音威子府への初めての旅
2011年10月25日
10月25日午前8時に家を出る。
とりあえず目的地は音威子府村。
一度親父の出身地を見ておきたいと思っていたのだが、あまりにも遠く、なかなか行けなかったのだ。
日本海側を北上する。
留萌(るもい)を抜け苫前から右折し山の中へ、朱鞠内湖(しゅまりない)を見て美深へ。
道北の印象は
「とにかく何もない。」
動く物は、たまにすれ違うトラックと牛だけ。
牛なんて草を噛んで、ただ佇んでいるだけ。
ネットで読んだ
「此処には何もない。私の人生は錆びて砂になって行く車を見ているだけ。」
と言う、アメリカのど田舎のアニメファンの少女の嘆きを実感する。
道の両側に落葉松(からまつ)が植えられている。
防風林なのか。
その中をずっと走ってゆく。
「落葉松の林を出でて 落葉松の林に入れり」
という詩の一節を思い出す。
元は農地だったのか、草が生い茂った中に崩れ落ちた廃屋が埋もれている。
そんな山の中でも道路工事は行われている。
重機が音を立て、作業員が忙しそうに働いている。
街中だとガードマンに停められるとうっとうしいのだが、こんな人気の無い山道を走ってくるとほっとして
「ごくろうさんだねえ」
と心の中で声をかける。
音威子府村に近づくにつれ雨になってきた。
それも雷鳴を伴った豪雨だ。
土砂降りの雨を通り抜け、村に着いた頃には少しはましになっていた。
美深側から行くと村の入り口はセイコーマート、途中に一カ所信号機があって、それを過ぎて「道の駅」まで信号にひっかからなければ30秒。
用事がなければ気づきもせずに通り過ぎてしまうだろう。
でも俺は用事があったので信号を右折し村の駅へ。
俺の親父は音威子府村で農家の次男として生まれた。
長男が農家を継ぐ予定だったのだが事故で水死して、親父が農家を継ぐことになった。
親父は尋常小学校出、今で言えば中卒なのだが勉強はできたらしい。
機械が好きだったらしく、畑仕事は性にあっていなかった。
おそらく戦争前だと思うが音威子府の駅から布団一つ背負って東京に脱出した。
家族が気付いて駅で尋ねて逃亡がわかった。
戦闘機の「隼」を造っていた中島飛行機(今の富士重工)で旋盤工として働いていたらしい。
軍需工場であったからか、工場で必要な人間であったのか、親父は徴兵されていない。
旋盤の機械の改良をして表彰された時の写真を見せて得意げに話していた。
雨の中プラットホームを眺め、70年前に布団を背負って汽車を待っていた若き日の親父の姿を想像する。
今ですら駅の周りは山だけ。
自分の可能性を試したい若者が抜け出したいと思う気持ちが分かる。
「親父、あんたが逃げ出したのももっともだ。」
と心の中でつぶやく。
ところで何で俺はこんな旅を思い立ったのだろうと考える。
俺も齢60を迎え、とうに親父の死んだ年齢を過ぎた。
もう死というものを迎える準備もするべきなのじゃ無かろうか。
今ここにある自分という物がなんなのかをまとめあげておくことが必要な気がする。
血という物も含めて。
それともう一つ。
年明けに妹が亡くなり、その遺体を発見し、死という物が自分から遠い事と思えなくなった。
妹の生の記録を整理し、残ったのは記憶だけだ。
仮に俺が先に亡くなったとしたら、純子に残せるのは思い出しか無いんじゃないかという思いが強くなった。
まあ勿論生活ができての話なのだが、それは遺族年金で何とかなるんじゃないかと。
後々、「あの時こんな景色を一緒に見たよねえ。」と言える思い出を作る為の旅なんじゃないかと。
見るべき物も無い音威子府村(おといねっぷ)を早々と出て、雨の中、浜頓別町(はまとんべつ)を経て猿払村の(さるふつ)「道の駅 さるふつ公園」に向かう。
暗いし、雨は降っているしで運転したくは無かったが仕方がない。
夜8時頃に到着。
始めトイレの傍に停めたのだがマンホールの脇で、ものすごい土砂降りなものだから排水が追いつかず水たまりになっている。
降りることもできないので移動する。
窓にキャンプ用の断熱マットを切り抜いた物を貼り付ける。
遮光と断熱が目的だが綺麗にカットできていない。
所々に隙間ができる。
もう一度作り直さなければ。
早速酒を飲み、食事をして就寝。
夜中トイレに起きて戻ってみると車のライトが付きっぱなしだ。
昨日の土砂降りで早く寝る準備をしようと焦り、すぐ目張りをしたのでライトを消し忘れたのに気がつかなかったのだ。
「やばいなあ、、バッテリーあがったかも、、」
と思いつつセルを回すが回らない。
稚内〜紋別 2011年10月26日
朝になったら回復するかもと思ったが、やっぱり駄目でJAFを呼ぶことになる。
1時間ぐらいかかるとのことで、急ぐ旅でも無し、又眠る。
純子に起こされたらJAFが来ていた。
携行してきたバッテリーを繋ぎ、セルを回すとエンジンがかかった。
後は充電のために出来るだけ昼間走ることにする。
書類にサインをして宗谷岬に向かう。
海からの強風で時々車体が持ってゆかれる。
それでも何とか宗谷岬にたどり着く。
今回の旅では行った先々をテーマにした歌を歌おうと決めていたのだが、海に面した運転席側のドアは強風で開けられない。
それで純子が助手席側から降りてビデオを撮りながら
流氷溶けて〜 春風吹いて〜 はまなす揺れる〜 宗谷の岬〜♪
と歌おうとしたのだが、台風並みの烈風に流氷の「り」も歌えずあえなく撤退。
とりあえず車のガラス越しに松浦武四郎と覚しき像を写真に撮る。
そのまま稚内へ。
ノシャップ岬に行くがとりたてて何も無し。
すぐ隣が自衛隊のレーダーサイトで、小高い丘の上にいくつものパラボラを内包したドームが並んでいる。大韓航空機撃墜事件の時もこのレーダーサイトで機影を追跡していたのだ。
此処は陸海空が共同で使用しており、それぞれで呼び方が違う。
稚内から幌延(ほろのべ)、音威子府へと戻り、美深(びふか)からオホーツク海に面した雄武町(おうむ)に出る。
雄武の海岸に出る頃にようやく青空が見えてきた。
晴れたオホーツクの海を左手に見ながら、今夜の宿泊場所「道の駅オホーツク紋別(もんべつ)」を目指す。
右手のなだらかな丘陵に太陽がさしかかっている。
経度の所為か4時20分には日没なのだ。
バッテリーの事もあり、夜間走行はしたくない。
すると紋別辺りが手頃な宿泊地なのだ。
太陽との競争だ。
紋別に着いたのは4時半ころ。
