まではさほど震災の被害は無かったが、陸前高田から工事車両が増え始め埃っぽくなってくる。

町の方に下ってゆくと元田んぼだったのだろうと思っていた荒れ地は、良く見ると住宅が建っていたのだとわかる。
瓦礫の山、鉄骨が捻れて崩れ落ちている建物、木が伐採されて地面が剥き出しになった山、あちこちでうなり声を上げている重機、走り回るダンプカー、、震災から2年半経っているがこれしか復興が進んでいないのかと驚く。

  


陸前高田からさらに南下して気仙沼へ。
気仙沼の港の傍に中三デパートがあり、そこにカーリフトがあったので何度か点検に来ていた。

恐らく機械は使い物にならなくなっているだろうとは思っていたが、行って見るとデパートの建物そのものが無くなっていた。
被害が酷く撤去したのだと思う。

草が生えたり水たまりが出来た荒れ地に建物の基礎だけが残っており、まるで墓標のようだ。
流されてきた船がある。
鉄骨で倒れないように支えてある。
保存の動きもあったようだが今日撤去することになったらしい。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130805-00000021-mai-soci

そんな廃墟の中に新しいコンビニがあるが、良く見ればプレハブだ。
廃墟になっているのは海に近い辺りだけで、そのほかは陸前高田の様な壊滅的被害では無かった。
少し外れた所にプレハブの商店街も出来ていた。
港祭りのポスターも貼られていた。

  




志津川町(しづがわちょう)では昔、息子が小さい頃釣り宿に泊まったことがある。
うねりが酷く息子が船酔いしてしまって、船頭が引き返してくれたがあの船宿がどうなってしまったのだろうと気になっていた。
どうなるにも、海の傍には何も残っていないから津波に持って行かれたのだろう。

何も無くなってしまった所にさび止めの赤で塗られた鉄骨の柱だけが残されていた。
どこかで見た事のある風景、、そうだ、津波の避難誘導を最後までやって亡くなられた娘さんが居た防災センターの建物跡だった。

南三陸町って志津川町のことだったのか。
2005年に歌津町と合併して南三陸町となったらしい。
何もないところにそこだけ車がたくさん停まっているから、自然と気づいてしまう。
献花台があり花が飾られ線香が焚かれている。

すぐ傍では瓦礫の野積み作業が行われている。
南三陸町も建設作業に着手している状態ではなく、瓦礫の撤去作業をやっている状態だった。
三陸鉄道の線路は寸断され、駅のホームに立ってみるとレールが撤去されていた。

 






松島の北に位置する野蒜海岸も津波が押し寄せた所だ。
近くの田んぼも塩害で荒れ地になっている。
JRの駅もあったのだがもう完全に廃墟と化している。

どこもかしこも復旧作業の工事の車だらけだ。
何もなければこんな所に工事の車なぞ走るはずがない。

松島は湾になっていて島が点在しているので津波の被害は少なかったようだ。
昔カヤックをして遊んだ奥松島は野蒜海岸に接しているので被害があったようだ。
やはり田んぼが荒れ地となっていた。

松島を通って仙台に向かったが、さすがに日本三景で観光客でごった返していた。
仙台に住んでいた頃の家を見に行く。

家主が山歩きが好きな人だったらしく、山の植物が植えられた四季折々に見所のある素敵な庭だったのに、持ち主が変わったのかシュロやら松やらが植えられて「何がしたかったんだ?」と言いたくなる統一性のないちんけな庭になっていた。
そもそももう人が住んでいないらしく、入り口に段ボールなどが積まれていた。

仙台市内は停泊場所も無いので南下して村田の道の駅で停泊中。


 

 





村田〜角田〜南相馬〜飯館〜川俣〜福島〜安積PA 8月6日(火)

8月6日(火)AM7:00宮城県村田の道の駅出発。
福島県相馬方向に走る。

途中角田(かくだ)という町を通るとJAXAの研究施設があると看板に書いていた。
寄ってみたかったが反対方向だし時間も早いので相馬方向に走ると、H-2ロケットの実物大模型があるという事がわかった。

