昔の思い出

地下に潜ってしまった川

地図を見ていると何故道がこんな変な形をしているのだろうと思うことがある。
大抵そういうのは元は川が流れていた場所である。

たとえばこの三角形の道路。此処は子供の頃に住んでいた白石区菊水の道路だが



此処の部分の年代別の地図を並べてみると

 明治29年版国土地理院5万分1「札幌」

 大正5年

 昭和10年

 昭和51年

上の赤い部分に小川が流れていた

中学校の頃の教師がこの辺りに住んでいてその教師が子供の頃には豆腐屋があったらしい。豆腐屋は水を使うからね。
小学生の頃この道を歩いて学校に通ったが、何時の頃からか工事が始まって川は地下を流れるようになった。

豊平に水車町というところがあるが、此処にも昔は川が流れていて水車がたくさんあった。

 大正5年版

上の写真の昇りかけた太陽の様なマークが水車だ。

 昭和51年版

昔は随分小川があった。
昭和30年代までは米里の辺りにも小川があってフナ釣りなどを楽しめたが、小川はすべて道路の下を流れるようになってしまった。これはモータリゼーションの結果か。

鉄道

札幌には今はなくなってしまったがいくつか私鉄が走っていた。
定山渓鉄道は1918年に開業し白石から定山渓の間を1時間30分で結び、温泉客や木材、豊羽鉱山の鉱石を運んでいた。
子供の頃何度か乗ったが、平岸のリンゴ林の間を走るときは手を伸ばせばリンゴが採れそうな、牧歌的な鉄道だった。
周りには水田が広がっていて、建物が無かったから月寒の丘の辺りも見渡せた。
その後トラック運送化の波に逆らえず昭和44年に廃線となった。


 

昭和10年版


北海道鉄道札幌線は1926年に開業した。苗穂と苫小牧の沼ノ端を結んでいた。
1943年に戦時買収により国有化され千歳線となり、函館本線から分岐して北海道鉄道の路線に合流することになった為、野幌の辺りまでの路線が廃止された。

昭和10年版

その跡地は南郷通の南側を走るサイクリングロードとして残っている。

昭和51年度版

川、沼

札幌は豊平川や発寒川が作った扇状地に作られた街だ。
JRの線路が扇状地の末端辺りで、それよりも北になると石ころが無くなるので地盤が軟らかい。
石が含まれている地盤は地下水をくみ上げても地盤沈下を起こさないが、土砂ばかりだと沈んでゆく。
我が家の周辺でも昭和47年から平成8年までの間に9.31センチ地下水位が下がっており、石の無い
泥炭で出来た土地だからちゃんとした造成をしていない所は土地が沈下しているようだ。

札幌市街の周辺部は起伏のあまりない土地であり、豊平川は暴れ川であったから何度も冠水した。
そのために治水工事が行われてきた。
現在の豊平川の雁来大橋より北の部分はショートカットされた人口の水路である。
工事は1932年(昭和7年)に始まり、1941年(昭和16年)に完了している。
蒸気エンジンを使った掘削機を使用した。
この年の12月には日本は真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入してゆく。



昭和10年

赤色の部分がショートカットされた部分で、緑が旧河川。
石狩川にゆっくりと蛇行しながら流れていた物を短くしたため、落差が大きく、河床が削れてしまうことが予想されたため途中に4メートルの床止工と云う物を作って解消したらしい。雁来の汚水処理場の所にある滝みたいな奴か?

昭和51年

川の氾濫を防ぐために川をショートカットすることは良く行われてきたが、札幌農学校工学科出身の岡崎文吉という人は、明治の頃から川をむやみにショートカットせず、川が蛇行するのはそれがもっとも流れやすい所を流れているのだから、自然の流れに任せて要所要所を直せば良いという考えを持っていた。治水という物は川だけでなく周りの森や環境まで含めて行う物であるという考えで、北海道の治水事業は当初、彼のこのような思想の元で行われる予定だったのが、そうならなくなった事についてはこのホームページを見ていただきたい。

http://homepage3.nifty.com/huchen/Obirame/reports/okazakibunkichi.html

明治の人間は本当に深い考え方をしている。目先のことではなく国家百年のことを考えて仕事をしている。
根底に人間というものは自然の一部で、自然を離れては生きてゆけないという思想があるのだろう。
現在でも彼の考えた、コンクリートブロックを針金で結んだ物で護岸する手法は海外で行なわれている。
思えば治水というものは昔から施政者の大事な仕事だった。
「信長の野望」なんかでも治水を上手くやると年貢が増え、治水に力を入れないと飢饉や一揆、疫病などが流行るからね。

下の地図は豊平川扇状地の昔の河川跡と土質を表示した物だ。
黄色い部分が扇状地堆積物、青緑色が三角州堆積物。うねうねとくねっているのが昔の川の跡。
こうしてみると豊平川がいかに氾濫して流れを変える暴れ川だったかがよくわかる。