ナビで大型スーパーに案内して貰い、食料と酒を買い込む。
100円ショップがあったので車内で使うLEDのランプを買う。
「道の駅オホーツク紋別」に到着した頃はもう真っ暗。
2泊目の宴会をやる。
トイレに出るとすばらしい星空。
札幌では見ることが出来ない星の大きさだ。
この古いハイエースにはトリプルムーンルーフが付いていて、最後尾のムーンルーフは左右に小窓があり横になると丁度頭の辺りに窓が来る。
その大きさは旅客機の窓のサイズ。
宇宙船の窓から星を見ているような感じになる。
そのまま就寝。
紋別〜斜里〜知床〜根室 2011年10月27日
27日早朝「道の駅 オホーツク紋別」出発。
前夜の星空の通り快晴。
オホーツク海の朝焼けが綺麗だ。
海を左に見ながら網走方面に向かう。
国道には大型トラックが沢山走っているが、みんな凄いスピードで走っている。
積み荷は肥料とかいった農業、酪農関係の物が多いようだ。
湧別町(ゆうべつ)の街灯のデザインが可愛い。
ステンドグラス風のツツジの赤い花と、スズランの花弁の様なランプシェード。
最近街灯が気になって写真に撮っている。
田舎の町ほど、その土地を象徴するデザインに凝っていて見るのが楽しい。
この辺りはサロマ湖、網走湖、能取湖(のとろ)など湖沼が多い。
これらの湖は湾流で土砂が運ばれて出来た砂州が作った湖で、淡水と海水の入り交じった汽水湖だ。
牡蠣、ホタテなどを養殖している。
湖面に漁船が浮かんでいて漁をしている。
オホーツク海は冬期は流氷が接岸する。
一度列車の窓から見たが、何処から流氷になるのか境目が分からなかった。
http://www.youtube.com/watch?v=FZUV57-lmeE
「道の駅 流氷街道網走」に7時頃到着。
漁港に面した駐車場には長距離トラックが沢山停まっていて車中泊をしている。
改めて見てみると、長距離トラックの睡眠スペースは運転席の後方のわずかな隙間に寝るタイプと、キャブの天井部に棚があり、よじ登って寝るタイプがあるように見える。
ジャージ姿の運転手が眠そうに歩いている。
群馬ナンバーのキャラバンが停まっていて、我が家のハイエースと同じく後ろがベッドになっている。
老年の男が出発の準備をしている。
一人旅は寂しい。
若い頃なら気楽で良かったが、今は同じ物を見て感動したり語り合える相方が居た方が良い。
犬と、「一人と一匹」のキャンピングカーツーリングをしている男を見かけたが、たどえ動物であっても誰かと一緒である方が楽しい。
俺が後に残されることは無かろうが、そうなったら猫と一緒に旅するかな。
JUNCOちゃんのご両親はキャンピングカーでツアーに付いて廻って居るらしい。
お父さんは長年教職をやっていたのだが引退し、夫婦二人でJUNCO応援団をしているらしいのだが、その気持ち分かるなあ。
おそらく現役の頃から引退したら二人で旅をしたいという夢を持っていて、JUNCOちゃんのツアーが無くとも、きっと二人で放浪の旅をやっていたのだと思う。
その群馬ナンバーのキャラバンは夏タイヤだ。
この時期の北海道は夏タイヤでは危険なのだが。
話しかける間もなく出発していった。
漁港にはイカ釣り船が何艘も停泊していた。
漁を終えて帰ってきたのだろうか。
沖に大きな岩がある。
帽子岩と言うらしい。
確かに山高帽の様な形をしている。
駐車場の道を挟んだ向かいに「ジブラルタ生命」がある。
「ジブラルタ生命」のロゴマークもジブラルタ海峡にある長さ4.8km、高さ400mにもおよぶ巨大な岩山「ジブラルタ・ロック」だ。
保険制度は海上輸送の積み荷の喪失の損害を船主と荷主で負担しあって軽減しましょう、ということで始まった。
古代ギリシャ時代の事らしい。
その後12から13世紀の地中海で「冒険貸借」という制度が生まれた。
今の保険制度では、まず先に契約者が保険会社に掛け金を払う。
事故が起こったときには保険金が支払われるが、掛け金は保険会社の物だ。
しかし「冒険貸借」ではまず保険金が預かり金として契約者に払われる。
無事に航海が終わった時には、契約者は払われた保険金に30パーセントの利息を付けて返納する。
そうでなかった時には保険金は返す必要が無い。
生命保険とか、火災保険とか、その後の事情や事件で出来てきたみたいだよ。
前夜「えくぼ」のママから電話があって
「網走行ったら網走監獄に行きなさい。網走刑務所じゃないよ網走監獄っていうのがあって、蝋人形がずらっと飾られて居るんだよ。」
という。
囚人の蝋人形が足に錘の付いた鎖を繋がれ作業している様子を想像する。
しかしまだ開いていないだろうし、お金払ってまで監獄見たくないしでパス。
刑務所やら監獄やらに興味がないと網走には見るべき物がないので知床に向かって出発。
小清水町を通り、斜里町(しゃり)へ。
学生時代に斜里町出身の友人が居た。
「成る程、こんな町に住んでいたんだ。」と納得する。
ただ納得しただけなんだけど。
あいつ長髪だったなあ。
あの頃流行っていたからなあ。
吃音が酷く、話を聞き終わるまでとても時間がかかった。
福祉関係の仕事がしたいと言って、卒業後はここいら辺に帰ってそんな仕事に就いたらしきことを手紙で知らせてきた。
今も居るのだろうか。
斜里町の街路樹には、松が他の広葉樹に混じって植えられている。
松の街路樹というのも珍しい。
松林なんて昼でも暗くてイメージ的に良くないからね。
しかも松なら松だけにすればよいと思うのだが。
町の特産物が松の木材なのだろうか。
新しい住宅地の街路樹は松に統一されているようだ。
斜里町の「道の駅 しゃり」はとても綺麗だ。
小さめの建物だが道を挟んだ隣に物産館が別にある。
トイレが綺麗で思わず写真に撮る。
清潔というだけではなく、デザインや照明の演出がとても素敵なのだ。
後で純子が撮ったビデオを見ると、同じようにトイレを撮影していた。
メインストリートの中に「道の駅」があるせいか、駐車場はあまり広くない。
あまり観光客も来ないのかも知れない。
でも此処に車を置いて近所の居酒屋で飲めるという利点がある。
「道の駅」って大体郊外にあるから飲めないんだよね。
だけど地元の人と酒を飲んで交流したいという気持ちもあるんで、もし今度来ることがあればここに泊まりたい。
採光の行き届いた明るい建物の中には何故か「ねぶた」の人形が飾られている。
青森か弘前と姉妹都市ででもあるのか?