標識の方向を見ると確かにロケットの先端らしきものが見えたのでその方向に向かう。
台山公園という所の小高い丘の上に高さ49メートルのH-2ロケットと、発射台を模したのであろう45メートルのスペースタワーという建物が建っている。
近くで見るとかなりでかい。

こんな田舎にこんなものがあるなんて地元の人以外知らないだろう。
町おこしの一環なのだろうが、地方もがんばっている。




角田から南下し相馬、南相馬の道の駅に寄る。

道路の左右は元田んぼだったと思われるが、今は雑草が生えている。
津波が押し寄せて塩害で稲が植えられなくなってしまったのだろう。

南相馬から南の区域は立ち入り禁止になっていた。
ダッシュ村のある浪江町も行くことが出来ない。
辺りに家は建っているが人が住んでいる気配は無い。
住むことは許されていないのだろう。

Uターンして飯館村に通ずる山道を走る。
途中ものすごいにわか雨が降ってきた。
本州のにわか雨ってのは天が破けたかと思うほど凄まじい。
道ばたのグレーチングから水が噴き上げている。

山道は急な坂で、非力なキャンピングカーはのろのろと登ってゆく。
飯館村の家々は空き家らしい。
現在放射能除染作業の最中であった。
パトカーが巡回している。
火事場泥棒みたいな奴らがいるのだろう。

そんな風景ばかりを見てくると心も鬱々としてくる。
飯館村の先には川俣の道の駅があるのだが、こんな状況であるから閉鎖されているかもと思っていたら、だんだんと家の庭に花が咲いていたり、畑に作物が植えられていたり、人の生活の臭いが感じられるようになった。
そのうち学生が歩いているのを見つけ、この辺りからは人が住んでいるとわかった。

川俣の道の駅は駐車場が狭くごった返していた。
本来ならこんな田舎の道の駅にこんなに人が来るはずも無いと見込んでいたのだろうが、いわき方面への迂回路となってしまってにぎわっているのだと思う。





郡山〜松本 8月7日(水)


現在長野県松本市の道の駅「今井 恵みの里」にて停泊中。
昼間は気温が32度程あったがここは標高が700メートルあり、今は窓を開けて寝ると寒いくらいだ。
天気は快晴、星空だ。
今日も暑いだろう。

昨日は安積(あさか)のPAから東北自動車道、北関東自動車道、上信越自動車道と乗り継ぎ風呂に入るために小諸で高速を降りる。

近くの道の駅に温泉があるというので行ってみたら「雷電 くるみの里」という道の駅で温泉なぞ何処にもない。
道の駅の地図を調べたらもう一つ近くに「みまき」という道の駅があり、そこに温泉マークが描かれている。

本州の町、特に城下町は何処でもそうだが、車がすれ違うのも大変な細い道を通りながら「本当にこんな所に道の駅があるのか?」と不安になるような田舎道を走り道の駅にたどり着いたが、そこにはトイレと駐車場があるばかり。

道の反対には最近出来たばかりらしい温泉付き老人介護施設みたいな建物と、温泉施設があったが、道の駅にある売店なんかは無い。

昨日はPA泊で汗でどろどろになっており、風呂さえ入れれば良いので温泉の建物に入る。
温泉は今年出来たものだろう。
道の駅の方はトイレの古さから言って相当以前に作られたものらしい。

思うに、元々トイレと駐車スペースがあり、傍に温泉施設をつくったので「えーい、今日からここは道の駅だ。誰も通らないような所だが俺が道の駅と言ったら道の駅なんだ。」と村の権力者が村おこしのためにでっちあげた道の駅なのではないのだろうか。

風呂に入ってみれば年寄りしか居らず天気の話をしていたりしていて、近所の爺婆の社交場のようである。
年寄りが使うものだから混合栓の温度もストッパーが効くまで熱い方に回されている。
お湯も我々には熱すぎだったって、、そうか、我々も年寄りだったのだ。

風呂から出て松本市に通じる山道を悲しくなるほど非力な車でよじ登る。
周りは絶景といえるような景色ではあるが、止まらないだろうかと車の心配ばかりで景色を眺める余裕も無い。
頂上を越え、坂道が下りにさしかかると速度もあがりほっとする。

