第一回老人介護サミット
先日第1回老人介護サミットが某スナックで開催された。
と言って、開催しようと人を募って始めたのではない。
期せずして老人介護に関わりを持っている人間が集まり、愚痴を言っている内に話に熱がこもり激論となっていったのだ。
純子
ママ聞いてよ。あたくし、、、とうとう出世して親方になりました。
ママ
何だい、親方ってのは。
純子
家は週に5回デイケアサービスに婆さん通わせてるんだけどさ、施設の人が朝迎えに来たときに色々様子を話してくれるんだけど、ぼけ具合がどんな物か色々婆さんに質問してるみたいなのさ。
こないだまで「誰と一緒に暮らしてるの?」と訊ねると、「娘と二人で暮らしてます。」って言ってたんだけど、こないだ聞いてみたら「親方と二人で暮らしてます。」って言うんですけど、どういうことでしょう、と首かしげているのさ。
ママ
なに、二人でって、すがちゃんはいったい何処行っちゃったんだい?
純子
この人の存在なんて物は、はなから丸っきし無いみたいだよ。
それで思い当たったんだけど、最近婆さん放っておくとおかしなことばかりするからさ、何かさせようと思って雑巾を縫わせてるのさ。ほれ、婆さん今日はこれだけ縫うんだよって仕事与えると、敵もさるもの、手を抜くことを覚えているから、いい加減に縫って「出来ました。」って持ってくるんで「ほら、ばあちゃん、こんな縫い方じゃ駄目でしょう?やり直しなさい。」とやり直させたりしてたのさ。家の婆さんは施設に行って帰ってきても「ああ、疲れた。酷い目にあった。あたしばっかりこんなにこき使って。」と文句を言いながら帰ってくるくらいだから、自分は仕事をしに行ってるんだと思ってるのさ。だから当然雑巾縫いは仕事だと思うよね。
おっかない親方に仕事言いつけられてると本人は思っているらしいのさ。
ママ
あんたの家は飯場なんだね。だけどこれからもっと大変になってゆくと思うよ。
私の所もついこないだまで面倒みてただろう。長生きする年寄りは食欲だけはあるのさ。
朝みんなで食事をしていて旦那がテレビを見ながらお皿に箸を伸ばすと、箸がテーブルをカツンと叩く、あれっと思って振り返ると婆さんが旦那の皿を自分の所に持ってきて食べてるのさ。
「婆さんはもう食べたじゃないか。」と旦那が怒って皿を取り戻し食べていると、皿が蟻が這いずるように少しずつ動いてゆく。昔、自分の店が流行るようにバス停を1日10センチづつ動かして店の前をバス停にしてしまった子供が親孝行の美談として語られていたけどさ、婆さんが引きずってるのさ。
年取ると食い気しか無いのかね。
純子
なんかそうみたいだよ。こないだ友達と話していてね、友達は私たちより若いから母親も若いと思うんでぼけちゃいないらしいけれど、こないだ二人で食事をしてる時にお母さんのお皿のこんにゃくを「ちょっとちょうだい。」って食べたら烈火のごとく怒られたって言うのさ。
「あんなに怒られたの初めてだよ。あんな怒り方しなくても良いのにさ。」って言ってたけど、これはぼけの兆しかもしれないね。
すが
俺は人間、最後に残るのは色気と食い気だけだと思うな。でも順位をつければ最後に残るのは食い気だと思うよ。腹へってて死にそうなときにセックスしようなんて普通思わないだろう。
家に近所のメス猫のチョコちゃんが遊びに来ては、たらふくキャットフード食べてくだろう。あの子は去勢されてるから食欲だけが残ってるんだと思うな。
最近じゃ丸々と太ってきて、飼い主に怒鳴り込まれるんじゃないかと心配するよ。
色気と食い気というのは子孫を残すと云うことと、生き残ると云うことだから、生命としての人間の原始的な本能だと思うよ。
闘争本能なんてのは生殖と生存をするための手段であってさ、結局家の婆さんのしなびた脳に最後に残ってるのはもう食い気しか無いのさ。
だから人間色気が無くなったら生き物としては生殖も出来ない、社会に何の貢献も出来ないウンコを生産するだけの機械になってしまうんで、昔は姥捨てなんてことがあったんだろうな。
そこに飲みに来ていた医者が話に割り込んできた。
医者A
あんたたちねえ、そんなこと言っていても何時か自分も同じ立場になるんだよ。
親は大切にしなくちゃいけないよ。
すると隣で一緒に飲んでいた看護婦が強い口調で言った。
看護婦A
先生、あんたは全然わかってない。私も年寄り抱えているけどそんな甘いものじゃないよ。
本当に気が狂いそうになるくらい大変なんだから。しかも仕事を持って、家事もしてじゃない。身体が2つ欲しいくらいだよ。
ママ
家の婆さんなんかさ、訳わかんなくなってるから、壁にウンコを塗りたくったりした時にゃ泣きたくなるよ。怒ってもしょうがないのはわかっているけど、つい怒鳴ってしまうのさ。
情けなくてどんなに涙を流したことか。
純子
