初山別へ 2012年9月20日

かねてより計画していた初山別星見ツアーに行く。
夜勤明けの純子を乗せて初山別へ一目参。
初山別に着いたのは丁度日没の時刻で、天文台のある高台の無駄に広大な駐車場に車を駐め、天文台の敷地から海に沈む夕陽を眺める。

天文台の裏側は海になっていて、なだらかな斜面がやがて崖になって海になだれ落ちているが、その斜面はキャンプ場になっていて幾張りかのテントが設置されている。
一夜を過ごす人達が夕陽を眺めて写真を撮ったりしている。
夕陽が沈んだ後、車中泊の準備を整え空が暗くなるのを待つ。
頃合いを見計らい天文台へ。

受付には誰も居らず、観測中だから入場料を入れて上がってきて欲しいと貼り紙があり、空き缶が置いてある。
入場料を入れて観測室の階段を上る。
3階の観測室は暗く、65センチのカセグレン式反射望遠鏡と管理人のシルエットがあった。
初夏に来たときに会った人だ。

観測時間は21時迄なのだが、あいにくこの時期木星や土星は21時を過ぎないと観測出来ない。
とりあえず沈みかけている三日月を見せてくれる。
地平線に近いため大気の層が厚く像が揺らいでいる。
月を見るともう見る物がなくなってしまったかと思われた。

しかしさすがに65センチの大口径望遠鏡で、今度は星雲や星団を見せてくれた。ペガスス座にあるM15という球状星団に望遠鏡を向ける。
ウルトラマンはM78星雲から来たことになっているが、このMというのはフランスのシャルル・メシエという人の頭文字で、1780年頃の望遠鏡で見ることの出来た星雲や星団に番号を付けてメシエカタログという物を作った。

有名なアンドロメダ大星雲はM31、因みにウルトラマンの故郷であるM78もオリオン座に実在する散光星雲だ。
その後光学技術の発達によりもっと暗い星が見えるようになり、およそ100年後にはウイリアム・ハーシェル等が7840個の星達に番号を付けたNGC(ニュー ジェネラル カタログ)を作る。
従ってメシエ天体はNGCの名前も持っていて、アンドロメダ大星雲はNGC224ということになる。

普通小口径望遠鏡では星団などはもわっとした光にしか見えないのだが、これだけの大口径望遠鏡ともなると団子のような球状星団を形作る星の一つ一つが見分けられる。
しかし図鑑で見る写真のようにくっきりとは見えない。
あれは何時間も露光して感度を上げて撮影した物なのだ。

お母さんと小さな娘が上がってきて一緒に星を眺めていたが、お母さんが金属で出来たキーホルダーみたいな板を館員に渡して

「これ見られますか?」

と聞いている。

板にはなにやら数字が書かれていて、館員はそれを見て望遠鏡を操作し始めた。
普通は望遠鏡につながっているパソコンのソフトに、星の位置を示す赤経度、赤緯度を打ち込むと勝手に望遠鏡が動いてドンピシャ視野の真ん中にその星が現れるのだが、この望遠鏡はそれが壊れていて手動で動かさなければならないのだ。

館員はパソコンに打ち込んだ星のデータで呼び出したモニターの星野の画面と望遠鏡の接眼鏡を眼鏡をかけたり外したりしながら交互に見比べていたが、ようやく探し当てたらしく母娘に見せていた。
これは初山別町が行っているマイスターズシステムという物らしく、自分の星を選んで名前を付け登録できるのだ。

http://www.hokkai.or.jp/shosanbe/mss/mss.html

ドームのスリットから夜空を見ていると、天の川がはっきりと見えるということに気付いた。
天の川は英語でMILKY WAYというが、乳の様に白く、くっきりと見えている。
こんなに明瞭な天の川を見たのは40年近く前、自衛隊の教育訓練で一泊二日行進を行ったとき埼玉の田舎の廃校の校庭に寝袋にくるまって見て以来だ。

