妖怪居酒屋
今から5年ほど前、たまには小樽で飲みたいなということになって出かけた。
花園の市場の裏手の路地を歩いていたら,
A亭という、長屋の一角でやっているような居酒屋があった。
屋根は今にもつぶれそうに波打ってるし、壁も昔ながらの板壁で蔦が覆っている。
入り口には木で作られた妖怪ポストの様な郵便受けが立っており、異様な雰囲気を醸し出していた。
「ほんとにこの店やってるんだろうかね?」
と純子に言うと、純子も
「怪しい雰囲気だよね。」
と答える。
粗末な板を貼り付けたドアの隙間からのぞくと灯りが見えた。
「やってるみたいだよ。」
というと
「なんか怖いよ。帰ろうよ。」
と純子は反対したが、何か面白いことが起こりそうな予感がして、木の枝で作られた取っ手を掴んであけてみた。
中に入ってみると、店の外見に負けず劣らず妖怪じみたママが居て、やる気なさげに
「いらっしゃい。」
と言う。
カウンターの粗末な木の椅子に座って、とりあえずビールを注文した。
おしぼりを受け取りながら周りを見渡せば、店の中は何もかもゆがんでいる。
丸太を縦に切っただけのカウンターも、木の皮をむいて作った柱も、くすんだ壁も、すべてムンクの「叫び」の様に奇妙にゆがんでいる。
レジスターなんかは大正時代のものだろうか。
カウンターの上には、昔の街灯のようなものがぶら下がっており、傘の中に裸電球がねじ込まれているが、ワット数が小さいのか随分薄暗い。
時間が止まってしまった様な異空間だ。
足元を見れば床はなく、土のままだ。
雨の日は長靴でも履かなけりゃ、飲んでいられないだろう。
ビールと軽いつまみが出てきて一口飲んで横の壁を見ると、悪戯書きの様な鳥の絵が描かれている。
一瞬子供の悪戯書きかと思ったが記憶のどこかに引っかかるものがある。
「ママ、この絵どこかで見たことがあるような気がするんだけど。」
と言うと、ママが生気のない顔で
「ああ、それ黒田征太郎が開店の時描いてったんだよ。」
と事も無げに言う。
驚いて
「何で黒征が来たのさ。偶々かい?」
と訊くと
「私、昔東京で編集者しててね、その頃からの知り合いだから、わざわざ開店祝いに小樽まで来てくれたんだよ。
でもね、身体の具合も良くないので店もやめようと思って居るんだよ。
そうなったらここもこんなにぼろぼろだから、取り壊すことになるんだろうね。」
「そしたらこの絵はどうなってしまうんだい?壊すときは取りに来るからさ、教えてよ。」
改めて絵を見ると、確かに黒田征太郎のタッチの絵だ。
この絵がこのボロ屋の崩壊と共に消滅してしまうのは何とも惜しいと思った。
ビールを勧めようと思って
「ママはお酒は飲まないのかい?」
と訊くと、
「私は身体を壊して小樽に戻ってきたのでお酒は飲まないの。」
という。
こんな店にも常連は居るらしく、そのうち他の客がやってきた。
中には若い女性客も居る。
薄暗い居酒屋も何となく華やいで来る。
後ろを振り返ると古色蒼然としたジュークボックスがある。レコードが入っている奴だ。
昔のアメリカンポップスやらが入っている。
「ママ、これ動くのかい?」
と訊くと
「曲の数は少ないけどちゃんと鳴るよ。」
と言うのでコインを入れて選曲ボタンを押した。
ムード音楽が流れてきて、今から思えば恥ずかしいのだが、その頃はつきあい始めたばかりだったから、
純子が「踊ろう。」と言うのでその場違いな雰囲気の中で踊ったりした。
踊ったせいか酔いがまわってきて、眠くなってきた。
他の客と話したりしている内にいつの間にか例のごとく眠ってしまったらしい。
辺りが騒がしいので目を覚まして、壁の振り子時計を見てみるともう一時を過ぎていた。
隣を見ると純子が髪の毛を斜めに垂らして、今時珍しいちゃんちゃんこを着た丸顔の男の子に徳利を差し出しながら
「ほーれ、ほーれ、もっと飲まんかい。男は勧められた酒は全部飲まなきゃいけないよ。」
と酒を勧めている。
びっくりして
「純ちゃん。子供に何で酒なんか勧めるんだ。」
と言うと
「あんた、何いってんのさ。こいつはこう見えても、もうとっくに四十は超してんだよ。あたしが小学生の頃からだからね。」
というので寝ぼけ眼をこすってよく見ると、なんと鬼太郎ではないか。
「あれ、鬼太郎。何でお前こんな所に居るんだ。」
と訊くと
「ここのママとは昔からのつきあいなんです。まだ、水木先生が売れない頃、貸本に『墓場の鬼太郎』を描いてたんですが、
それを見つけ出してメジャー雑誌に載せてくれたのがここのママなんです。
墓場では陰気すぎるからゲゲゲの鬼太郎と題名を変えられましたが。」
「ふーん、そうなんだ。ママも随分顔が広いんだな。」
ママは口元を少しゆがめて自嘲するように「ふっ。」っと笑った。
「目玉の親父はどうした?」
と訊くと鬼太郎は
「そこに居ますよ。」
とカウンターの隅を指さした。
