「謎解き 江戸のススメ」という番組が面白くて毎週録画しているのだが、江戸時代将軍家の娘を嫁に迎える大名は門を朱塗りにするのがしきたりだったらしい。
東京大学の朱塗りのいわゆる「赤門」は、元加賀藩前田家上屋敷の御守殿門(三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の娘を御守殿と言う)で、文政10年(1827年)将軍徳川家斉の娘「溶姫」が前田家に嫁いだ時に建てられたものなのだが、この朱に塗るということがとてもお金がかかり、映画のセットの様に正面だけ朱に塗って裏はそのままというのも多かったらしい。
何故そんなに高かったのだろう、いったいどんな塗料を使っていたのだろうと調べて見た。朱を作る材料には鉛丹(四酸化三鉛 Pb3O4 )、丹(に)とも言う辰砂(しんしゃ 赤色硫化第二水銀 HgS)、弁柄(べんがら 酸化第二鉄 Fe2O3 )などがあったようだ。
辰砂はとても貴重で高価な物であったから、これを塗ったのでは無かろうか。
水銀(丹=に)は木材防腐効果がある。
あをによし 奈良の京は咲く花の にほうがごとき 今さかりなり
という歌がある。
この「あをによし」は奈良にかかる枕詞なのだが、元々は「青丹よし」で、田舎の太宰府に転勤させられた小野老(おののおゆ)が青(ほとんど緑)と丹(朱)に塗られた建物がある華やかな平城京を懐かしんで歌った歌だ。(寺院や講堂などの建物は柱を朱に、窓のようになっている部分は青緑に塗られている。)
「いや、そうじゃない。なんで青と丹に分けて読むんだ?ここは青丹で良いじゃないか。
青丹とすると丹は土の意味も持っているから、青い土である岩緑青 (いわろくしょう 孔雀石)を馴熟(なら)して顔料にすることから『なら』の枕詞になったんだろう。」
という説もある。
http://www.chuo-paint.co.jp/sougen.html
鉛丹は光明丹ともいわれ、平安時代の建物の朱色はこれを膠に混ぜて塗っている。
古代ローマでもこれを顔料として使っていて、ポンペイの遺跡でも見つかっておりポンペイレッドと呼ばれている。
たしかさび止めのペンキにも鉛丹は使われていたと思う。
弁柄は江戸時代にインドのベンガル地方産の物を輸入していたためベンガラと名付けられた。辰砂の代用品として使われていた。
ベンガラは紫外線による退色が少ない。
レンズや反射鏡を作る時の研磨剤としても使われている。
弁柄自体は縄文時代早期の土器に塗られていた痕跡があるが、その頃なんと呼ばれていたのかは分からない。
辰砂(丹=に)は中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになったのだが、「魏志倭人伝」に倭で丹が採れると書かれているから、少なくとも弥生時代から産出していて、古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていた。
弥生時代から古墳時代にかけては死者を葬るときに亡骸の上に振りまく習慣(施朱)があった。
また辰砂(丹=に)には解熱効果があり、薬としても使われていた。
日本には関東から九州まで東西に中央構造線という断層が走っている。
その中央構造線に沿って硫化水銀が産出している。
おそらく渡来人の技術者なのだろうが、丹を捜して中央構造線を移動していた丹生(にう)氏という集団がいたらしく、その周辺に丹生とか丹の付いた地名や神社が残っている。
丹生氏が活躍したのは2世紀から5世紀の間で(邪馬台国が出来たころ)、呪術や占いが普通に行われており、丹生氏の地位は高かったらしい。
滋賀、奈良、和歌山等に丹羽の名を冠する神社がある。
http://www.geocities.jp/miniuzi0502/jinjadistant/mie/niu.htm
施朱の習慣は古墳時代前半で終わるが、5世紀末に秦氏が渡来し辰砂は今度は金の精錬や銅に金メッキをするのに使われるようになる。
従って秦氏も中央構造線に沿って水銀を捜していたのだろう。
辰砂(硫化水銀)を600度以上に加熱すると気体の水銀と亜硫酸ガスが発生する。
それを冷やすと液体の水銀が出来る。
水銀は金や銀を溶かすので、砕いて粉末状にした金や銀鉱石を溶かし込むとアマルガムが出来る。
アマルガムを銅に塗って熱を加えれば水銀は蒸発し、銅の表面に金だけが残る。
これが金メッキで奈良の大仏に使われたのもこの方法だ。
アマルガムをそのまま加熱すれば水銀は蒸発して金だけが残る。
以前「埴生の宿」について触れたのは、この丹(に)について調べている内に、はにゅうの「にゅう」とは「丹生(にう)」の事ではないのかと思ったからだ。
丹は赤土の意味もある。
「はにゅう」の「う」は「生」で産するとか「製」という意味だろう。
すると「は」とは何だろう。
日本国語大辞典によれば、「埴(はに)」とは、「きめが細かくて粘り気のある黄赤色の土」のことらしいが。