天の川を挟んでわし座のアルタイルとこと座のベガがひときわ明るく輝いている。
七夕の彦星と織姫の星で、大粒で滲んでいるようにさえ見える。
純子は以前から天の川がみたいと言っていたので教えるとすごく感激していた。
この満天の星空を見られただけで今回の旅の目的は達成された。



天文台を後にして、空を見上げながら駐車場に向かう。
車から風呂セットを取り出す。
天文台の小径を下りた所が道の駅「ロマン街道しょさんべつ」になっていて「岬の湯」という温泉があるのだ。
営業時間はあと一時間あるから十分に湯に浸っていられる。

辺りは暗いのでLEDのランタンをぶら下げて歩く。
最短で下りる階段もあるのだが、ランタンの光は拡散して薄暗く、安全のため回り道になっても曲がりくねった小径を通ることにする。
ここはランタンより懐中電灯を持ってくるべきだった。

風呂には殆ど人は居なかった。
小さめの浴槽が幾種類かあり、順番に入ってみる。
泉質は塩泉らしい。
小さいが露天風呂があり、眺めると遠軽に向かう海岸線に沿って灯りが連なっている。

どれかが利尻島の灯りなのかなあと思っていたら、丁度ホテルの人がゴミを掬いにやってきたので聞いてみた。
すると利尻島は勿論、天売島、焼尻島の町の灯りも見えたことが無いという。
成る程、地球は丸いから島の上の方は見えても、すそ野の方は海に隠れてしまっているのだろう。

風呂から上がり、来た道を今度は登って駐車場に向かう。
車に着き早速酒盛り。
しかし純子は前の日一睡もしていないし、俺も最近胸焼けがしていてあまり飲む気がしないので早々に切り上げて眠りにつく。

初山別〜稚内〜オホーツク紋別 2012年9月21日


旅の朝は何時も日の出前に眼が覚める。
やることがないから早めに眠るので、早く眼が覚める。
夜中寒さで眼が覚めた。
この時期はやはり毛布ではなく布団が必要のようだ。

隣に二台ほどバンコンが停まっているので、睡眠の邪魔にならぬよう広大な駐車場の端に移動して室内を暖める。
ぴぴの籠を覆っている毛布を取り除いてみると既に眼を覚ましていた。

旅行中は籠に入れっぱなしだから可哀相なのだが、人に預けるのも迷惑だろうし、こちらも心配なのでどうしても連れて歩くことになる。
キャンピングカーが来たらバンクベッドの部分がぴぴ様専用の部屋になる予定だ。

眼下に道の駅の建物がある。
建物自体は小さいが駐車場を挟んで向かいに宿泊施設と、それに隣接した「岬の湯」がある。
駐車場も狭く、すぐ傍に天文台の広大な駐車場があるのを知っていれば、あえてあんな所で車中泊はしないだろう。

初山別の丘陵から朝日が昇るのを写真に撮る。
本日も快晴。
日が昇るとさすがに暖かくなってきた。
車を道の駅に移動し洗面。

「アネックス」というキャンピングメーカーの「リバティ」というキャブコンが停まっている。
土浦ナンバーだ。
ベースの車輌は200系ハイエース。
新車のようだ。

洗面を終えて「岬の湯」の入り口で営業時間を見ると、なんと6時半から朝風呂をやっているではないか。
昨日純子は露天風呂に入らなかったことを後悔していたから渡りに舟。
朝風呂が始まる時間までそこいら辺を散歩する。

天文台の裏のなだらかな斜面は草原になっていて、その中を緩やかに曲がりくねった道が続いている。
バンガローが並んでいる。
階段があり下を覗くと漁港がある。

そういえば初夏に来たときに会った人が海に下りる階段があり、満ち潮で水に沈む鳥居があると言っていた。
膝の痛い純子を置いて階段を下りてみると確かに鳥居があった。
それも海の他に崖の中腹にも。