隣の物産館で物色する。
魚が笑っちゃうくらい安い。
でも買うわけにも行かない。
純子は色々お土産を買い、俺は肝臓のためにシジミの汁を濃縮した物を買う。
斜里から知床に向かう。北見から網走にかけての農家では、赤ん坊の頭ほどの大きさのジャガイモみたいな物をトラクターで収穫している。
随分扱いが乱暴だから加工して使用する物なのだろう。
ビートは大根の形だし、ハッカは葉や茎から作るし、こいつはおそらく芋なのだろうが何の材料なのだろう。
デンプンとか焼酎の材料にでもなるのだろうか。
知床にはまだ子供達が小さい頃に一度行ったことがある。
もう25年以上前になるだろう。
夏で観光客が一杯居た。
ウトロのしつこい土産物屋に捕まって、いい加減に逃げようとするのだが、敵は逃げ出す機会を与えず機関銃のように話し続ける。
まるで鏡に映るおのが姿に、逃げるに逃げられず脂汗を流す蝦蟇の様な心境だ。
その後新聞の投票欄でも、このしつこい土産物店の事が書かれていた。
同じような体験をしたのだろう。
今回は観光シーズンを過ぎ、土産物屋は閉まっていた。
その土産物店の並びにゴジラ岩がある。
何となくゴジラのような形をしているのだが、ゴジラの映画が放映されるまでは何と呼ばれていたのか。
形からすると観音岩山とかチンポコ岩とか呼ばれていたのかも知れない。
もし俺が知床の観光に携わってる人間だったら、何の変哲のない岩を観光客の来ない時間を見計らって少しづつ削り「キティちゃん岩」とか「ピカチュー岩」とか作っちゃうね。
知床峠を越えるには燃料が心配だ。
スタンドの価格を見ると軽油で129円。
べらぼうに高い。
でも仕方ないから入れる。
観光地は何もかもが高すぎる。
知床5湖への坂道を登る。
途中の道でゴミの清掃をしている。
世界遺産にもなっているのだから汚れているのはいけない。
5湖に行く途中に看板が立っていた。
知床100平方メートル運動の看板だ。
もう34年前になるが、知床の岩尾別の入植者があまりの自然の厳しさに離農した土地が放置されていた。
不動産会社の手に渡って開発されないよう寄付を集めて買い戻す100平方メートル運動というナショナルトラスト運動が始まった。
10メートル角の土地を確か8000円だったと思うが買って貰い、植林して元の姿に戻すという運動だった。
俺も一口乗り金を振り込むと、知床の山をバックにした岩尾別地区のイラストが描かれた証書が送られてきた。
その土地は自分の物になるわけではなく、おそらく斜里町の土地になったのだろう。
http://www.town.shari.hokkaido.jp/100m2/undo.html
その時に植えられた苗木が育っては居たが、森に成る程大きくはないし、すべて針葉樹なのも問題だなあと思った。
結局土地はすべて寄付金で買い取られたらしいが、ここにその名簿があるらしいから俺の名もきっとあるはずだ。
俺はきっとプレートの名札になってると思うので、もし行かれる方がいれば写真に撮って送ってちょうだい。
http://www.town.shari.hokkaido.jp/100m2/undo.html
知床5湖の駐車場に入るにはお金がかかる。
でも入ってしまえば散策路を歩くのは無料だ。
色々維持管理費用がかかるのだから仕方がない。
散策路の入り口は建物の中にある。内部に入ると係員がやってきて説明をしてくれる。
大回りのコースと短いコースを地図で示してくれるが、あちこちに熊の足跡や熊の写真が貼ってある。
足跡が見つかった所、熊が目撃された所だ。
純子はすでに逃げ腰だ。
大回りは時間がかかりすぎるし、熊に出合いそうだから遠慮して短いコースを選ぶ。
純子が
「怖いわー」
と言うと係員の兄ちゃんは
「そのスリルが良いんです。」
と言う。
知床に限らず北海道の山では熊と出合う可能性は何処でもある。
大雪山の登山路を望遠レンズで撮影した映像では、熊が道路を横切った数分後に登山者が歩いたりしている。
熊も人間は怖いのであって、人の気配がすれば避けるのだろうがたまにはこういうこともある。
http://homepage1.nifty.com/~n_izumi/higuma/jiken.html
この中の札幌丘珠事件の標本は、子供の頃北大植物園の博物館で見たことがある。
グロテスクなので、その後ビンに紙を貼って中が見えないようにされていたが、今もあると思う。
知床の木は風に耐えるためか、根が岩を抱えてしがみついている。
そんな木が遊歩道の周辺に沢山ある。
その陰から熊が姿を現すかも知れない。
純子は怖がって引き返したいと言っていたが、歩き始めてしばらくすると後ろから熊よけの鈴の音が聞こえてくる。
誰かが歩いているらしい。
沼を二つ通り過ぎ、木道を登る。木道の下側には熊よけの電線が張られており、電流が流れているらしい。
知床の山を背景に湿原が広がっており、所々に湖がある。
その中を木道は曲がりくねりながら延々と続いている。
晴れていたら雄大な景色だったろうが、あいにく曇っていて山の裾野しか見えない。
この辺りまで来ると沢山観光客が居て、熊の心配は要らなくなった。
ふと横を見ると鹿が寝そべって口を動かしている。
ここまで来る間に沢山の鹿を見た。
そこいら中に居るのだ。
木の皮を食い荒らして枯らしてしまうらしく、木の下部をネットみたいな物で覆って防護している。
知床の鹿の増加は大問題だ。
エゾシカは一時絶滅しかかったが、捕獲を禁止されて爆発的に増えたらしい。
天敵のオオカミは絶滅しているから、人間が管理しないと増え続けるだけだ。
旅の後半で弟子屈のペンションオーナーと知り合ったのだが、世界遺産内で鹿を駆除するのもまずいんじゃないかということで、捕獲して一旦保護区に移し、それから駆除する等の姑息な対策をとってきたが、さすがに今年の12月、道路が閉鎖になってからハンターが道路から銃で撃つらしい。
観光客は可愛そうだとか簡単に言うが、地元の人間にとっては死活問題だという。