そういう台詞は良く言われるけどさ、それじゃ自分はちゃんと見てるのかって聞けば、そういうことを言う奴に限って年寄りの面倒なんか看てないんだよね。他人事だから綺麗事言えるのさ。家の婆さんいつでも貸し出すよ。お金つけてあげるから。
すが
聞けば、ママの所は家よりももっと大変だったみたいだね。家はまだウンコはトイレでするからね。でもおしっこはもう駄目だわ。ここ数年で急激にぼけてきてるわ。
前入院していたとき、同じ階にいつもお人形さん抱えたお婆さんがいてね、人形をいつも抱いて離さないんだけどさ、家の婆さんも遂にそうなっちまったよ。
こないだ俺が二階に居ると玄関の辺りで婆さんが誰かと話している声が聞こえるのさ。婆さんの独り言はいつものことだからと思って居たんだけど、どうも様子がおかしいので降りてみたら、純子がダイソーで買ってきて玄関の靴棚の上に飾っておいた人形に向かって話しかけてるのさ。ちゃんと「ふーん、そうかい。」なんて会話になってるのさ。
遂に壊れちまったか、と思い「婆さん。これは人形だぞ。話しかけたって解るわけ無いだろ。」というと「ちゃんと話しかけるとわかるんだよ。」と言って話し続けるから純子が「婆ちゃん、それじゃその子あげるから部屋に持っていきなさいというと、嬉しそうに抱いていったさ。
それで様子を見ていると、人形をベットに寝かせ毛布を掛けて話しかけている。
裸で着替えているときに人形を振り返って「あんた、見たねえ。」なんて言ってるのさ。
まあ、ほんとに自分の子供だと思ってるみたいだよ。
ついに此処までぼけたかと思ったよ。
子供に返ってしまっているらしくて昔のことは覚えて居るんだけど、5分前のことはもう忘れてしまうんだよな。
医者A
新しい記憶は大脳皮質から脳の奥にある海馬に送られ、それから側頭葉に送られる。側頭葉に送られた記憶は長期記憶となって消えないんです。
いわば海馬は揮発性メモリーで側頭葉はハードディスクみたいなもので、何度もメモリーにアクセスされた情報は忘れてはいけない情報としてハードディスクに記憶される。
ところが老化で海馬が萎縮してゆくと側頭葉に情報が送られなくなります。
だから昔のことは長期記憶として覚えているけれど、最近起きた出来事は忘れてしまうんです。
昔は医療が未発達でしたからぼける頃まで生きられなかったんですがね。
すが
成る程ねえ、そういやこないだ婆さんが純子に怒られて部屋の中でぶつぶつ文句言ってたのが5分経ったら一人で笑っていたもんな。それにしても入院していた病院は二部屋丸ごと年寄りばっかりだったな。
中には病気にかこつけて入院している人も居るんじゃないんですか?
看護婦B
居るみたいだよ。ねえ、ママ。ママも偶々お母さんが骨折して、一生病院暮らしになったから解放されたんでしょう?
ママ
ほんと、良かったよ。気持ちと生活にゆとりが出てきたもの。温泉行ったりしてさ。
すが
我々、団塊の世代がぼける頃になったらどうなっちゃうのかね。考えてみると恐ろしいことだね。俺なんか人の何倍も酒飲んでるから脳のシナプスの連結がブチブチ切れまくってると思うのさ。ぼけないように頭つかわないとなあ。
純子
あんたはもう手遅れだと思うよ。「俺、昼飯食ったべか?」なんて30分も経たないのに言ってるじゃないのさ。
すが
どんなにしっかりしている人でも、ある日突然おかしなことをするようになるみたいだね。
斎藤茂吉夫人、北杜夫、斉藤茂太のお母さん、斉藤輝子さんもあんなに頭もしっかりしていていた人なのに、外国のホテルで便を漏らしても気づかなかったことがあったらしいよ。
下の方が緩くなるのが老化のしるしかね。
純子
吉行あぐりさんってまだ生きてるよね。
あの人すごい歳じゃない。
こないだテレビでみたらまだ美容師してるみたいだよ。
昔からのお客さんが来てるらしいよ。
やっぱり仕事をするのが脳の刺激に一番良いのかね。
良くサラリーマンが引退して年金生活に入ると呆けてしまうということがあるじゃない。
女は料理作ったり掃除したりしてそれなりに忙しいじゃない。
すが
考えてみれば、婆さんが急にぼけたのは純子が来てからだなあ。
安心しちまったのかもしれないな。
俺は死ぬまで現役だよ。貯金も無いし、年金だって雀の涙だからね。
純子
あんた。雪のない田舎へ引っ越すって話はどうなったのさ。
すが
ああ、そうだった。でもまあ、それは夢だからね。
婆さんが大往生しないと俺たちの老後の設計なんかは出来ないな。
純子
想像するだけはただからね。婆さんは私の予想では後10年は生きると思うよ。
内臓丈夫だもん。下手すると私達の方が先に逝くかもしれないしょ。
だけど、こないだ施設に入る申し込みだけはしておいたよ。
7年待ちだって言われて、しかも申し込み順ではなく、途中で緊急を要する人が居た場合は後回しになるって云うけど、申し込まないよりはましだからさ。
すが
その頃には人の区別もつかないだろうから、寂しいとも思わないんだろうしな。
まあ、そんな愚痴を言いながらサミットは終わったのです。