私 鳥の味方です

2018年11月28日



思うに哺乳類の肺呼吸ってのはエンジンに例えると吸入、圧縮、爆発、排気の4工程をやっている4サイクルレシプロエンジンであり、鳥類の気嚢と肺を使った呼吸はおむすびローターの3つの空間のそれぞれで常に吸入、圧縮爆発、排気が起こっているロータリーエンジンの様な物だと思う。

気嚢のおかげで鳥の肺には息を吐いているときも、吸っているときも常に新鮮な空気が補給されている。
酸素を取り入れるシステムとして、横隔膜で肺を膨らましたり、すぼませたりするより圧倒的に効率的だ。

だからアネハヅルなんかはジェット旅客機の飛ぶ高度で、エベレスト山頂を超えてゆくことができる。
体温調節にも有利である。

欠点は?というと、肺の他に前気嚢群と後気嚢群があり、身体中空気袋ばかりで詰め込むのにスペース的に苦しい。

そこで僅かなスペースでも活かそうと含気骨(がんきこつ)という中空の骨を気嚢や肺の一部として利用している。
中空の骨のおかげで体重軽減にもなる。

気嚢は腐っても骨は化石として残る。

2005年にマダカスカルでマジュンカトルスという恐竜の化石が発見された。
その脊椎骨に空洞があり、鳥のような気嚢を持っていたのではないかと推測された。

更に南米アルゼンチンでエアロステロンという新種の恐竜の化石が見つかったが、叉骨、腹部の肋骨、寛骨には空洞があり、これは明らかに気嚢を持っていた証拠と思われた。

これらは2足歩行をするティラノサウルスのような獣脚類なのだが、最近は鳥盤類(ステゴザウルスやトリケラトプスの仲間ね)の化石からも気嚢があった痕跡が見つかり、そもそも恐竜は初期の段階から気嚢を持っていたのではないかと思われている。

現在の大気中の酸素濃度は21%だが、今からおよそ3億年ほど前、古生代石炭紀の末には大気中の酸素濃度は35%もあった。

石炭紀のはじめころから急激に酸素濃度が増え始め、逆に二酸化炭素が減り始める。

石炭紀は陸上に高さ30メートルにもなるリンボクなどのシダ植物が繁茂した時代で、倒れた木は沼や湿地帯にどんどん堆積してゆく。

植物細胞の細胞壁はセルロースやヘミセルロースで出来ているが、それを固めて植物がお日様に向かって立てるようにしているのがリグニンだ。

しかし此の時代には自然界で唯一リグニンを分解する事ができる白色腐朽菌(はくしょくふきゅうきん) が生まれていなかった。

堆積した木材はやがて土砂に埋もれ、泥炭→褐炭→歴青炭→無煙炭 と石炭化してゆく。

大気中の二酸化炭素は石炭という形で閉じ込められてしまうため大気中のCO2は減り、植物の放出する酸素が増えて35%にもなってしまった。



リグニンを分解できる酵素を持った白色腐朽菌(仰々しい名前だけど、しいたけ、なめこ、えのき、ヒラタケ、マイタケといったキノコのことね)が地球上に現れたのは石炭紀の末期2億9000万年前だ。

白色腐朽菌によって分解されたリグニンは細菌に食べられて、水蒸気と二酸化炭素になって大気に還る様になっていった。


その結果ペルム紀の終わり頃には大気中の炭酸ガスが増えて、酸素濃度は14%くらいまで落ちてしまう。

この低酸素の環境に哺乳類型爬虫類は横隔膜で、恐竜は気嚢で生き残ろうとするが、横隔膜では低酸素に対応できず哺乳類型爬虫類は絶滅してしまい、中生代は恐竜の支配する時代になる。

この2億5100万年前のペルム紀(二畳紀)と三畳紀の境界には破滅的生命大絶滅が起こっておりP-T境界と呼ばれている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/P-T%E5%A2%83%E7%95%8C


P-T境界の生命大絶滅には他にもいろいろな説がある。
シベリアに噴出した洪水玄武岩の噴出とか隕石の衝突説とか。

鳥が恐竜と何処が違ってるのか考えてみると、嘴を持っている、空を飛べるということぐらいしか思い浮かばない。

「驚きの恐竜展を開催、もはや鳥展」

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/040800130/

恐竜は恐ろしい生き物と思ってしまうが、実際には小さな草食の恐竜たちも居て、肉食恐竜のティラノサウルスにしたってただ生きるため、子どもたちを育てるために獲物を狩っていただけで、現在のヒグマだってお腹が満ち足りていれば余計なエネルギーを消費する争いごとは避けているわけなのであって、恐竜もそんな生き方していたと思うんだよね。