木が枯れてしまえばいずれ鹿自身も食べ物が無くなり死んでゆく。
すると適当なバランスで鹿の数が抑えられるのだろうが、人としてはそれを待っていたら山は丸裸、おまんまの食い上げになってしまう。
知床5湖から知床峠に向かう。
知床峠のパーキングエリアで車を停め写真を撮る。
羅臼側(らうす)からウトロ側に根室海峡からの風が吹いており、知床半島の斜面に沿って上昇した空気の気圧が下がって飽和水蒸気となり、水分が凝縮して雲を作る。
その雲が頂上を越え、オホーツク海に激しく流れてゆく。
非常に寒く、雪がちらちら舞っている。
この冬初めて見る雪だ。
この時期の峠はやはり冬タイヤでなければ。
十年以上前に、5月の連休にこの峠を夏タイヤで走った本州の旅行者がスリップして死んでいる。
羅臼側のカーブの連続した道を下る。
斜面に白いダケカンバが、しがみつくように生えている。
風が強くて直立していられないのだろう。
みんな斜面に伏せるように傾いている。
匍匐前進状態だ。
ダケカンバは森林が破壊された後、一番最初に生える木らしい。
本来は10〜15メートル、たまには30メートルにまで伸びるが、条件が悪いと高くなれない。
知床の厳しい冬を耐えるのは、木々にとっても大変そうだ。
標高が下がると突然雲が消え去り、青空が広がった。
羅臼側はすばらしく晴天で、ここより上の斜面にだけ雲が張り付いていたのだ。
山を下りて停車し振り返ると、知床半島の上部だけが不穏な雲に襲われている。
突然晴れ上がり、気温も上がり、さっきの天気は何だったのだろうと不思議な気がする。
気持ちの良い青空の下、山から流れ落ちる川に沿って走る。
早速
しぃれとこーの岬に〜♪
と歌っておく。
「道の駅 らうす」に停車。
海を眺めると島が見える。
国後島(くなしり)だ。
すぐそこに見える。
遥か国後に白夜は空ける〜♪
と歌っているが、国後は知床半島と根室半島が作る湾に食い込んでいて全然「遥か」ではないし、緯度からいっても白夜になることは無い。
語感が良いからそう歌ったらしい。
しかしこの「道の駅」の食堂、サンマ定食がなんと1100円なんだよ。
他の物もべらぼうに高い。
我々はどうせこんな物食べないが、内地の観光客は食べるのかも知れない。
全体にこの「道の駅」はただの商店が駅をやってるだけ、という感じがする。
すぐ近くに「北の国から 遺言」で出てきた「純の番屋」があるが、これはレプリカらしい。
http://hwn.kita.gr.jp/location/konsen/junbanya_sm.html
その番屋を通り過ぎて南下し、野付半島に行く。
野付半島は根室海峡に突き出た砂嘴だ。
標高は1から2メーターくらいかな。
一番細い場所では幅がせいぜい50メーターくらいだろう。
先端に向かって延々と続く道路を走る。
左側には波消しブロックがあるが右側には何もない。
小さな湾になっているから波も立たないのだろう。
今地震が起きて津波が発生したら逃げようが無いと思う。
野付半島はトドワラが有名だ。
トドマツが海水の浸食で立ち枯れして白骨のようになっている。
半島の先のほうにネィチャーセンターがあり、そこから木の遊歩道が砂嘴の先端に続いている。
この野付半島から国後島まで、たった16キロしか離れていない。
センターの二階に双眼鏡があり、覗き込むと断崖絶壁の上に泊村の建物が見える。
遊歩道は歩かなかったが遠くからトドワラも見たし、何より晴れ上がった空の下に広がる静かに輝く海の美しさに十分満足する。
もう午後2時になったので今夜の宿泊地に移動しなければならない。
何しろ4時過ぎには日没なのだ。
根室の「道の駅 スワン44根室」には4時頃に着いた。
しかし土砂降りの中を走ったので車がどろどろ、洗車をしたいと思い根室の町まで走る。
しかし初めての町故、何処に洗車場があるか分からない。
ガソリンスタンドの自動洗車機は嫌いなのだ。
走り回っている内に、「明治公園」という看板を見つけた。
行ってみると公園の駐車場にトイレがあり、泊まるのに良さそうだ。
純子に「ここで宿泊しよう。」と言うと「道の駅」が良いという。
仕方ないので陽が沈み、あかね色に染まった空の下を引き返す。
こういう夕焼けを見ると、子供の頃見た映像の断片が蘇る。
遊びに夢中になり、気がついてみたら夕方になっている。
木材工場の煉瓦作りの四角い煙突が、こういう色の空に黒いシルエットになって聳えていた。
夕焼け空なんかその後幾らでも見ているが、思い出すのは子供の時に見た夕焼けだけだ。
「道の駅」に着くともう真っ暗。
何時でも眠れる支度をして宴会。
トイレに行くと和式便器に小便が溜まっている。
流し忘れたんだと思ったら、隣の便器も同じように溜まっている。
おかしいなあと思ってたら表示があって、エコのため水を再生して使っていて、色は付いているけど汚くはないという。
エコでも何でも良いんだけど、あの色は無いだろう。
どう見たって小便色なんだから。
あんな水でおしり洗うなんて嫌だよ。
人間の感覚を無視して、エコっていう言葉だけが大手を振って偉そうに歩いてる。
エコであれば何でも許される。
エコは水戸黄門の印籠。
「エコなんだから小便色でも良いんだ。おのおの方控えおろう!」
と言っている。
牛丼屋の割り箸廃止だってエコの為なんて言ってるが本当は違うだろう。
安いのが売りの牛丼屋が、国産の間伐材を使った高い割り箸を使うはずが無い。
当然中国産の割り箸を使っている筈で、こいつは船で輸送中にカビが生えないようにするために、防かび剤等の薬品浸けなのだ。
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/50407830.html
国産の割り箸は森を健康に保つため伐採した間伐材を使っているが、中国なんかは一山まるまる禿げ山にして割り箸を作り日本に輸出している。
