市井のウンコ研究家がウンコのロマンを雄弁に語る

by 医学バカセ 蚊割 茂太

みなさーん、ウンコしてますか?
ウンコって不思議ですよね。
あんなにおいしく食べたお料理がどうしてウンコになるとあんなに臭くなるのでしょうか?
どんなに美男美女でも、等しく、人はウンコをします。
恋をしている若者が「あの人がウンコをするなんて考えられない」なんて言っても、非情にも、人間の摂理として人はすべてウンコをするんですね。

そもそも、ウンコが何故朝食の会話にあがらないのか?
何故OLが出勤時の朝の混雑したエレベーターの中で

「今日、1週間ぶりにウンコが出たのよ。」

「えー?、なに?、すごーい、私なんかもう一月も出てないのよ。うらやましいわ。」

「すっきりして、世界が私を祝福しているようだわ」

その会話を聞いていた人々が感動して口々に「おめでとう」と握手を求め、「ハッピーバースディ〜・トゥ・ユァ・ウンコ〜♪」と歌いだし、何時の間にかローソクが何本もおったったケーキが差し出される、と いう風景があたりまえにならないのか?

その理由は

「だって、ウンコって臭いんだもん。」

この一言に尽きると思うんです。

何故にウンコは臭いのか?
宇宙の真理として結果には必ず原因があると私は思うのであります。
そもそも、動物はこの地球上において単細胞生物から始まりました。
しかし進化の過程において

「一人ぼっちは寂しい、仲間と連れ添えばもっと楽に生きられるんじゃねえのかな」

と思ったのか、お互いくっつきあってボールになった。
まあ組合みたいなもんでしょうかね。

そのうち効率よく栄養を吸収するため表面の一部がへこんで袋ができ、そこに入り込んだ栄養を吸収するようになった。
それが腸の始まりで吸収した栄養の残骸は入り口から排出していたわけです。
ですから始めの頃は口も肛門も同じものだったわけです。

ところが、「どうも口の周辺にはかすばっかりで塩梅悪いな。そうだ、入り口と出口を分けたらいいんでないべか?」
と考えたのだと思うのだが、袋が反対側まで伸びていって壁に穴があき肛門になった。
個体発生は系統発生を繰り返すという法則があり、受精卵は成長の段階で生命が発生してから人間に到達するまでのすべてを
再現しつつ赤ちゃん誕生となるのですが、この原始的な腸、原腸は動物の胚の分裂の初期に見られます。
肺とかその他の臓器はみんな原腸から派生していったものなのです。
このように人間の腸や肛門は非常に古い、動物としての根幹をなす器官なのです。
まずこういった前提を知っておいていただいて、「何故にウンコは臭いのか?」という謎に迫ってゆきたいと思うのでございます。

さて、ウンコが臭いのは硫化水素、 メチル・メルカブタン、 ジメチル・サルファイド、 インドール、 スカトール、アンモニアなどといった物質
が含まれているからなのですが、何ゆえに臭くなければならないのか?

戦時中、中国大陸の日本軍は「雲香水」なる秘密兵器を研究していた。
これは強烈なウンコ臭を発生する液体でこれを敵軍の将校にふりかけ

「あっ、くっせえ、やーい、エンガチョ」と揶揄するものであったらしい。

ことほど左様に、ウンコというものは臭いものであるが、仮にウンコが香ばしい香りを発していたならどうなるだろう。

「なんて、美味しそうな匂いなんだろう。食べたら美味しいかも。よーし、今日の昼は焼きウンコだ。」

と思ってしまうかもしれない。

しかし、ウンコというものは基本的に食物として危険なものである。
細菌がいっぱいである。便を介して伝染する病気もある。
そこで、誤って口にしないようにわざわざ悪臭を放つように作られて、食べ物との区別ができるようにしているのではないかと、
不肖、ドクトル 蚊割 茂太は考えるのでございます。

上下水道という発明はたいしたもんである。
中世のヨーロッパなんかは不潔極まりない都市であった。
人々は肥え桶に用を足し、朝窓から外に捨てていた。
傘を差さなければおちおち外も歩けないような状況であった。
ベルサイユ宮殿などにもトイレなどというものはなかったから、そこいらへんで野糞であった。
(ベルサイユ宮殿に水洗トイレが出来たのは1728年頃と云われている。)
中世の貴婦人のスカートが針金で膨らましているのは、どこでもしゃがんで用を足せるためだった。