拡大図

この地図は産業技術総合研究所 地質調査総合センターで発行している 「特殊地質図 札幌及び周辺部地盤地質図」の 1:30.000 CD−ROMから写させてもらいました。
札幌の年代別の5万図もこのCDも「地図と鉱石の山の手博物館」で売っています。

さて、我が家の方はどうなってるんだべか?と見てみると



赤いところは泥炭地を示しているからまさにど真ん中。
思えば35年ほど前は下手稲通りの周りは草ぼうぼうの湿地帯だった。
ちょっと北の方に目をやれば

手稲山口の辺りから花川に向かって黄色い土質が続いている。
砂丘堆積物を表している。
これは紅葉山砂丘で今は住宅が建ってしまったが、こんもりとした丘になっていた。
縄文時代の漁業遺跡なんかが出てきている。

昭和10年

何故こんな風に砂丘が続いているのかというと、昔この辺りは古石狩湾という海だったのだが、6500年程前に手稲山の大規模な崩落が発生し、土砂が海に注ぎ湾流に乗って砂嘴を作った。そのため内側は潟から沼地になって行き、海面の水位の低下と相まって砂嘴の内側の乾燥化が進んで行った。
紅葉山砂丘はサロマ湖の砂嘴みたいな物だったのだ。
従って我が家の辺りは元々は海で、低地だったところに草が生えて泥炭化していった所だから地盤が悪いのは仕方がないのだ。道路なんか波打っているもの。
この紅葉山砂丘より北は砂地である。
石狩川から流れ出る土砂が湾流に乗り海岸平野を作ったのだ。
昔電気屋の仕事で公園の街灯を立てるとき、1メートル四方くらいの穴を掘らなければならなかったが、この辺りはスコップがサクサク入って掘りやすかった。


衛星写真を見ると住宅が一杯建ってしまって砂丘の面影もない。それでも一部は残っているみたいなんで今度写真撮ってこよう。


ということで、紅葉山砂丘の跡地に行ってみたら、もう影も形もなく住宅街になってしまっていた。

この道路が砂丘の上にあった道路

砂丘に沿って流れていた発寒川。伏籠川に合流した後すぐ茨戸川に合流する。



砂丘は平らに造成され宅地に。

おまけで砂丘の跡に立つ定食屋「菜の花」。定食480円。量、山盛り。味も悪くない。
マグロの刺身定食がうまい。(H18/11/17)


アイヌ語で泉のわき出る場所をメムという。
豊平川扇状地の末端では地下水脈が露出し泉が湧く。
植物園や道庁、伊藤邸の池などは地下水脈がわき出て出来た物だ。
ハルニレなどは水分の多い土地を好むからこの辺りにはハルニレが多い。
又そういうところは人間にとっても住みやすいのだろう。
植物園の中にも昔の住居跡の窪みがある。

小学1年生の時に札幌に引っ越して初めて住んだところはこの辺りだから、植物園や伊藤邸の庭は遊び場だった。
蝉やクワガタを捕りに良く忍び込んだものだ。
伊藤邸などは屋敷の中から良くピアノの音が聞こえていた。
ご令嬢が弾いていたのだと思う。


モエレ沼は豊平川が流路を変えたときに取り残された三日月湖だ。
明治29年の地図を見ると今のモエレ沼の北西に大きな沼があるが大正5年の地図では消失してしまっている。

明治29年                             大正5年

これを現在の地図で見ると

丁度現在の鉄北鉄工団地の辺りが沼だったようだ。
モエレ沼はゴミの埋め立て地だったが昭和57年から公園の造成が始まり、イサム・ノグチが設計に参加して平成17年にモエレ沼公園として完成オープンとなった。
と言って、まだ行ったことないんだけど。

支笏火山

今から32000年ほど前、支笏湖の所に支笏火山と云うでっかい山があった。高さは軽く2000メートルを超えただろうと云われている。
4万年ほど前から周辺に火山灰を降らせていたが、とうとう大規模な爆発を起こし火砕流が噴出した。
がらんどうになった山体は自重に耐えられずに崩壊しカルデラを形成し水が流れ込み湖になった。
その時の湖は円形で今の支笏湖よりも大きい物だった。
その後外輪山の所で樽前山や風不死岳の噴火が起こり、現在のようなひょうたん型になったのだが、その32000年前の大火砕流は石狩や勇払の低地を厚く覆った。

それまで石狩川は日本海では無く太平洋に流れていたのだが、火砕流の堆積物にせき止められ幌向から長沼の辺りに湖を作った。
やがてあふれ出した水の流れは海を求めて石狩低地を流れ日本海に注ぎ込むようになった。
火砕流は札幌にまで吹き寄せ厚く堆積したためにゆっくりと冷えることになった。
そのためガラス成分や軽石が一旦熔けて再度くっつきあい、さらに地層の重さも加わって圧縮され溶結凝灰岩という石を作った。
石山の石切場の札幌軟石がそれだ。
小樽の石作りの建物は札幌軟石で造られている。

3万2000年前の勝手な想像図、こんな景色だったんじゃないかなと思う。

長沼の辺りに湖が出来て新しい流路が出来る。

風不死岳や樽前山が外輪山に出現する

気まぐれに続く