中国産の割り箸の危険性を消費者に知られる前に、「地球環境の為、エコの為」という名目で中国産の割り箸をやめたに違いないと俺は思っている。
だって環境の為と言うなら、コストがかかっても国産の割り箸を使うべきなのだ。
我が家は割り箸を使っているが、高くても国産を使っている。
わずかながらも間伐する費用の足しになり、日本の森が健康になってくれるかもしれない。
使った割り箸は薪ストーブの焚付けに丁度良く、最後まで天命を全うしてくれている。
「エコとか環境に良いとか、響きの良い言葉には騙されないぞ!」
根室〜霧多布〜弟子屈温泉 2011年10月28日
翌朝、夜明けと共に起き納沙布岬に向かう。
ノサップ岬と呼ぶ。
アイヌ語でノッ・シャム。
稚内のノシャップ岬と語源は同じらしく「岬の傍ら」とか「岬が顎のように突き出た所」という意味らしい。
ノサップ岬は北方領土を除くと最東端の岬で、夜明けがもっとも早いと言うことは、夕暮れも早いということだ。
だから4時15分に陽が沈んでしまう。
ノサップ岬の灯台は北海道で最初に点灯した灯台で、明治5年だそうだ。
これで最北端と最東端は制覇した。
曇っていて何も見えないし、風も強いので、半島の先端を回り込んで根室に引き返す。
途中人里があり、コイン式洗車場があった。
ようやく車を洗えると思い、100円玉5枚を入れ「水〜洗剤〜水」のコースを選び「スタート」ボタンを押す。
しばし待てども何も始まらない。
おかしいなと思って調べると、コインが戻ってきてエラーが点滅している。
三カ所に仕切られた機械の真ん中に入ったのだが、左隣にトラックが入ってきた。
そのトラックの兄ちゃんも、コインを入れたらエラーになるので諦めて帰って行った。
仕方ないので一番右端に車を移動し、同じく500円入れ「水〜洗剤〜水」のボタンを押したら
「この金額ではこのコースは選べません。金額のコースをお選びください。」
と言う。
こちらの機械では同じコースが何故か400円なのだ。
お金の返却ボタンを押したが戻らない。
「一旦入った金はもう俺の物 二度と返さないぜ」という業突張
り親父の様な機械なのだ。
仕方なく500円の金額にあったコースを調べると
「水〜泡〜水」というのがあった。
「泡〜? 何だい泡って?、、、」
と訝しく思ったが、他に選択肢は無いからそのボタンを押した。
それで洗車ノズルを手に取ったらなんと!先がない!
「拳銃無宿」でスチーブマックィーンが使っていた、ライフル銃の先端をぶった切ったランダル銃(http://www.asahi-net.or.jp/~uy7k-ymst/furoku/kenjumushuku.htm)、或いは大きめのコルト45ガバメントみたいな格好をしている。
「先がもげてる!」
一瞬金を返して貰うのに何処に連絡すれば良いのかとか、こんな早い時間に来てくれるんだろうかとか頭の中を駆けめぐった。
だが次の瞬間
「水が出ます」
と機械が言いランダル銃の中から音がし始めた。
慌てて車に向けると勢いよく水が出始めた。
「なんだ、壊れてないのか。元々こんな形なんだ。」
とほっとして水洗いを終えた。
すると今度は
「泡が出ます」
と機械が言い、白い泡が先端から吹き出してきた。
泡が車に貼り付き、まるで泡風呂に浸かって裸の体に泡をまとわりつかせているハリウッド女優の様になまめかしい姿になったが、これで本当に洗えているんだろうかという疑問が頭の中でどんどん膨らんでゆく。
突然機械が
「車を洗ってください」
と言い出す。
「え〜?!洗うのはお前じゃないのかい?!」
と叫びながら車の中から慌てて風呂用のタオルを引っ張り出して洗い始めた。
「あと一分です。」
などと冷たく言い放つので、これは間に合わないと思い純子にも手伝って貰う。
「こんなの冬なんか出来ないしょ。」
と文句を言いながら急いで洗う。
「水が出ます」
と機械が言い、すすぎをし始めた。
約1分で停止。
確かにハイエースはでかいが、こんな時間じゃ軽自動車だってすすぎ終えることは出来ない。
仕方なくもう一度、今度は400円を入れ「水〜洗剤〜水」のコースを選び洗い直す。
そんな大騒ぎをして何とか洗車を終えた。
結局900円もかかった。
隣にコインラウンドリーもあって、ついでに洗濯でもしようと思っていたのだが、恐ろしいことになりそうでやめた。
あんな洗車機って、車を運転し始めて40年以上経つが見たことがない。
北海道の真冬に素手で車を洗うなんて考えられないことだ。
もしかすると本州ではあんな洗車機が普通にあって、古くなった奴を格安で買って持ってきたのだろうか。
色々問題はあったが車も綺麗になり、すっきりしたところで浜中町に向かう。
浜中町にある牧場の入り口の看板にイラストが描かれている。
どの牧場にも何らかのイラストの看板がある。
そのうちルパン三世が出てきた。
そこで思い出した。
浜中町はモンキーパンチの生まれ故郷だったのだ。
あのイラストは皆モンキーパンチの漫画のキャラクター達なのだ。
モンキーパンチは一人ではなく加藤一彦、輝彦兄弟のペンネームだ。
もっとも一彦が物語、キャラクターを担当したとの事だから殆ど一彦を指すようだ。
浜中町の有名人と言えばもう一人、ムツゴロウこと畑正憲。
もっとも畑正憲は九州の日田の出身だ。
浜中町の沖の嶮暮帰島(ケンボッケ島)という無人島に移住し奥さんと娘、犬と、ヒグマと暮らしていた。
もっとこじんまりした島かと思っていたら、予想外に大きいので驚く。
琵琶瀬湾(びわせ)にテーブルの様におかれている。
町のはずれの霧多布(きりたっぷ)岬に登る。
展望台があり、辺りを見回せる。
展望台の駐車場には軽自動車が一台泊まっていた。
傍の柵に毛布やら干してある。
トイレの前だから車中泊をしていたのだろう。内地ナンバーで窓に「頑張ろう東北」のステッカーが貼ってある。
まだ眠っているようだ。
様子から見て若い人の様だった。
発電用の風車が一機立っていて発電機のカバーに「ゆうゆ」と書かれている。
傍に浜中町の保養センターがあり、温泉に入れるのだ。