それに比べれば江戸時代の日本なんかは遥かに清潔で近代的な都市であった。
当時世界に類を見ない100万都市であった江戸は、その巨大な食をまかなうため、周辺に農地を持っていた。
その畑の肥料として百姓はお金を払って人糞を買っていた。
長屋の厠の糞は大家の取り分だった。正月の餅代くらいにはなったらしい。

大名屋敷の人糞は金糞とよばれ庶民の人糞より高く引き取られていた。
いいものを食っていたため、上質の肥料になったのだろう。
そうして人糞をまいた畑は豊かな農作物を実らせた。
食物サイクルが完成した都市であった。
水道にしても、江戸は江戸城、今の皇居のすぐ前は海で、何度か発生した大火や地震のごみで海を埋め立てていったため
水を確保するために上水道を整備していた。
実に清潔な都市だったのである。

下水道の歴史は古い。
元をたどれば紀元前4000年のインダス文明の都市モヘンジョダロに遡る。
近世の都市としてはパリの下水道も古い。
映画「第3の男」なんかを見るとパリの下水のトンネルのシーンがあって、レンガ積みのトンネルのような立派な下水で、人が歩ける歩道まである。迷宮のようだ。この下水道を歩き回ってみたい、と本気で思った。
(訂正 第三の男の下水道はウィーンでした。私の記憶違いです。でもパリの下水道が古いのは本当です。)

ヨーロッパでも、もともとは人糞を肥料として有効利用をしていた。
しかし、都市化が進みとても消費できない量になり、町中が糞まみれになってしまった。そしてペストやコレラといった疫病が発生した。
「こりゃいかん」ということになり下水を作り、町よりも下流の川に流すようになった。
東京だってついこないだまで汚わい船というのがあって、焼玉エンジンを積んだポンポン蒸気という小型船がウンコを積んで東京湾に捨てていたのだ。
確か渥美清演じる自称外国航路の船長が実は汚わい舟の船長だったというドラマもあった。
すべてを水に流すという言葉があるが、この頃は汚いもの、見たくないものは川にすてて目の前から消滅してしまえばそれで解決という時代であった。
その頃の東京湾なんて汚い海で魚もいなかったが、今は江戸前のアナゴも食べられるくらい綺麗になっているらしい。
公害防止対策と水洗便所の普及のせいだと思う。

トイレから流れていったウンコはどういう風にして汚水処理場に行くのだろう。
水に押し出されたウンコは狭いパイプから段々太いパイプに流れてゆき、風呂の排水やシンクの排水と一緒に下水管に流れ、さらに知らないウンコと一緒に暗い本管の中をドンブラコと汚水処理場までの長い旅をしてゆくのではないか、さぞや心細いことだろうと想像すると、「我がウンコに幸多かれ」と祈らずにはいられない。

汚水処理場でウンコはどのように処理されるかはこのホームページを見ていただきたい。

https://yokonoji.work/unti


最終的に水と固形物に分けて水は滅菌して川に流すわけです。
豊平川の汚水処理場の排水口で魚釣りをしたことがあったが、綺麗な水で匂いなんかなく、沢山の小魚が群れていた。
おそらくそのまま飲めるのだと思う。

固形物は焼却されるのだが、自治体によってはゆっくりと流れるコンベアーの上で発酵させ肥料として再利用しているところや、
レンガやタイルにされるものもある。
あなたが毎朝通勤で歩いている歩道のレンガも元はウンコかもしれないのです。

排泄行為というものは人間としてのアイデンティティにかかわる問題であるせいか、ネットで検索するとものすごい数がヒットする。
ウンコが出ないということは人間としての、動物としての、さらに生命としての自分を否定されることなのである。
かく言う私なんざ、自慢じゃないが一日に少なくとも3度は出る。
女性はホルモンの関係で便秘が多いと聞くが、さくら ももこ なんかは、自分の自慢できることに「ウンコがよく出ること」と、鼻の穴を膨らませながら得意げにあげている。
他人はともあれ私はとにかく食ったらすぐ出るので、[お前の前世はホースか?」とよく言われたものである。