鳥居には○の中に金の字が描かれていた。
この岬は金比羅岬と言うらしいので、金比羅の金なのだろう。

朝風呂の時間に間に合うように引き返し、風呂支度を整える。
朝風呂は本当に気分爽快。
さっぱりして建物から出ると純子が

「あぁー!あんた、、、車のドアが開けっ放しだよ!」

という。
見ると運転席のドアが全開だ。

慌てて駆け寄り品物を確認すると貴重な物は全てある。
いつの間にか隣に移動していたリバティの持ち主が窓を開けて

「見張っていたから大丈夫だよ。」

と言う。
ドアを閉め忘れたのに気付いて見ていてくれたらしい。

おそらくは仕事をリタイアして旅をしているのだと思うが、7月からずっと夫婦で北海道を歩き回っているという。
このキャンピングカーは2台目らしい。
キャンピングカーの持ち主に聞いてみたかった足回りの補強だが、納車されたままの状態ではふわふわして高速道路などでは怖い思いをしたという。

板バネの追加をしても駄目、結局ビルシュタインのショックに交換してようやく落ち着いたという。
やっぱりエアサスとまでは行かずとも、ショックアブソーバーの強化はしないと駄目かも。

道の駅を出てとりあえず遠別方面に向かう。
純子が「えくぼ」のママに電話をして何か名所は無いか聞いている。
ママの旦那のケンちゃんは遠別が実家で、一昨年亡くなった実父は遠別の町長だった。
今はその地盤を弟が継いで町議会議員をしているらしい。

遠別のセイコーマートの所を右に曲がったら実家があるとか言っていたが、あまりにも小さな町なので何時の間にか町を通り過ぎていた。

遠別を越え天塩に向かってゆくと、道路脇に風力発電の風車が並んでいる。
その数20はあるだろう。
これだけ巨大な物が勢揃いすると壮観だが、アメリカの砂漠に設置された風力発電の風車の写真を見たことがあるが、これの何百倍もありそうだった。

空は秋の空。
箒を白い絵の具に浸けてさっと掃いたような雲が青い空に描かれている。
サロベツ原野の海に沿って伸びる道は何処までもまっすぐで、滅多に車とすれ違うこともない。
海上からそびえ立つ利尻富士を左手に見ながら北上する。

この利尻、礼文といった島がどうして出来たのかというと、今から1億3千万年前の白亜紀初期に、当時海底だった日高山脈の西に南北に連なる海溝があったのだが、太平洋プレートが海溝に斜めに引きずり込まれていって地下100キロ米に達するとプレートに含まれていた水分が逃げ出し、周囲のカンラン岩の融点を下げ溶かしてしまう。
そのマグマが上昇して作った火山がこの利尻、礼文、大韓航空機撃墜事件のモネロン島といった島なのだ。

とりあえず北に向かって走ったのだが、信号も無いので気分良く走っていたらいつの間にか稚内(ワッカナイ)に入ってしまった。

アイヌ語でワッカは飲める水、ナイは氾濫しないおとなしい川という意味だ。
だから稚内は「飲める水の流れる氾濫することの無い安全な川」という事になる。
暴れ川の事はベツと言い、ノボリベツとか石狩川のイシカリベツなどは氾濫する暴れ川なのだ。

アイヌ語の地名は東北地方にはかなり残っている。
東北だけではなく東京にも残っていて、山手線の日暮里とか上野とか、江戸さえもアイヌ語だという説もある。
我々が気付いていないで使っているアイヌ語もある。

例えばトナカイとかラッコはアイヌ語だ。
トナカイは英語ではREINDEER(レインディア)又はCARIBOU(カラブー)という。
従って赤鼻のトナカイは英語では「RED NOSED REINDEER」であり、トナカイでは無いのだ。

ラッコにしても英語名はSEA OTTERである。

オットセイなどはアイヌ語のオンネウが一旦中国で「膃肭(おつとつ)」と音訳され、そのペニスである「膃肭臍」(おっとせい)が精力剤として輸入されオットセイと呼ばれるようになったらしい。