現代にも生きている恐竜たちである鳥は、飼ってみたら本当に可愛らしいんだよ。

https://www.youtube.com/watch?time_continue=10&v=anL6RK-wxG4



だから昔は鳥に無関心だった俺も今は

「私 鳥の味方です」

星型エンジン

2018年11月10日16:0


ゼロ戦に乗せていた栄21型エンジンのような、シリンダーブロックが星型に配置されているエンジンを見ていて疑問に思ったのは、クランクシャフト部分の構造だ。

車のエンジンの場合シリンダーが並んでいてクランクが気筒数分あるのでクランクシャフトも長くなっている。
星型エンジンではシリンダーが同じ位置に放射状に配置されているから、クランクは一つしか作れないはずだ。

どういう構造になっているのだろうと調べてみたらこうなっていた。
マスターコンロッドという固定されたコンロッドと、リンクコンロッドという自由に動くコンロッドが星型に並べられていて、それがクランクを動かす。

http://www.warbirds.jp/kakuki/sanko/hosigata1.htm

栄21型の場合は手前に7つ、後ろに7つシリンダーがあり、空冷エンジンのため後ろのシリンダーブロックのフィンに風を当てるために、手前のシリンダーブロックの隙間に後列のシリンダーが配置されている。

振動を抑えるために後列のエンジンの爆発が手前の爆発と対称的になっている。

写真のコンロッドはゼロ戦のエンジンのコンロッドです。

https://www.youtube.com/embed/cIBWNu9fIro



はやぶさ2とオシリス

2018年11月01日
地球と月の間の距離は384400kmある。

この距離の中に太陽系の惑星すべてが収まる。

https://buzzap.jp/news/20141102-all-planets-fit-between-earth-and-moon/

こうしてみると宇宙はスカスカの空間だ。

しかし2035年に小惑星「ベンヌ」が月と地球の間を通過し、地球に衝突する可能性が指摘されている。

http://karapaia.com/archives/52222497.html

宇宙はスカスカなのに何故衝突が起こるかと言うと重力の所為だ。
地球の重力に引っ張られてしまう。

はやぶさ2が今小惑星「りゅうぐう」に着陸しようとしているが、実はNASAの小惑星探査機「オシリス・レックス」も「ベンヌ」に最終接近していて12月には到着予定だ。

2021年までにサンプルを回収し、2023年9月に地球に帰還する。

https://news.goo.ne.jp/article/sorae/world/sorae-20180822191824499.html

NASAが探査目標を「ベンヌ」に定めたのは、もしかすると将来的に「ベンヌ」の軌道を変えるための調査の意味があるのかも。

「ベンヌ」の直径は500メートル。

小さな小惑星なら宇宙船を着陸させるだけで軌道が変わるらしいが、こんな質量のものはどうしようも無いだろう。

昔東宝の特撮モノで「妖星ゴラス」というのがあった。

未知の遊星「ゴラス」が地球にぶつかるってんで、南極だったか北極だったかにロケットを据え付け、地球の軌道を変えて衝突を免れるという映画だった。

「ベンヌ」の表面にイオンエンジンを置いて、少しづつ軌道を変えるなんて出来ないものか。

一方「はやぶさ2」の方は小型ローバー「ミネルバ2」を二台、ドイツ、フランス共同開発の着陸機「マスコット」も予定通り「りゅうぐう」に着陸させた。

この「マスコット」の着陸アニメーション見ると、落とされた一斗缶が弾みながら転がってゆくようで


「おいおい、、こんな荒っぽいやり方で大丈夫なのかい?」

と笑っちゃったが、YOUTUBEで見るとちゃんと真空にした煙突みたいの中で実際に落として試験をしていた。

実際、着陸後も正常に作動していたようだ。

https://www.youtube.com/watch?v=UiJGpD7mUF0

https://www.youtube.com/watch?v=DbLmmvki_Bo

重力が小さいから破損しないんだろうね。




海が無くなる

 2018年 6月28日(木)
地中海ってジブラルタル海峡が無かったら大西洋に出られない。
そのジブラルタル海峡はもっとも狭いところで14キロしかない。
我が家から札幌の中心部くらいだ。