ところで、皆さんはウンコを出した後じっくりと「わがウンコを」観察しているであろうか?
私事であるが、昔、便に血が混じり始めたことがあった。
始めは痔だと思って気にもしていなかったのだが、たまたま別の病気で入院して大腸検査を受けたらポリープが見つかった。
取って調べてみたら癌化していた。
幸い腸の4層になっている2層目で止まっており根こそぎ切除できたので再発もしないで生きているが、もう少し放っておいたら転移の可能性もあったわけだ。
便を観察することは自分の健康状態を知ることなので、是非お勧めしたい。
見たからといって決して飛びかかって来たりはしない。

人の体の中にはいろいろな生命がすんでいて、寄生や共生をしている。
腸の中には大腸菌がいるし、たまには回虫だっている。
最近は疑問の意見も出ているようだが、回虫を飼っているとアトピーにならないという説がある。
回虫は体内の異物であるためアレルギー抗体が攻撃しようとする。
回虫の方も攻撃を防御するためにアレルギー反応を抑制する物質を分泌する。
ところが生活環境が清潔になって回虫がいなくなってしまったために、杉花粉などに過剰に反応してアレルギーを起こしてしまうというわけだ。
無害な回虫であれば飼っていたほうが健康には良いのかも知れない。
ある寄生虫学者は外国にしかいない寄生虫をどうしても日本に持ち込みたいと思ったのだが、法律の関係で持ち出すことが出来ないので、卵を飲み込んで腸の中で育てて数ヵ月後に成虫を手に入れた。
又ある学者はわざわざ体の中にサナダムシを飼っていて、キヨミちゃんという名前までつけている。中性脂肪も減り大層体の調子も良くなったそうだ。

学者というのはエキセントリックな人たちであるから驚きもしないが、やせるためにサナダムシを飼っている人もいる。
オペラ歌手のマリア・カラスなんかはこの方法で50キロも痩せたそうだ。
いずれにしても、あまりに清潔すぎることは本来体に備わっている防御本能を阻害させ、生き物としての環境適応能力を薄れさせるものであるらしい。

>古来より人はウンコをした後の始末をどのようにしてきたのであろうか?
友人のドクトルたっけーによれば昔の日本人は肉食をせず穀類ばかり食していたため、いわゆるフンギレのよい便しか出なかったのであえて尻を拭く必要はなかった、弾丸のようにウンコを飛ばして流鏑馬も出来そうな勢いだったと言うことだが、日頃より怪しげな説を述べる人物である故、真偽のほどは疑わしい。

人は排泄の後始末に様々なものを利用してきた。
葉っぱ、縄、水、砂、雪、石、木のヘラ、とうもろこしの毛、藁。
およそ身近にある手軽に手に入るものを利用してきた。
しかし一番きれいに出来るのはやはり水で洗うことらしい。
以前テレビで見たが中東諸国の人たちが住んでいるアパートでは紙を使わず水で洗うのでトイレがべちゃべちゃになって困るとアパートの大家が嘆いていた。

便所というものは何故作られるようになったのであろうか。
私たち日本人は他人に排泄行為を見られるのは恥ずかしいことと思うが、世界には道端でウンコをするのを見られても恥ずかしいと感じない人々がいくらでも居る。
要は慣れの問題なのだろう。中国のトイレは仕切りがなく何人も並んで排泄をするようでニイハオトイレと呼ばれる。世間話をしながらウンコをするからだ。
こんなところで会社の上司なんかに会ったら非常に気まずいと思うのだが。

「あぁ、社長。こんなところでウンコされていたんですか。」
「おぉ蚊割くんか。隣が空いてるから使ったらどうかね。ところで、例の企画はどうなってるかね。ブリブリ。」
「はい、ブリブリ、ただいま鋭意進行中でございます。それにしても社長、流石に良いお食事をしていらしていると見えてウンコも大層太くてご立派でございますね。」などとお世辞のひとつも言わなければならない。
しかし、いくら社長が立派なウンコをしても、している姿というのは滑稽なものである。
威厳もへったくれもない。これは犬なんかもそう思うらしく、散歩に連れて行ってウンコをする時、飼い主の顔を上目遣いで伺いながらばつの悪そうな顔をする。