稚内は初夏にも来たが何せ風が強く寒く、車から降りる気にもならなかったから燃料を補給して通過しただけだった。
とりあえず稚内駅で駅弁を買うことにした。

稚内駅は工事中で道の駅もJRの建物内に作っているようだった。
KIOSKを探したが何処にも無い。
とりあえず列車の乗降だけが出来る様になった状態なのかも知れない。
駅のすぐ前は港で利尻、礼文行きのフェリーが停泊していた。

アーチ状の屋根を支えたギリシャ風円柱列が2、300メートルほど続いている。
エンタシスとかドーリア式という文字が頭に浮かぶ。
一体全体この大仰な建物は何だろうと考えて、おそらく防潮堤なのだろうと結論づけた。



稚内港を見下ろせる高台に建物が見える。
公園になっているようなので行ってみた。
急な坂道を登ってゆくと左右どちらかを選ぶ曲がり道がある。
とりあえず右を選び走ってゆくと開けたところに出た。

見覚えのある像が建っている。
「氷雪の門」だ。
映画にもなったが、さほど興味も無かったのでどういう謂われでこの像が建ったのかも知らなかった。

1920年8月20日、日ソ不可侵条約を結んでいたのにもかかわらず、火事場泥棒のようにソ連軍が侵攻してきた。
樺太の真岡に逃げてきた日本人達はソ連軍に殺害される。
その通信を受けていた真岡の9人の電話交換手達は

「交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら」

の言葉を最後に青酸カリを飲んで自殺する。


純子の母親は真岡からの引き揚げ者で、引き揚げ船の混雑振りは大変だったらしい。
引き揚げ船に乗っても安全ではなく、8月22日の留萌沖海上で小笠原丸、第二新興丸、泰東丸が国籍不明の潜水艦の攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸は沈没、それぞれ638名、637名が死亡、第二新興丸は沈没は免れたが400名近くの死者を出す。
泰東丸の場合は戦時国際法に則り白旗を掲げるも、潜水艦はこれを無視し砲撃は続行され沈没する。

国籍不明ということになっているがこんな事をするのはソ連の潜水艦に決まっており、当時から今に至るまで日本の周囲は無法者国家ばかりだ。
こんな国々を相手に

「話せば必ず分かる。」

等と言っている輩は国を滅ぼす。
軍事力は外交の要だ。
使わなければそれに超したことは無いが、何時でも使うぞという姿勢を示していなければ舐められる。
外交とはテーブルについて笑顔で握手をしつつ、テーブルの下では蹴飛ばし合っている状態を言う。

鳩ぽっぽのように鍋釜薪に調味料まで背負って、国際社会の良心に身をゆだねようとすることは自殺行為だ。
こんな馬鹿が一国の代表になってしまうから、ロシア、中国、南北朝鮮に舐められるのだ。

昭和天皇の御歌を刻んだ石碑が傍にある。

御製「樺太に 命をすてし たをやめの 心を思へば むねはせまりくる」

御歌「樺太に つゆと消えたる 乙女らの みたまやすかれと たゞいのりぬる」

関係ないけど御製と御歌って使い分けてるが、どう違うの?調べても良く分からない。

傍らに売店の建物がありおみやげ物を売っている。
純子はフクロウの彫り物を買う。
店員に樺太は見えるのか聞いてみると、晴れた日には見えるという。
わざわざ外に出て指さして

「あの辺りに見えるんですけど、今日は見えませんねえ。」

と言っていたが、よく見ると樺太のあるという所に雲がかかっていて、雲の端の辺りに斜めに海面に落ち込む島の裾が見える。
知床から見る国後島よりかなり遠い。

100年記念塔という3、40メートル程の高さの塔が建っている。
野幌の100年記念塔は高張力鋼で出来ているが、こちらは鉄筋コンクリートのようだ。
何から100年なのか分からない。
入場料を払ってまで理由を知りたいとも思わないので塔の周辺を一巡りして車に戻る。

腹が減ったので食事をする場所を探していたら「稚内天然温泉 港の湯」という看板がかかげられている建物があって、土産物を売っていたりしているようだ。
入って見たら昭和30年代の、我々が洟を垂らして遊んでいた頃の町内風景が再現されていた。