松本市に入り城下町特有の細い道を通る。
左は信州大学の医学部の病院だ。
学生達が自転車でうろうろしていて危なくて仕方がない。
ナビのとおり走ったらこんな道に誘導されたのだ。

75年ほど前、昨年お亡くなりになった母親が実は一度離婚していて、この松本市に住んでいたことがあったという驚天動地の過去がわかり、一度そこを訪れてみたいと思った。
来てみれば予想通りビル街であったが、まあ一応写真だけは撮っておいた。

午後1時ころではあったが、朝も早く出発し300キロ以上走ってきたので観光は翌日にして、とりあえず道の駅方面に走る。
途中郊外型大型ショッピングモールがあったので、食料を仕入れ「ガスト」で遅い昼食を摂る。

道の駅「今井 めぐみの里」もナビのまま走ると車もすれ違えないような細い道に誘導される。
後から調べるともっと走りやすい道があるのに、何故このナビはこんな細い道に誘おうとするのだろうか。

道の駅「今井 めぐみの里」は定休日で売店はやっていなかった。
したがってあまり人は居らず、車を駐車場の端に停め発電機を回しエアコンをガンガン回して車内を冷やす。

ずっと騒がずお悧巧にしていたぴぴと遊んでやる。
ぴぴはエアコンの風がお気に入りになってしまったらしく、どかそうとすると怒ってくちばしで威嚇する。

車が作った日陰に椅子とテーブルを置き、酒を飲みながら地図を広げ今日走った道に印をつける。
風が渡って気持ちが良い。
夕日が沈むのを見て車に戻る。
こういうのを幸せというのだろうか。







松本〜大正池〜信州蔦木宿 8月8日(木)


8月8日(木)松本市から上高地へ大正池を撮影に。
大正池の傍まで車で行けるのかと思ったら、途中の駐車場から上には一般車は入れないようだった。
それで駐車場に車を入れバスで登ろうとしたら、タクシーで相乗りする客を探していた。
埼玉から来た若い夫婦と相乗りだと言うので、こちらは構わないので一緒に行くことにした。

大正池までの道は急峻で道幅が狭く、バス同士がすれ違いのも大変だ。
そんな山道をタクシーもオートマチックのギアをシフトダウンしながら登ってゆく。
今は道路を作り直して道幅も広く、勾配も緩く二車線になったが、昔は大変だったらしい。
我々は大正池で美善ちゃんのために写真を撮るので降りたが、埼玉の夫婦はもっと上のホテルまで行くという。

大正池からは穂高や焼岳が見えた。
ちゃんと写真も撮った。
決してそこいらの沼を撮ってお茶を濁した訳ではないことを、美善ちゃんには報告しておく。
本当はそうしようかとは思ったのだが。

上高地から、来た道を引き返し松本へ。
松本から甲府方面を目指しナビに打ち込んだら、このナビは日本道路公団のまわし者らしく高速道路に誘導される。

非力なキャンピングカーは高速道路では邪魔者なので途中、諏訪のICで降りてゆっくりと走ることにする。
そろそろ洗濯物が貯まってきたのでコインランドリーを探すが、ナビでは見つからない。
うろうろして甲府方面に通ずる一般道を地図で探すために停車していると純子が

「ソフトクリーニングって看板あるんだけどなんだろうね?」

と言うので見ると目の前にコインランドリーがあった。
前回の盛岡でもそうだったが、コインランドリーは探すとすぐ傍にある。

最近ぴぴは4時には眠る癖が付いて、それ以上遅くなると騒ぎ始めるので4時までには宿泊地に着くようにしている。
人間のわがままにつきあわせているので、出来るだけぴぴの負担にならないようにしてあげたい。

それで時間を計算すると中央自動車道の小淵沢ICの近くの信州蔦木宿(しんしゅうつたきじゅく)という道の駅に停泊するのが良さそうであった。
ここには温泉もある。
脇を流れる川を境に長野と山梨の県が分かれるのだが、かろうじてこちらは長野県だ。