私の知っている限り、ウンコをしている姿が描かれているのは日本の飢饉の様子を描いた絵巻物と、シャガールの「町の上の恋人たち」と云う絵だけである。シャガールの絵では幸せな恋人たちが町の上空を抱きあいながら飛んでいる下のほうでお尻を出しながらウンコをしている人物が小さく描かれている。恋愛をしていると精神的に至福に満たされて空を飛んでいるような気分になるが、現実はウンコをする存在なんだよということか。

ウンコをしている姿勢というのは非常に無防備な体勢である。
戦場で催してしまった場合ウンコをするのも命がけである。
草むらでウンコをしているときにばったり敵に出くわしてしまったときは銃を手に取るべきかそれとも紙か、非常に悩むところではある。こちらも驚くが敵も驚くことだろう。案外敵も反射的に「あっ、これは失礼!」と逃げてしまうのではないか?
これが戦国時代であれば

「あいや、しばしおまちくだされ、拙者唯今脱糞をしておる。このような格好で討ち死にしたとなれば末代までの恥。何卒しばしの御猶予を。」

「判り仕った。このような格好で死んだとなれば主君にも申し開きが出来ないことであろう。どうぞごゆるりと脱糞なされい。」

「ありがたきしあわせ。このご恩末代まで忘れまじ」

てなことになるのだろうか。

いずれにしても、尻を丸出しにしてブツをこの世の置き土産にあの世に旅立つことだけは避けたいものだ
>
>このところの降雪で道路わきに壁のようにそそり立っている雪山を見ると、この厄介者でしかない雪を何とか利用できないものか?とつくづく思ってしまう。
ウンコについても同様、毎日世界中で人間や家畜から膨大な量排泄されるものを何とか資源化出来たら人類に恩恵をもたらすに違いない。
同じことを皆考えているらしく、この間テレビを見ていたら欧州のどこかの国の畜産農家のおっさんが家畜の糞を発酵させてメタンガスを取り出し自動車の燃料として利用していた。完全燃焼すれば炭酸ガスと水になるだけだから良いのだけれど、一部は燃えきらずメタンのまま排出されて町に悪臭が漂うことにならないかと危惧する。

匂いはともかく実はメタンガスというのは二酸化炭素よりも20倍も地球温暖化をもたらすのである。メタンガスというのは泥沼でよくボコッと出てくるあぶくなんですけどね、日本には大規模な沼地があんまり無いから地球温暖化って言うと二酸化炭素って思ってしまうんだけれど、世界的にはメタンガスの問題も大きいのである。メタンガスを自動車の燃料にすることは、より悪影響の少ない二酸化炭素という形で大気中に放出するわけであるから良いのだけれど、問題なのは回収できずに大気中に排出されるメタンガスである。

大気中のメタンの16から25パーセントはなんと牛のゲップから排出されているという。
牛は胃を何個か持っていてその中に植物を分解する微生物を飼っている。そして胃である程度消化した食べ物をもう一度口に戻して噛みなおすと云う反芻をしている。
そのときに胃の中に溜まったメタンガスをゲップにして大気中に放出している。
生体みどろが沼なのである。
そしてそのゲップが異常気象を世界中に引き起こし日本に大雪を降らしているのだ。
まあ、本当のところは化石燃料を燃やすことによって発生する二酸化炭素の方が遥かに多いんだろうが、ニュージーランドのように人の数より羊の数の方が多い国では畜産農家に環境税をかけているし、1997年に京都で行なわれた地球温暖化防止の会議ではインドにあまたたむろする野良牛のゲップについて、インド代表が各国に対策を求められるなどということもあった。
反芻している牛の口にガスマスクをかぶせてホースをつなぎメタンガスを採集することなど出来ないものであろうか。

考えてみれば肉食というのは環境という面から見れば非常に効率が悪い。
ラム肉を食べるためには羊の餌のために広大な牧草地が必要になる。日本のように高温多湿で植物が繁茂しやすい環境では牧草地を作るよりは植物を直接食べたほうが手っ取り早かったのだろう。その結果日本人の腸は長くなり胴長短足になったというわけだ。
太平洋戦争当時、米軍は日本軍の人員数を推測するため接収した陣地のトイレで大便の量を調べたということだ。肉食人種は便の量が少ないから日本軍の人員を倍くらいに見誤っていたということである。日本人の糞をなめてはいけない。