映画館があり石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」のポスターが貼られていて、ドアを開けたら場末の映画館特有の小便臭い匂いがしていそうだ。
床屋があり、動脈の赤と静脈の青と包帯の白を象徴した、あのくるくる回ってるやつがある。
飾られているポスターのモデルはプレスリーにジェームズ・ディーン、クラーク・ゲーブル。
何故かドア横の地面に牛乳受の箱が置かれている。

食堂の粗末なショーケースには昔風の具のあまり入っていないラーメンや親子どんぶり、カレーライスの蝋細工の見本が飾られており、小さな赤いデコラ貼りのカウンターと、丁度肛門の辺りに穴の開いた安っぽい丸椅子が並んでいる。
銭湯の椅子に穴が開いているのは衛生面と、水はけを良くする為だろうけれど、この安食堂に良くある丸椅子の穴は何の意味があるのだろう。
軽くするため?

貸本屋があり昔の漫画本がショーケースの中に並んでいるが、ゴールデンコミックス版の単行本「カムイ伝」はちょっと昭和30年代からは外れるんじゃないかな。
調べたら昭和42年だもの。
その頃古本で買って、いまだに納屋の段ボールに入ってるわ。

そんなひとときのタイムスリップを二人で楽しみ、気分が高揚しつつ現代に戻る。
建物内に駅の改札口がある。昔の駅を再現した物のようだ。
展示されている写真を見ると、あのギリシャ風円柱で支えられた防潮堤の写真がある。
白黒写真で写っている人や物がどう見ても今の物ではない。

あの防潮堤と思っていた物の先には稚内と樺太の大泊との間を就航する稚泊連絡船の桟橋があり、列車はあの防潮堤の中を通って桟橋駅まで走っていたらしい。
北防波堤ドームというらしいよ。

http://kam-r.sub.jp/ainu/domu.html

昭和13年に作られたらしいけど、今見ても壮麗だ。

この「港の湯」のある建物の正式名称は知らないが、非常に面白い物が沢山あったね。
駄菓子屋があってREEちゃんの息子のたっくんのお土産を買う。
本人連れてきたら大はしゃぎになると思う。

建物を出ると幾つかこじんまりとした建物があるのだが、その中にロシア料理のレストランがあって、雑誌で見たことのある女の人が写ったポスターが貼ってある。
歌手の「兵藤ニーナ」さんの「ペチカ」というお店で、ライブもやっているらしい。

三善ちゃんは稚内転勤を断ったらしいけれど、なかなか良いところだと思った。
今度会ったら「稚内転勤も良いんじゃない?」と言ってみよう。





稚内から何処へ行こう?
今来た道を戻るか、オホーツク海側に回り込むか、、、と迷ったが、休みはまだあるし陽も高い。
オホーツク紋別を今夜の宿泊地にする。

浜頓別(ハマトンベツ)や枝幸(エサシ)辺りから内陸を走って紋別に行く道もあったが、ベコしか居ない単調な風景なのは昨年、音威子府(オトイネップ)に行ったときに知っている。
オホーツク海に沿う道も単調ではあるが、海が見えるだけマシだ。
というわけでひたすら紋別に向かって走る。

海に注ぎ込む川の周辺の海岸には延々と釣り竿が立っている。
釣り人達が車やテントに泊まり込みながらサケを狙っているのだ。
いったい一人平均何本の竿を立てているのか。

北海道の旅は「自然を浴びる」のが醍醐味だろう。
本州の旅は「歴史に佇む」のが良い。
昔に生きた人や出来事に思いを馳せるのが、本州の旅の楽しさではないかと思う。
その場に佇んで今の風景を見、昔の事を思い描く。
想像力を必要とする旅なのだ。

タモリの番組で東京の道を歩きながら「江戸時代はこの辺りには川が流れていて、、」とかやっている番組を見たが、あれは旅番組だな。
縦横上下を移動するだけが旅ではない。
時間を移動するのも又旅だ。