入ろうと思ったら後1時間しないと開かないので諦めたが、シチュエーションからすると琵琶瀬湾や、浜中町の背後に広がる霧多布湿原を見渡せる露天風呂があると思われた。
http://www.marimo.or.jp/~ryuko_o/yuyu.html
浜中町を出立し厚岸に向かう。
道路の左は海、右は湿原地帯。
こんなところで津波にあったら避難しようもないなあと思う。
それで考えたのだが、発電用の風車というのは高さが30メートルはある。
あの円形の柱の下には、おそらく点検用だと思うのだがドアが付いている。
避難する高台の無い場所には風車をずらっと並べておいて、津波が来る様な地震があった時には扉の錠を遠隔操作で開けて避難場所にする。
おそらく内部には螺旋階段があるだろうから、出来るだけ高いところに登る。
発電量は増えるし、一石二鳥だと思うのだけどいかがなもんでしょう。
厚岸と言えば牡蠣。
俺も牡蠣は大好きなのだが、生を食べると腹を壊すので食べられない。
フライは大丈夫なのだが。
そのまま通過し弟子屈町(てしかが)に向かう。
弟子屈には昼前に着き摩周湖へ。
展望台の駐車場は有料だ。
でもその駐車場のチケットは硫黄山の駐車場でも使える。
摩周湖は絵はがきの通りの姿だ。
早速「霧の摩周湖」を歌うが、最近の摩周湖は霧に隠れることが少ないらしい。
驚いたことに法的に言うと摩周湖は湖ではない。
ただの水たまり扱いなのだ。(随分でかい水たまりだが)
湖は国土交通省の管轄なのだが、摩周湖には流れ入る川も無いし、流れ出す川も無い。(伏流水はあるらしい)従って湖の定義から外れるので、国土交通省の管轄にはならない。
又樹木が無いので、農林水産庁の管轄にもならないという。
木は生えてると思うんだけど、これは摩周湖の水面部分だけを言ってるらしい。
摩周湖の中島(カムイワッカ)は木が生えているので農林水産庁の管轄らしい。
摩周湖をおよそ5分ほど見て、川湯の硫黄山に行く。
山のあちこちから煙が出ている。
卵が腐った様な硫化水素の匂いがする。
煙の上がっている箇所を覗き込むと穴が開いていて、お湯がぼこぼこ沸き出している。
黄色い硫黄の結晶が周囲に貼りついている。
爺さんと婆さんが温泉卵を売っていた。
5個で400円だ。
帰りの車中で食べると、とっても旨いのでもっと買えば良かったと話す。
硫黄泉で茹で上げたゆで卵は、燻製卵みたいな味がする。
白身がプリッと堅くて歯ごたえがとても良い。
弟子屈の「道の駅 摩周湖温泉」に戻り、案内所で日帰り入浴が出来るところを訊く。
すぐ近くにペンションがあり日帰り入浴が出来るという。
道の駅の裏の橋を渡ったところにある。
入浴料300円。
でもちゃんとした温泉だ。
風呂から上がると隣にコインランドリーがあった。
洗濯物が貯まっていたので洗濯をすることにした。
しかし機械が古いのか、わずかな量の洗濯物なのに2時間もかかるという。
その間に買い物に行ったりしたがまだ終わらない。
ふと見ると建物の脇に足湯があり誰でも自由に入れるようだ。
それで二人で足湯に浸かっているとコインランドリーのオーナーの爺さんがやってきた。
話を聞けば道楽でこの足湯を作ったらしい。
ペンションも爺さんの物で、今は息子に任せているらしい。
ペンションから温泉を引いていて、60メートルも配管があるので途中で温度が下がってしまうらしく、長く入っていると温く感じてくる。
ペンションに使うお湯の使用料金は毎月1万円ちょっとらしい。
ただ、一番最初に権利料として3、40万くらい払うらしい。
でも安い物だ。
世間話をしている内に鹿の話になる。
ハンターの客が鹿肉を沢山くれたのだが、処理に困っているから欲しいのならあげるよという。
くれる食い物は断らないのが我が家のモットーだから、喜んで貰うことにする。
後をついて行くとペンションの裏に冷凍室が建てられていて、凍り付いた鹿肉の塊がいくつもある。
爺さんは鹿肉が邪魔で仕方ないようだったが、後で息子に言われたらしく、一つ返して欲しいと言ってきた。
結局洗濯に2時間かかり、その内の1時間は乾燥の時間だったのだが、結局生乾き状態であった。
隣の「道の駅」にて4泊目の車中泊。
トイレに行って帰ってくる途中、灯りが点いて湯気が上がっているところがあるので覗くと、ここにも足湯があった。
純子に報告すると入ってみたいということになり、早速足湯に浸かった。
ここの足湯は温度が高く、幾らでも入っていられるというか、もう出たくない状態になってしまう。
酒を飲みつつたっぷり暖まる。
小原庄助さんは幸せだ。
美幌峠〜オンネトー〜塩別〜温根湯温泉 10月29日
10月29日
なにせ陽が沈むと飯を食って、酒を飲んで寝るものだから、朝はやたら早く目が
覚めてしまう。この日も4時には目を覚まし又足湯に入る。
弟子屈周辺は見るべきところが沢山あり、同じ道を往復したり、ぐるっと回って
戻ってきたりしなければ、有名な観光地を全部見尽くせない。
屈斜路湖か(くっしゃろ)阿寒湖か、どちらか一つ見なければ短縮できるのだがなあと思いつつ、夜明け前にとりあえず美幌峠に向かって走る。
屈斜路湖に近づくと霧がかかっていた。
曲がりくねった山道を走ってゆくと、道路に獣が転がっている。
通りすがりに横目で見ると、たぬきだった。
全く動物は右見て、左見て、さあ渡りましょうなんてやらないからなあ。
昨日も山道走っていたら突然リスが道を横断しようと走ってきて、急ブレーキを
かけたが間に合わず、車体の下に潜り込んだ。
轢いたかと思ってバックミラー覗いたら、慌てて元の方向に走り去っていった。
たぬきは夜行性だし、夜あんなふうに走ってきたら避けようも無い。
山を登って行くにつれ空が明るくなってきた。
見晴らしの良いところに出てみたら屈斜路湖は一面雲に覆われており、わずかに中島の樹木だけが環状に雲海から顔を出していた。
朝日は遥かな摩周岳の脇から登ってくるところだった。
「わー!すごい景色!来てよかったー!」