よく思うのだがバスの運転手などは仕事中にウンコがしたくなった場合どうしているのであろうか?タクシーと違って勝手に公園のトイレに乗り付けると云うこともできないであろうし。
バスの場合はまだしも、戦闘機のパイロットともなると、身動きできない狭いコックピットの中で、小の方はなんとかなっても、大の方の処理はおむつ以外には無いであろうと調べてみると、空自の場合は本人の希望で、米軍の場合は全員がおむつ着用だと云うことである。航空母艦の着艦では滑走路に比べ遙かに短い距離を、アレスティング・フックをワイヤーに引っかけて無理矢理着艦するので、その緊張感でお漏らしをすることがままあると聞いたことがある。
極めつけは宇宙服を着けた状態での排泄であろう。当然おむつは着けているのだろうが、宇宙服と体の隙間のごくわずかな空間にウンコのにおいが閉じこめられ拡散されない場合、自分のウンコの臭いで気絶などしないものであろうか?それともヘルメットの内部に活性炭でも埋め込まれているのだろうか?
それを考えるとウンコやおならの出やすい体質の私は、宇宙旅行はできないなあと思うのである。

現在有人火星飛行計画が考えられているが、6人の宇宙飛行士が2年間の飛行をするとその糞尿の量は6トンに及ぶということだ。これを昔の国鉄の列車の様に宇宙空間に垂れ流しにすればデブリとなり、後に打ち上げられる宇宙船に高速で衝突し、「火星飛行船爆発の原因はウンコ!」などという見出しが新聞の第一面を飾るかもしれない。
現在NASAはこの6トンの糞尿をリサイクルして 飲料水、栄養剤、果ては電気まで作ろうという研究をしていて、その鍵を握るのが最近、川の泥の中から見つかったバクテリアなのだそうだが、有機物を分解して電気を生み出すことができるらしい。
まだ実用化には困難が伴うらしいが、これが実用化されれば中国やインドなどといった国は一気に資源大国になるだろう。何せこれらの国は人糞には事欠かないのであるから。
国の実力を測るのに国民総糞産(Gross National Shit Product)などというものができるかもしれないし、人糞獲得のための侵略戦争までが起こるかもしれないし、ウンコ相場なんかもできるかもしれない。

飲んだ帰り道、「ちょっと、旦那、ウンコ売りませんか?今相場はこれくらいなんだけど、うちはこれぐらいまで出しますぜ。」などと、闇の商売人まで現れるかもしれない。

糞尿の利用法としてこの研究が画期的なのは電気という、エネルギーの運搬が容易なものを直接作るという点だ。
今、家庭用ソーラーパネルなどで発生した余剰電力を電力会社に売ったりできるが、各家庭でもこの装置を便器につなぎ小遣い稼ぎができるかも。
大食らいで食費が家計を圧迫しており、尚かつ、大量のウンコを日々生産しているという貴方!
もう老後の心配をする必要はありません。貴方の未来はバラ色です。

電気では無いが江戸時代にあった糞尿の利用方法としては、加賀藩では糞尿から火薬を作っていた。乾燥させた植物を人の尿でしめらせ、蚕の糞をまぶし床下に土と交互に積み上げ熟成させて作った。

https://karuchibe.jp/read/11038/


このように思いもかけないものが糞尿からつくられるのだが、中には直球ど真ん中、うんこで作る料理もある。
ホンタクという朝鮮料理で、腐敗するとただでさえアンモニアの臭いがするエイを人糞の中につけて発酵させた究極の臭いフェチ料理である。
儒教の影響で親のウンコを嘗めて親の健康状態を推し量るのが親孝行といわれる風習のあった国だから、ウンコで作る料理というものに抵抗感が無いのだろうか?
私は遠慮するけど、どなたか食べた人が居たならどんな味だったか教えていただきたいものだ。



6代目笑福亭松鶴の、この世に残した最後の言葉は「ババしたい」だったと云うことだ。
ババとは関西方面でいうウンコのことだ。
これは最後を看取った笑福亭鶴瓶の語ったことだが、この話を聞いて考えさせられた。
今生の最後の言葉にしては、何とも情けない。
「松鶴死すとも 落語は死せず」みたいな言葉を言えなかったのだろうか?、、、と。
でも考えてゆくうちに、如何にも人間らしい死に方で良いではないかと思え始めてきた。