此処が塞がると地中海の水は封鎖されてしまい、海水は蒸発して干上がってしまう。
現在でも大西洋からジブラルタル海峡の表面を通って流入した海水は東に行くにつれ蒸発してゆく。

塩分濃度を増した海水は沈んで行き、深層で地中海の東から西へ流れジブラルタル海峡の深いところから大西洋に還るという立体的な循環をしている。

実際中新世末期のメッシーナ期(725万年前から533万年前)にはジブラルタル海峡が塞がってゆき、560万年前には完全に孤立し海が干上がっていった。

その時期に海水の中の塩化ナトリウムや硫酸ナトリウムが沈殿し、岩塩や石膏といった蒸発岩が堆積した。

図のピンクが石膏、オレンジが石膏と岩塩の混ざったもの、黄色が下部石膏と上部石膏に岩塩がサンドイッチされたところ。

ジブラルタル海峡が盛り上がって地中海を閉じ込めたのは、ヨーロッパ大陸をアフリカ大陸が押し付けたためらしい。

シチリア島の地下500メートルで採掘している岩塩もこの時期にできたものだ。

一度に干上がったのではなく、海水が流れ込んだり干上がったりを繰り返したので岩塩の縞模様が出来た。

地中海が再び海になったのは533万年前で、温暖化による海水面の上昇が原因とか、スペインアンダルシア地方の地殻変動でジブラルタルの一部が陥没して海水が流れ込んだとかいう説がある。

初期には少しづつ海水が流れ込んだらしいが、海水の90パーセントは2年の間に流れ込み、その時速300キロの速度の洪水の削った痕がジブラルタル海峡の海底に見つかったとのこと。

狭いジブラルタル海峡でしか大西洋とつながっていない地中海であるから、いずれまた干上がる事は間違いないだろうが、 人類のあずかり知らぬ遙か未来の事だろう。



デンデラ野

 2018年 5月 3日(木)
岩手には姥捨ての風習があった。

それで先日テレビを見て居たら岩手県の遠野にデンデラ野という場所があって、60歳を超えるとそこに置き去りにされたというのだ。

息子が年老いた爺さん婆さんを背負って、涙をこぼしながらデンデラ野に向かう。

「おっかさんごめんよ。」

と謝ると

「おらが居ると、孫たちがひもじい思いをするじゃろ。」

と婆さんも涙を流しながら言う。

そしてデンデラ野に年寄りを置いて、息子は後を幾度も振り返りながら帰ってゆく。

捨てられた婆さんは夜の寒さに凍えながら狼の遠吠えを聞く。

そして草叢が揺れて動物の気配が、、、。

というような光景を想像する。

ところが実際はすでに捨てられた年寄りたちが小屋を建てていて共同で生活をしており、日中は里に下りて農作業を手伝って食料を貰っていたという。

なにそれ?!

イメージとだいぶ違うんだけど。

単なる老人の互助会、老人クラブかい。

それなら親を捨てる息子も

「婆さん明日からは通いで畑耕すの手伝ってけろ。わがまま言って他の年寄りに迷惑かけるんじゃないよ。」

と言って別れられるじゃないか。

地図で見たらデンデラ野って2013年の旅で温泉に入った「たかむろ水光園」から1キロの場所だった。

静かで良いところだったけど。

デンデラ野というのは墓場であるから朝、農作業の為にデンデラ野を発つときは「ハカダチ」、夕方帰ってくるときは「ハカアガリ」と言ったらしい。

岩手の他に長野にも姥捨ての話はあるが、60になったからとて働ける者を口減らしするなどという事は無かっただろう。

痴呆症になって面倒見きれないとか、寝たきりになって世話できないとかなれば、現代なら介護施設や病院に入ることになるけど、昔はおおっぴらには言えないが「楢山節考(ならやまぶしこう)の様なこともあったのかも知れない。



津軽は面白い

 2018年 5月 2日(水)
田中林檎園の田中は大学で教職課程を選び、最初に赴任したのが津軽半島の汽水湖である十三湖の北に位置する相内村の分校だった。

そこを訪れてよもやま話をしていたのだが近くに山王坊日吉神社という所があり、今は杉を間引きして明るくなっているが、40年前は鬱蒼とした杉林で昼でも薄暗かった。

その場所で生徒の父親が山菜を採っていたのだが、ふと気づくと突然周りを落ち武者に囲まれていたという。
驚いて持っていた鉈を振りまわし、命からがら逃げてきたのだという。