と純子が言う。
確かにこんなに荘厳な日の出を見ることは二度とないかもしれない。
しばし日の出を眺め、美幌峠の展望台を目指す。
美幌峠の頂上には 「ぐるっとパノラマ美幌峠」という「道の駅」があった。
そうと分かっていたらここで日没も、星空も、朝日も見ることが出来たのに。
駐車場に車を置き、展望台の坂道を登る。
頂上から眺めるとさらに壮麗な景色だ。
朝日は既に摩周岳の上に上り、屈斜路湖の湖面を覆った雲海を緋色に染めている。
すぐ近くにあるように見える。
足を伸ばせば雲海に踏み入れることができるような錯覚に陥る。
太陽が昇るにつれ、雲海は本来の色を取り戻していった。
いつの間にか純子もやってきて
「すごいねえ!」
と言う。
純子は膝が痛いから登らないと言っていたのに、我慢できなくなったらしい。
本当にそこは360度、遮るものが何もない。
見るのをやめようかと思っていた美幌峠だが、来てよかったなあと思う。
おそらくこんな景色が拝めるのは、一年の内わずかしか無いのではないか。
偶々そんな日に出会えた様な気がする。
美幌峠から弟子屈に引き返すつもりが、間違って美幌町に行ってしまった。
こういう間違いを俺は良くやらかす。
仕方がないから遠回りをして阿寒湖を目指すことにする。
途中、津別(つべつ)の「道の駅 あいおい」に寄った。
急ぐ旅でも無し、駐車場で車を拭いていたら純子が
「ねえ、見て。猫がやってくるよ。」
という。
車の陰になって見えなかったが回り込んでみると、黒と茶の縞模様の猫が早足で一直線に俺に向かってくる。
純子の話だと
「あっ!すがちゃんだ。」
と飼い主を見つけたように走ってきたらしい。
しゃがんで「おいで」と手を差し出すと、すたすた歩いてきて顔を手にこすりつけて甘える。
ひとしきり撫でてやる。
1歳位だと思うがこの人なつっこさはどうだ。
人に対して警戒心というものがまるで無い。
歩く足元にまとわりついてくる。
お腹がすいているらしい。
純子に食べ物はないかと聞くと、丁度買ってきた鮭ぶしがあった。
これは結構高かったんだよ。
それを二袋食べさせた。
3日くらい前に津別への道は冬の通行止めになったが、あいつ冬場はどうやって過ごすのだろう。餌を貰える観光客も居ないし。
でもおそらく一冬は乗り越えた様子だし、あれだけ人なつこければ近所の農家から餌も寝場所も与えられるかも知れない。
阿寒湖傍のオンネトーは「えくぼ」のママに撮影して欲しいと頼まれた。
何でも若かりし日に見て感動したのだそうだ。
エメラルド・グリーンの美しい湖だそうだ。
オンネトーとはアイヌ語で「年老いた湖」或いは「大きな湖」という意味らしい。トーというのが湖の意で、例えばペンケトー、パンケトーなどもそれぞれ「上の湖」「下の湖」の意味だ。
オンネトーに向かう山道に子鹿が轢かれて死んでいた。
ここいらでは野生動物の車との衝突が日常茶飯事らしく、統計を取っているらしい。
鹿程の大きさの動物と衝突したら、車も損傷するだろう。
鹿は保険に入っていないから修理代は全部自分持ちということになる。
帰るときにはもう死骸は無かったから、誰かが道路管理者に連絡したのかも知れない。
オンネトーは確かにエメラルドグリーンの湖水だった。
正面に雌阿寒岳と阿寒富士が聳えていて美しかったが、恵庭岳の麓の堰止め湖であるオコタンペ湖の向こう岸に、フォールディングカヤックで渡ってキャンプした経験からすれば、オコタンペ湖の方が美しいと思う。
でも「えくぼ」のママには「大層綺麗だったよ。」と言っておくことにする。
オンネトーには湯の滝という滝があり、滝上の池が温泉で入浴が出来たのだが、その温泉にいる微生物によってマンガン鉱床が出来つつある事が分かって、保護のため入浴禁止となった。
地上でマンガン鉱床が出来る場所というのは、ここが世界で唯一の場所らしい。
マンガンってマンガン電池などに使われている物質だが、深海底にマンガン塊として転がっていたりする。
そのマンガンノジュールの生成については、微生物が関わっているという説は聞いたことがある。
マンガン酸化物の沈殿にはマンガンイオンの濃度が高いこと、元水が無菌である、有機物の供給があることが必要で、この温泉はその3っつの条件を満たしていて、マンガン酸化バクテリアが鉱床を作っているらしい。
生物が特定の元素を集積するのを利用して、ヒ素を使った殺虫剤で汚染されたアメリカの土地に、ヒ素を吸収する植物を植えては刈り取りを繰り返し、清浄な土壌にしようという試みが成されている映像を見た。
ひまわりの効果は疑問視されているが、セシウムだってストロンチウムだって吸収する植物もきっとあるに違いないと思う。
オンネトーを出発する。
途中「滝見橋」という橋を渡ったときに左手に滝を見かけた。
車をパーキングに停め降りてみると、何段にも滝があり綺麗な水が流れていた。
フライフィッシングをやっている釣り人が居る。
橋の上から覗くと、水中に魚の黒い影がいくつも見える。
大きさからゆくと鱒だろうか。
駐車場には札幌ナンバーの車が停まっていて、中の荷物から判断するに釣り人の車らしい。
わざわざ札幌から釣りに来たようだ。
中学校の修学旅行は阿寒で、ペンケトー、パンケトーを見た記憶があるが、湖には車では行けず、わずかに双湖台という展望台から遥かに望めるだけらしい。
なんか湖の傍まで行ったように思っていたが勘違いらしい。
結局双湖台に気がつかず、通り過ぎてしまった。
http://www5.airnet.ne.jp/knos/yama02/hok-akan4.htm
曲がりくねった山道を走り、朝5時に出発した弟子屈に又戻って来たのが昼ちょっと前。
一休みして再び美幌峠に。
「道の駅」の駐車場に車を停め、再び展望台へ。
雲海は何処にも無く、静かな湖面が青く広がっているだけ。
観光客が沢山いたが、彼らは7時間ほど前に壮大な雲海が湖面を覆っていたことを知らない。