死ぬんだからウンコぐらいしたって誰も文句はいわないだろう。
どうせ死ねば筋肉が弛緩してウンコが出るんだし、結果同じなんだから。
でもそれを我慢して死んでいった所が凄いと思う。
生ある間は人として生きたい、という気持ちの表れだったのだろう。

人間とは一言でいえばホースである。
口から物を食べ、肛門から排泄する機械だ。
食物はホースの途中についている器官の働きによりバラバラに分解される。
そして再構築され、身体を構成するタンパク質になったり、生命エネルギーの共通通貨であるATP(アデノシン三リン酸)になってゆく。
おかげで我々はホースを包み込んでいる筋肉を動かして労働したり、運動をしたり、或いは脳細胞を流れる電気信号とシナプス部分の化学反応の作用で、ウンコとは、宇宙とは、俺はどこから来て何処に行こうとしてるんだよ?!という哲学的、科学的、宗教的な命題にロダンの「考える人」のように頬杖を付き、深く思いを巡らせるなんて事が出来るわけである。

仏教で言う四苦八苦、或いは恋愛の歓喜なんてのも、このホースを中心にした活動の中で生ずる現象なのだ。
食べることと、排泄をすることは生命活動にはつきものなのだ。
生命の定義とは代謝と自己複製が出来ること。
代謝というのは細胞レベルの言葉であるが、人でいえば食べて身体とエネルギーを作り、食べかすを、かつて身体を構成していた有機物と一緒に排泄する事だ。

食べることに関して人はやたらご執心で、やれ、どこそこのラーメンが旨いだとか、三つ星レストランがどうしたこうしたと語る。
美味しそうな料理の写真が沢山載っている料理本なんかが、毎年沢山出版されている。
新作料理だとか新しいお菓子なんかがつぎつぎ生み出されている。
味は勿論の事、彩りを考えたり、栄養バランスを考えたり、その情熱たるや

「人は食うために生まれてきたのか?!」

と思わせられる。
実際、食うために生まれてきたのか、生まれてきたから食うのかよくわからん。
そして他人に不快な思いをさせないように、食事の作法などという物も生み出された。

一方ウンコに関しては、「正しいウンコをする作法」「ウンコの綺麗なとぐろの巻かせ方」「一本糞はどうやって作る」といった本を寡聞にして知らない。
ウンコに関しては、それぞれが勝手なやり方で好きなようにしろということなのだろう。
共通しているであろう事は、逆立ちしてウンコをする奴は居ない、ということくらいか。
重力に逆らっては自分に被害が及ぶ。
でもムツゴロウの所に居た狸は、逆立ちしてウンコをしていたらしい。
勇気のある狸だ。

多くの人は食べることには関心があるが、排泄には無関心だ。
むしろ視界からウンコを遠ざけようとしている。
でもウンコをするのは気持ちが良い。
毎朝快調にウンコが出ると、ああ、生きているんだなあ、としみじみと思う。
排泄は何故にこんなに気持ちが良いのだろうか。
やはりそれは人が基本的にホースであり、入れた物を出さなければホースが膨れ破れて、はなはだまずい事になるから気持ちよく感じるようになっているのだと思う。
便秘の人って気の毒だなあと思う。

何故に自分はこんなにウンコにこだわりを持つのだろうと我ながら時々思う。
多分それは私に幼児性が強く残っているからだと思う。
フロイドによれば子供がウンコが好きなのは、排泄されたウンコを自分の身体の一部と思ってしまうからだという。
自分と他者の境界線がはっきり解っていないからだという。
モーツアルトはウンコの話が大好きだったが、あの幼児性を思えば確かに当たっているかも知れない。
でも私は流石に、アラレちゃんの様にウンコを棒で突っついて、眠りから目を覚まさせてやろうなどとは考えない。
怒って飛びかかられたら怖いじゃないか。

「ウンコに学べ!」有田正光、石村多門共著 という本によると、牛若丸の丸は「おまる」の「まる」で、幼名に糞と付けるのは、糞は鬼や魔物も嫌うので病気や怪我から子供を守る事が出来るという事かららしい。
柿本人麻呂の麻呂も丸と同じくウンコの事だ。
日本の船は○○丸とかいう名前が付いていて、外国ではマルシップと日本船の事を呼ぶが、これは「○○ウンコ」という名前の船なのだ。


気まぐれに続く、、かも