旅をする手段として人は飛行機や船や車を使うけれど、究極の旅は頭の中でする。
ホーキング博士なんて身体は車椅子に縛り付けられているが、心は宇宙の果てまでも旅して居るじゃない。
ああいう人達は退屈なんてしないんだろうな。

オホーツク紋別に着いたのは午後4時頃。
あえてオホーツク紋別と書いたのは他に日高門別もあるからだ。
紋別も門別も元はアイヌ語のモペッ(静かな川)に漢字を当てはめた物だ。

アイヌ語の地名のつけ方は単純だからあちこちに同じ地名がある。
宗谷のノシャップ岬(野寒布岬)と根室のノサップ岬(納沙布岬)はノッツ・シャム(岬が顎のように突き出た 場所・波の砕ける場所)

釧路市にあるペンケトー(上の湖)パンケトー(下の湖)と道北のサロベツ原野にあるペンケ沼とパンケ沼、札幌の中央区にある盤渓、これらはみんな上だとか下だとかいう単純な名前のつけ方なのであちらこちらに存在する。

昨年も車中泊をした道の駅「オホーツク紋別」で一泊。
昨年も駐車場の灯りが消えた後満天の星空だったが、今年も星がよく見えた。
しかし初山別の星空を見ちゃうとなあ。

紋別〜天人峡温泉〜旭岳 2012年9月22日



早朝眼が覚め出発の支度をし始めると、他の車の人達も起き出してきた。
近くの公園に飾られている砕氷船ガリンコ号を見に行く。
うーん、これはまさに東宝の特撮映画「海底軍艦」の轟天号(プラモデルの箱の画で有名な小松崎茂がメカニックデザイン担当だった)だ。

http://www.youtube.com/watch?v=HO2cFMNiIR8

ドリルのキリ先のような物が船首下部に4本付いており、これを回転させて氷を割って進むのだ。

元々はアラスカの油田開発の為に作られた「オホーツク」という船だったらしいが、流氷砕氷観光船として生まれ変わり、名前も「ガリンコ号」となった。
ガリンコ号Uが出来たので引退して展示されている。
乗りたいか?と問われれば、なんでわざわざ寒い思いまでして乗らなきゃなんないの?と思う。



紋別を出発して丸瀬布(マルセップ)から無料区間の高速に乗り、大雪山の麓の天人峡温泉に行くことにする。
姉の住む東神楽から30分くらいの所だから、帰りに寄れば又野菜をゲットできると企む。
天人峡と旭岳方面への分かれ道があり、後ろを走っていた車は皆旭岳の方向に曲がって行った。

ゆっくりと森の中の道を昇ってゆく。
最後のトンネルを抜けると天人峡温泉だった。
柱状節理の崖に囲まれた谷底に川が流れていて、橋の向こうに三軒ほどホテルがある。

これ以上車は行けないようだが、徒歩で行くと奥の方に羽衣の滝があり、さらにその先に敷島の滝というのがあるらしい。
羽衣の滝というのは観光パンフレットで良く見かけるが、純子は膝が悪いので徒歩で行くのは諦める。

橋を渡ってすぐのホテルに入り、日帰り入浴出来るか聞こうとカンターに行ったら、純子が傍の貼り紙を見て、日帰り入浴の時間にはまだ大分あると言う。
早すぎたか、、、と諦めようとしたらホテルの人が、今の時間なら入っても構わないという。
ホテルの客もみんなチェックアウトして、風呂掃除も終わっていたのだろう。

シーズンを過ぎたのか、他に誰も居ない風呂を独占する。
浴槽も大きくはないし、外の景色も良く見えない。
でもまあこんな物だろう。
さっぱりしたところで売店でお土産を物色する。

天人峡温泉から旭岳との分岐点まで戻り、今度は旭岳温泉に向かう。
旭岳にはロープウェイがある。
天人峡温泉は閑散としていたが、旭岳温泉は連休とあって観光客や登山客が沢山居り、駐車場も満員なものだからしばし待つことになった。

駐車場の誘導係の兄ちゃんはロープウェイは15分置きに到着するから、15分待てば間違いなく駐車できると言っていたがその前に出る車があったらしく、さほど待つこともなく駐車できた。