「その人は純朴な人で、嘘を言うような人では無いんだよ。」

と田中は言っていた。

山王坊には中世に阿吽寺があったと言い伝えられていたが、山王坊に遺跡の存在が発見されたのは昭和57年以降の事で、その時には伝承にすぎなかった。

安永九年(1780)の『福山秘府』(ふくやまひふ)には、嘉吉三年(1443)、南部氏との抗争に敗れた安藤氏に付き従って、山王坊(さんのうぼう)・永善坊(えいぜんぼう)・万願寺實相坊(まんがんじじっそうぼう)が松前へ渡って行ったことが記されており、その落ち武者の亡霊と云うのはその時の戦死者なのかもしれない。

13世紀から15世紀前半にかけて十三湖の辺りは安藤氏という豪族が支配していて、十三湊を拠点として蝦夷から日本海側の物流で繁栄していた。

鎌倉時代に起きた津波によって一夜にして壊滅し、太陽の射し方によっては湖底に昔の遺跡が見えるなどと噂されていたが、近年の調査によれば室町時代までは存在していたようだ。

十三湊が衰退していったのはやはり安藤氏が南部氏に敗退し、蝦夷に渡ってかららしい。
十三湖の周囲には安藤氏の居城である福島城の遺跡や、港湾都市十三湊の遺跡などがあって、古に想いを馳せるのにとても良い場所なのだ。

本州の北の外れ、盲腸の様な半島の寂れた田舎町が、かつては海運で繁栄していたというロマン。

津軽は面白い。

そうそう、十三湊というのはトサミナトと昔は読んでいて、その語源はアイヌ語の「ト・サム(湖沼のほとり)」という説がある。

東北にはアイヌ語の地名がずいぶん残っているらしい。




ヤンマー

 2018年 4月30日(月)
ぼくの名前はヤン坊♪
ぼくの名前はマー坊♪
二人あわせてヤンマーだ きみとぼくとでヤンマーだ♪
農家の機械はみなヤンマー 漁船のエンジンみなヤンマー♪
ディーゼル発電 ディーゼルポンプ 建設工事もみなヤンマー♪
小さなものから大きなものまで 動かす力だヤンマーディーゼル♪

55年間続いた「ヤン坊マー坊天気予報」が終わって久しいが、ヤンマーのディーゼルエンジンはアメリカでもその頑丈さに定評があり、ジョンディアーのトラクターにもヤンマーのエンジンが積まれている。

曰く

ヤンマーはディーゼル界のトヨタだ。オイル交換をちゃんとしてると永久に動き続けるぞ。

曰く

ジョンディアのすべきことはシャーシを2台売る事だな。
ジョンディアのシャーシは大体3000時間でガタが来る。
2台目のシャーシは1台目のシャーシがイカれた時にエンジンを乗せ替える用。
これ物流業界では常識だった。

ヤン坊マー坊もヤンボーイ、マーボーイとしてそのまま知られているそうだ。

まあ日本の製品なら、イセキでもクボタでも壊れないと思うが。

ヤンマーは船用のエンジンも作っている。
船外機はヤマハ、船内機はヤンマーが強い。

そう言えば小林明が船首に仁王立ちで、波を蹴立てて疾走するヤンマーの漁船のCMがあったな。

大型船舶の発電用のエンジンのシェアも一位で、二位がダイハツなのだそうだ。
100系ハイエースのダイハツ製ディーゼルエンジン1KZ-TEは名機だった。

ヤンマーは世界で最初に小型ディーゼルエンジンの開発に成功した会社なのだ。
創業者の山岡孫吉は会社を作った時「トンボ」という社名にしようとしたのだが、静岡の醤油機械会社から商標権侵害で訴えられたため、トンボの親玉で山岡にもつながるヤンマーにしたとの事。



何処か懐かしい写真

 2018年 4月29日(日)
風と少女 大竹省二 1948年撮影

この少女何歳くらいなんだろう。
今生きていれば75歳以上か。

何時だったか、こんな風を浴びた記憶があるなあと万人に思わせる写真。
幸せそうだ。



西郷さん

 2018年 3月22日(木)
先日ブラタモリの鹿児島編を見て居たら西郷隆盛のひ孫という人が出ていて、肖像画の西郷隆盛にそっくりで笑った。

西郷隆盛は写真嫌いで一枚も写真が残っていない。

有名な西郷隆盛の肖像画はイタリア人のエドアルド・キヨッソーネと云う画家が、顔の上半分は弟の西郷従道(さいごうこれみち)下半分は従弟の大山巖(おおやまいわお)をモデルにして描いたという。