確かに絵はがきのような風景ではあるが、朝の風景を見た後では物足りない。
カセットコンロでお湯を沸かし、大滝村の「道の駅」で買った「シイタケ茶」を作る。
大滝村の「道の駅」では「シイタケ茶」の他、「根昆布茶」「昆布茶」を試飲できたがいずれもとっても美味しく、「シイタケ茶」と「昆布茶」を買ってきたのだ。
美味しいお茶を飲み食事をして、快晴の美幌峠を下り北見に向かう。
北見を越え層雲峡に向かって走ると留辺蘂(るべしべ)になるのかな、「道の駅 おんねゆ温泉」がある。
ここにはメソポタミアの螺旋状の塔(ミナレット)を模した時計塔があり、丁度2時になったので中から人形が出てきて楽器を5分間演奏し、最後に腹が白い青い鳩が頂上の窓から姿を現し時を告げていた。
http://blog.goo.ne.jp/sekai-kikoh-2007/e/ccdd0af17e4d2d0998ce705e1b71bc64
ここは「からくり王国」と言うらしく、食い物屋や土産店が並んでいた。
何か目玉が無いと人が集まらず、物が売れないのだろう。
ここにも津別にいた猫とそっくりな模様で、少し大きめの猫が愛嬌を振りまいていて女の子達に撫でられていた。
「おんねゆ温泉」とは一つの温泉を指すのではなく、この近辺に散在する温泉を総称して呼んでいるらしい。
「塩別(えんべつ)つるつる温泉」もその一つで、昔真冬の北見に仕事で来た時に宿泊したら、相棒が偉く気に入ってしまって、何日間か真冬の道路を走ってわざわざ泊まったが、今回走ってみると北見市内からは相当な距離があり、よくまあ通ったものだと呆れる。
しかし雪景色の露天風呂に浸かると仕事の疲れも消え去った。
「つるつる温泉」はその名の通り湯がつるつるしていて、改装前の建物の時、家族旅行で偶々この温泉を見つけて入ったら、足元が滑りそうな位につるつるだった。
しかし今はそうでもない。
同じように感じたのか、脱衣場で旅行者らしき人が地元の人に
「昔はこのお湯もっとつるつるしていなかったかい?」
と聞いている。
この人も改装前の温泉に入ったことがあるのだろう。
どうも浴槽の数を多くしたため、薄めているのではないかと思う。
地元の人は
「『龍神の湯』の方がつるつるしてるよ。」
という。
大浴場の他に「龍神の湯」というのがあって、そちらは浴槽が一つなので薄まって居ないようだ。
純子にそのことを話すと
「あんたが滑るから転ばないようにと言うから用心して歩いたんだけど、全然大丈夫でおかしいなって思っていたんだ。」
という。
層雲峡を抜けた頃には暗くなってきた。
今夜の宿泊場所は「道の駅 とうま」になるだろう。
比布(ぴっぷ)から丸瀬布(まるせっぷ)までは高速道路がタダだ。
これを利用すれば内陸とオホーツク海側の行き来はたやすい。
上川層雲峡インターから高速に乗り愛別で降り当麻町を目指す。
当麻町の「道の駅」を探していると携帯が鳴った。
東神楽の姉だった。
今当麻に居ると言ったら驚いていた。
それはそうだ。姉の居る東神楽はすぐそばなのだから。
最近姉のところに行っては野菜を貰ってきたりしていたので、ちょっと心苦しい
ところがある。
「寄りなさい。」と言われる前に「道の駅 とうま」に泊まって明日帰るからと
告げる。
「道の駅 とうま」は交通量の多い国道脇にあり、少し騒音が大きい。
しかし国道を挟んで反対側にローソンがあるので便利ではある。
今回の旅の最後の車中泊。
5泊目だ。
旭川〜増毛〜自宅 10月30日
翌朝、旭川地方は霧だった。
霧の中、札幌に向かう。
旅の最後は何時も「帰りたくないと」いう思いがつのる。
出来ればずっと何処までも旅を続けていたいという気持ちになるが、そうは行か
ない。
でも幾度も通っている道よりは、せめてあまり通っていない道をと思い、深川か
ら留萌方向の無料の高速道路を走る。
もっともこの道も2度は通っているのだが、海が見える方がまだ変化があって気
持ちが良い。
旅の初日に通った留萌から海岸沿いを南下し、増毛町(ましけ)に着く。
増毛町って通過するばかりだったが、漁港で魚の直売でもしてい無いだろうかと国道
を降り増毛の町に入る。
街に入ると木造の校舎が見えてきた。
増毛小学校開校133年という看板が掲げられている。
木造の風格のある建物で、我々の小学校の入学式の写真を見るとこんな校舎が写
っている。
よく残っていたものだ。
北海道で最古の木造校舎だそうだ。
札幌の白石小学校が今年139年だと思うが、ほぼ同じ頃に出来た学校なのだ。
もちろん校舎は建て替えられてると思うが。
増毛には国稀酒造がある。
純子に言わせると、とても旨い酒だそうだ。
小さな街だから、何となく走っていると見つけてしまった。
店の外に水汲み場があって、お婆さんがたくさんのペットボトルに水を入れて
いる。
酒屋だとか豆腐屋のあるところは水が旨い。
それで早速我々も水を汲ませてもらった。
暑寒別岳の伏流水だそうだ。
京極の水も旨いが、ここの水もまけずに美味しい。
すぐ近くに商家であった本間家の古い建物がある。
火災延焼防止のための、うだつが上がった立派な建物だ。
増毛って幕末にロシアの脅威のため秋田藩が本陣を置いたんだよ。
そういう歴史知らなかったなあ。
いわれのありそうな建物がいっぱいあって、少し腰を据えて見学する必要がありそ
うだ。
増毛は倉本聰脚本、高倉健主演の「駅 ステーション」でロケ地にもなったそう
で、俺も何度か映画見たけど寂れた駅と食堂、あれが増毛だったのかあ。
鉄道は廃線となり駅舎だけが残っている。
「風待食堂」の建物は観光案内所になっている。
この映画撮影中の高倉健、すぐそばで見たんだけどなあ、映画の中身あんまり覚え
てないなあ。
いずれにしても増毛はもう一度来なければならないと思いつつ札幌に向かう。
後は日常へ帰る旅で、ひたすら距離をこなすのみ。
北海道はおよそ行き尽くしたので、長旅はこれでおしまい。
この次の旅は本州旅行になるだろう。
ひと月か、ふた月かけてね。
何時になるやら。