2時頃には到着し風呂に入って車でくつろいでいたら突然携帯の警報が鳴り、道の駅のスピーカーが奈良で「大地震」が起きたと放送する。
先日遠野にいた時にも地震があり、石巻で震度5だったので地震の覚悟はしていたのだが大地震とは東日本みたいなものだろうか。
でも奈良なら津波は無いだろう。

ニュースを見たいがここは山間でテレビが見られない。
道の駅のテレビなら何かわかるかも知れないと純子が見に行ったが何もわからない。
でもラジオでは和歌山でマグニチュード2だという。
そんなの大地震なのかなあと不思議に思っていたらやっぱり誤報だったらしい。

今回の誤報の原因はちゃんと突き止めて改善して貰わなければ、オオカミ少年の寓話の様な事になる。
明日はそろそろお盆の帰省が始まると思うので出来るだけ距離を稼いで四国、九州方面に近づく予定だ。








信州蔦木宿〜藤川宿 8月9日(金)


8月9日(金)かろうじて長野県に属する「信州蔦木宿」をAM6:30に出発。
数分走って山梨県に突入。

韮崎を通り白州(はくしゅう)の道の駅に着く。
白州の道の駅からは甲斐駒ヶ岳が見える。
道の駅の中にわき水があり自由に汲める。
当然飲用に適した水だ。

それを4リッターの焼酎のペットボトルに4本汲み、トイレの洗浄水に6リッター入れる。
完全に空では無いはずなので、トイレの洗浄タンクには相当の量の水が入るようだ。

釜無川の脇の道を下り「南アルプス市」に入る。
こんな名前の市があるのかと調べたら2002年に合併により誕生した市だそうだ。
残念ながら南アルプスは靄っていて見えなかった。

そこからフォッサマグナの西端、糸魚川静岡線の平坦な道を走って、身延町で本栖湖への山道に入ってゆく。
この辺りは木喰(もくじき)の故郷らしく、「微笑館」という木喰の記念館がある。

本栖湖にいたる山道の麓に「しもべ」という道の駅がある。
こんな山の中の道の駅に人が来るのだろうかと思ったが、結構来ているようだ。
ここでトイレのブラックタンクの処理をして、山道に向かう。

とにかくわが「モス2世号」は非力なものだから、曲がりくねった山道を黒煙を吐き出しながらのろのろと登ってゆく。
後ろに車が付いたら脇に寄り道を譲り、登ってゆく。

とにかくひいひい言いながらも登ってゆき展望台に着く。
本栖湖を眼下に見下ろす展望台から富士山の山麓とわずかな頂上だけが見えた。
純子はそれだけで感激していたが、この季節は富士を見るには適していないのか。
真冬なんかだと晴れた日にはとても綺麗な富士を見ることが出来るのだが。

1000円札の裏に描かれている湖面に逆さになった富士山はこの本栖湖で撮影された写真が元になっている。
そんな景色が見れれば良かったのだが。

本栖湖から富士山の西を海に向かって下って行く途中で白滝という看板を見かけたので
寄ってみる。以前富士山の伏流水が沢山の歳月をかけて崖から多くの滝になって流れ出している映像を見たが、そんな光景が見られないかと思ったらまさにその滝だった。
水の量が半端で無い。

そこから駿河湾方面に下り富士ICより東名高速に乗り、静岡でうろうろしたが都会は何処でも同じで見るものが無いので静岡ICより焼津の先の牧の原PAで停泊。
ここは風が強く吹いているので猛暑とは言え、耐えられるのではないかと思ったのだ。

しかし夜になると風が止み熱帯夜となり、仮眠をとった後名古屋方面へ出発。
金曜日でお盆の帰省と重なり渋滞が始まり、何十キロもののろのろ運転の後岡崎市の手前の豊川ICで降りる。
そこから岡崎市の道の駅「藤川宿」にAM2:00に到着。
現在停泊中なるもやはりここも暑い。

雫石や仙北で記録的豪雨による土砂崩れのニュースを見る。
つい先日この辺りを通ったときにもすごい豪雨だったが、タイミングがずれてよかった。