すると欠けた茶碗の中で目玉の親父が風呂につかっていた。
目玉が赤いところを見るとどうも酒風呂らしい。
「親父さん、貸本マンガの墓場の鬼太郎は最初のシーン怖かったよなあ。
墓に埋められた母親の身体を破って鬼太郎が生まれるんだったよな。
あんたも確か初めはちゃんとした死体だったよな。
腐った死体から目玉だけ逃げ出したのがあんただったような気がするが。」
「女房もワシも病気になって死んでしまったのじゃ。
女房はさぞや子供の顔を一目なりとも見たかったことじゃろう。
しかし流石に妖怪の子供じゃのう。
母親の腹を食い破って生まれて来るとはのう。
ワシは生まれてくる子供が不憫でたまらず、身体が腐れきってしまわぬ前に、魂を目玉に移して生き残ったのじゃよ。」
「他の仲間は来ないのかい?」
純子が訊くと
「みんな来ておるわい。ほれ、そこに一反木綿が居るじゃろう。」
目玉の親父の視線をたどると、厨房の壁に掛けられた白いタオルに細い目が開き、ひらひらと店の中を漂いはじめた。
「そこにはほれ、塗り壁が居るじゃろう?」
黒田征太郎の絵が描かれた壁がせり出してきて、鳥の目が瞬いて壁全体がお辞儀をするように折れ曲がった。
「子鳴き爺は?」
と純子が訊くと鬼太郎が
「さっきから旦那さんの背中に乗っかってますよ。」
と言うので、すがが慌てて後ろを振り返ると、蓑を着た禿頭の爺が背中にしがみついていて、すがと目が合うとニヤリと笑った。
すがは思わず身震いし
「爺!早く降りろ!」
と身体を震わせたり、一本背負いを食らわせようとしたが、子鳴き爺は頑として離れようとしない。
どうにもならないので鬼太郎に
「鬼太郎。何とかしろよ。お前がボスなんだろう?」
と言うと鬼太郎が
「子鳴き、それくらいにしてやりな。」
と言い、子鳴き爺は渋々背中から降りカウンターの椅子に座り、ママに焼酎のライム割りを頼んで飲み始めた。
「全く、どうもさっきから身体が重くて動かないと思ったらお前のせいだったのか。
こんどやりやがったら、その蓑にくるんで重しをつけて小樽の港に沈めてやるぞ。」
というと、子鳴き爺は又素早くすがの背中にはりついて大騒ぎとなった。
鬼太郎と純子がお互いをなだめて、二人はそっぽを向きながらカウンターの端どうしに座った。
「砂かけ婆は来てるのかい?」
と純子がママに訊くと、
「あの人はあれでなかなかの実業家でさ、最初は妖怪専門のアパートを経営してお金をこつこつ貯めてたんだけど、
丁度バブルの頃にうまく波に乗って、今じゃあちこちにマンションを沢山持ってる大金持ちさ。
時々テレビに出てくるよ。変な帽子かぶって、杖もって、マジッシャンみたいな格好でね。」
「ああ、あの人が砂かけ婆だったのか。どうもちょっと変わった人だと思っていたけど。」
純子もすがも、思わず声を出して驚いた。
「それじゃあ、もうこんな店には来ないんだろうね。」
とすがが言うとママが
「あんた、随分言ってくれるねえ。確かにこんな店だけどさ。」
「ごめん、ごめん。これはこれでなかなかユニークな味のある良い店だと思うよ。」
とすがは慌てて取り繕った。
「それでも、やっぱり妖怪仲間が懐かしくなるんだろうね。時々、自家用ジェット機とヘリコプターを乗り継いで遊びに来るよ。
ちょっと酒癖が悪い人だから、良く客と喧嘩したりして砂を投げてるよ。」
すがの隣にはフード付きの薄汚れた元々は白い色をしていたのだろうが、今は汚れてあかじみた服を着た男が、壁の方を向きながら膝の上で何かを勘定していた。
何か異臭が漂っている。
もしかしてとのぞいてみると男は膝の上で札を数えていた。
「あんた、ネズミ男じゃないのかい?」
と訊ねると男は振り返り、ぐりぐりした目ですがを見ていきなり息を吹きかけた。
あまりの臭さに、すがは気が遠くなっていった。
「あんた、大丈夫かい?」
と純子の声が遠くに聞こえる。
身体が揺すぶられる。
どろりとした意識のまま顔を上げて時計を見る。
針は一時を指している。
目をこすりながら周りを見回すと、店にはママと純子しか居ない。
「あれ、鬼太郎達は帰ったのかい?」
と聞くと純子が
「鬼太郎って何のことさ。」
と言う。
「目玉の親父や、一反木綿も居たじゃないか。」
と、厨房の壁の一反木綿を指さすと、
そこにはただの白いタオルがだらしなくぶら下がっているだけだった。
「あんた、何寝ぼけているのさ。飲み過ぎだよ。途中で又眠っちゃってさ。タクシー呼んであるから、もう帰ろう。」
そう促されて店を出た。
未だにあれが本当のことだったのか、夢だったのかよくわからない。
時々小樽に仕事に行ったときに店の前を通ってみるが、
相変わらず崩壊しそうな屋根はしぶとく一応屋根としての役割は果たしており、
黒田征太郎が作ってくれたのか、奇妙な鳥の絵が描かれた新しい看板がぶら下がっていた。
これは実話です。、、、、大体。