駅で切符を買おうとしたら一人往復で2800円もする。
二人で5600円かよ〜!と思ったが、たぶんこの機会を逃すと一生大雪山に登ることもあるまいと眼を瞑って買う。
片道券も売っているのは大雪山を縦走する登山客も居るからだろう。

ロープウェイの乗客が並んでいるが大層な数で「全員乗れるのか?」と思っていたら、ゴンドラの方も巨大であっさり全員収まった。
ゴンドラの製造メーカーはドイツ風の名前だったから、アルプス辺りのロープウェイのゴンドラをそのまま持ってきたのかも知れない。

山腹の木々はまだ紅葉して居らず、頂上に近い部分がわずかに褐色がかっていた。
頂上の「姿見駅」に到着し外に出てみると正面に旭岳がそびえ立つ。
頂上直下がスプーンで掬った様にえぐられているのは氷河の所為だろう。

登山道があるが純子は膝が痛いので俺だけが途中まで登る。
ゴロタ石ばかりの道でサンダルはまずかった。
こんな状態で道を外れて遭難したら「山を甘く見た無謀な観光客が」とか散々言われるんだろう。

後で純子に見せるためにビデオをたっぷり撮影する。
山頂をズームアップすると芥子粒ほどの大きさの登山者が見える。
眼を転ずれば東川から東神楽、旭川の町が見える。
湖は来るときに通り過ぎた忠別湖だろう。
これで冥土の土産話も出来たのでさっさと下りることにする。

姉の住む東神楽に着き「ひぐまラーメン」でラーメンを食う。
前回来た時「旭川ラーメン」なる物を頼んだら、初めて食べたときの「これこれ、これが旭川ラーメンだよ」と美味しく食べた物とは味も違えば、見た目ももやしがてんこ盛り嵩だけ増やした代物で「いったいどうしちゃったんだい?」とがっかりした。
値段も普通のラーメンより高い。
それで今回はもう一度普通の醤油ラーメンを頼んだのだが、すると最初の味に戻っていた。

前回姉の所に野菜を仕入れに行った時は幾ら呼び鈴を押しても出てこなかった。
ラジオの音は聞こえていたんだけど。
純子が「あいつ等また野菜取りに来たよ。居ない振りしようって居留守使ってるんじゃない?」と言っていたが、このときは偶々出かけていたらしい。
泥棒よけにラジオは付けっぱなしらしい。
今回は色々姉の為に動いてやった事もあり、大手を振って野菜を貰えるはずだったのだが、残念ながら収穫は終わり、ミニトマトが少し残っているだけというのでそれを貰うことにする。

姉の旦那は歳がかなり離れていてもう75歳近いと思う。
腰が悪く、杖をつきながら農作業をしている。
考えられないしょ。
働かなければ食えない経済状態じゃないのだから、のんびりしたら良いと進言するのだが頑として聞かない。

これは価値観の相違だから仕方ないなと諦めた。
俺なんかは死ぬときに葬式代だけあればいいや、金なんか浮き世の道具にすぎないから生きてる内に使って楽しまないとねと思う。
彼も金に執着はないのだが日々働くと言うことに人生の生き甲斐を感じているらしく、それを取り上げられたら起伏のない人生になってしまうと思っているらしい。
確かに痛いとかつらいとかあって収穫の喜びなんかもあるんで、季節の移り変わりの無い人生って生きてる実感薄いだろうなあとは思う。
惚けちゃうんじゃないか?と恐れても居るかも知れない。

これは性分だから他人があれこれ言うべきことじゃないなと思ったので又言うことはないが、姉はもういい加減のんびりしたいと思っている。
まあ、姉には諦めて貰うしかない。
たまには近くの天人峡温泉にでも連れて行ってもらっても罰は当たらないと思うけど。

そんなこんなで帰ってきたのが9月22日(土)夕方。
走行距離1000キロくらいかな。
これがハイエースの最後の旅になるか。


http://www.wakasaresort.com/asahidakeropeway/livecam/index.htm