そして上野の西郷さんの銅像の完成記念式典に招かれた西郷夫人の糸子が

「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ (うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」

と言い張って従道に制止されたというので、あの西郷の肖像画は似ていないんじゃないかと疑われていた。

しかし他の本人と会ったことのある画家が描いた肖像画も太い眉毛、ぎょろりとした目で似たような風貌で描かれている。

そして曾孫さんの顔を見れば、やっぱり西郷隆盛はああいった風貌だったのだとわかる。

西郷夫人が言ったのは西郷隆盛はあんな着流し姿のだらしない服装で出歩くような人ではないし、髭も蓄えていたという事の様だ。

当初は馬に乗った軍服姿で作る予定だったが、馬は予算が無くカット、そして反乱分子であったから立派な髭も軍服もカットし、イメージを貶めるためにあんな姿になったらしい。

驚くことに西郷隆盛というのは父親の名前であり、本当の名前は西郷隆永だったという。
西郷(家名)吉之助(通称)隆永(諱 いみな)

維新後朝廷が書類に記載するのに実名を教えてほしいと西郷の弟子に聞いたら通称しか知らず、ひとりが

「確か隆盛だったような、、」

と父親の名前を言ってしまって、そのまま西郷隆盛になってしまった。

でも西郷さんは「名前なんかどうだってよい」という人だったので訂正することも無く今に至ってるらしい。



扇状地

 2018年 2月10日(土)
返信・引用
札幌のJR函館本線の北側は地盤が悪いと言われている。

札幌駅は豊平川扇状地の末端の辺りにあり、川が運んできた石は上流で撒き散らかされ、函館本線の北側では土砂しか堆積しないからだ。

「何で扇状地の末端に沿って鉄路が作られているのだろう、、工事上の都合なのだろうか。」

といろいろ考えてみたのだが、結論としてはなるべくしてなったのだと思う。

川が山から平地に出て運んだ石を吐き出し、幾度も流路を変えて扇状の土地が出来る。
それが扇状地なのだが上流は礫が厚く堆積し、下流になるに従って薄くなり最後は石ではなく土砂になる。

扇状地に降った雨は川となって流れるが、石の間にも滲み込んで濾過され、扇状地になる前の地面である不透水層に達して伏流水となる。

扇頂、扇央では不透水層迄深いので井戸を掘らなければ水が出ないが、扇状地の末端では不透水層が露出し、地下水が泉となって湧き出る。

そういう場所にはハルニレなどの水を好む木が生え、動物にも人間にとっても住みやすい。
道庁だとか、伊藤宅、植物園、北大などにはメム(泉)があった。
水が豊富だから古くからアイヌが住んでいて、倭人もそこに住み着き街を作った。

そうやって出来た街と街を結ぶ為に鉄道を敷いたので、必然的に扇状地の末端を線路が走ることになったのだと思う。

そうやって見ると確かに豊平川扇状地の他に、琴似発寒川扇状地、三樽別川扇状地、軽川扇状地、星置川扇状地を跨ぎながら函館本線は走っている。

水芭蕉が生えている星置緑地はJR函館本線の脇にあるが、此処は星置川扇状地の末端のメムなのだろう。




長生きだなあ

 2017年12月30日(土)
NHK札幌局の増子有人 (ますこゆうと)アナウンサーを見るたびに、

「この人平安時代にも生きて居たよなあ」

と思うのだ。

http://www6.nhk.or.jp/a-room/search/detail.html?i=439

東大寺に残された写経生の悪戯描きにも出演しているのだ。




カササギ講演

 2017年11月 3日(金)
「カササギ」の講演を聴きに行く。

百人一首の大伴家持の歌

  かささぎの 渡せる橋に おく霜の
   白きを見れば 夜ぞ更けにける

を引用して、何時ごろから日本にカササギが居たのかという紹介から始まる。

この歌の意味は


  七夕の日、牽牛と織姫を逢わせるために、かささぎの群れが翼を連ね
 て渡したという橋(天の川の事)にちらばる霜のようにさえざえとし
 た星の群れの白さを見ていると、夜もふけたのだなあと感じてし
 まうよ。


牽牛(牡牛座アルタイル)織姫(こと座ベガ)かささぎ(はくちょう座デネブ)ということで、やっぱり中国でもはくちょう座は鳥に見立てられていた。

そしてかささぎは中国、朝鮮では吉鳥であり、「喜」と書いてカササギを指すらしい。
韓国の町にはカラスが居らず、代わりにカササギが町の中に当たり前に居るということも言っていた。

北海道に最近住んでいるカササギはDNAの分析からロシア系統のものらしく、船に乗ってやってきたのではないか?という話をしていた。

この講演会のポスターを見かけて曙図書館に整理券を取りに行ったら、山のように積まれていて


「これはあんまり来ないな。大体カササギなんて知ってる人も少ないだろうし、、。」


と思って行ったのだが、ざっと見て100人は居て椅子も追加するほど集まっていた。


「銀杏取りとカササギを舐めちゃいけないよ。」


と純子に言われる。

曙図書館の裏手の送電線の鉄塔にもカササギが巣を作り雛を育てていたのだが、カラスに襲われて親は大怪我、雛は連れ去られてしまったそうだ。

最後質疑応答があり、近所の婆さんだと思うが、その時の様子を観察していたのを事細かく話していた。

また爺さんが


「カササギは『カササギー』って鳴いてるように聞こえるんだけど、鳴き声からそういう名前になったんだろうか?」


というのでみんな失笑していた。

鳴き声を聞いたことのない俺は、どんな鳴き声なんだ?と想像を巡らす。


また


「我が家のバードテーブルに毎日(ここ強調)カササギがやってくるんだけど猫がそれを狙っていて、、猫とカササギを一緒に取った写真を持っている。」


と、まるで有名人と親密な付き合いをしているかのように話している。

まあ、我が家もやってくるカワラヒワやスズメ達を「あの子達」とか呼んでいるので、その気持分からないでもない。

市で企画するこういう催し物は面白そうな物があれば参加したい。
定山渓ダムの点検トンネルの中迄入れる企画は参加したかったんだけど、純子の仕事の都合で参加できなかった。

次回は休みを取っても参加したい。



関ヶ原

2017年 9月 5日(火)
テレビに関ヶ原が映っていた。

関が原には2013年と2014年に行ったのだが、関ヶ原の戦場ってのが何処なんだかよくわからなかった。

2013年は猛烈な暑さと、お盆の帰省ラッシュを避けるため、午前2時か3時頃に菰野を脱出し日本海側に抜ける途中、給油のために日の出前の時刻に寄っただけで、ただ関ヶ原町 歴史民俗資料館の建物の外観だけ見て「又何時か来よう。」と思いつつ、敦賀に向けてひたすら高速を走ったのだ。

翌年の旅ではちゃんと資料館を目的地にして見に行った。
でも関が原の戦場ってのがどの辺りなのか良くわからずじまいであったが、調べてみたら資料館から600メートルくらいの所が古戦場跡だったらしい。

尤も今は田んぼになっているその近くに石田三成が陣を張った笹尾山があって、攻め込んだ東軍と守る西軍の最後の詰めの戦闘がこの辺りで行われたというだけで、資料館の辺りは勿論、関ヶ原の町全体が戦場だったのだろう。

現に資料館の隣の公園は徳川家康が敵将の首実検をした陣地である。
最初桃配山(ももくばりやま)に陣を置いていたのだが、優勢になったので陣を移動したのだろう。

せいぜい2~3キロメートル四方くらいの所に、東西合わせて17万人もの兵士たちが入り乱れて戦っていたわけだ。



鵯越の逆落し

 2017年 7月11日(火)
病院に行こうと自転車に乗って近くの公園を通ったら、ヒヨドリがヒーヨ ヒーヨと鳴きながら、頭上を波打ちながら飛んでいった。

突然、

「そういえば源平合戦で義経が鵯越(ひよどりごえ)という山道を通り、一の谷に陣を張っている平家軍の背後の崖を騎馬のまま駆け下りるという奇襲をかけて平家軍を遁走させたなあ。」

と思い浮かぶ。

この鵯越という地名の由来は何なのだろうと思い調べてみた。

鵯越の場所は兵庫県神戸市須磨浦の鉄拐山から摺鉢山辺りらしいのだが、ヒヨドリが春と秋に渡りのためにこの山を越すので鵯越と名付けられたとの説がある。

平家が陣を張った一の谷はこの山の海側の崖の下になるらしいのだが(ケアハウス須磨浦の里の辺りか?)、現地を見た人は「馬があんな崖を降りるのは不可能だろうから別の場所じゃないの?」と口を揃えて言う。

しかしスペインの騎馬隊は、騎馬で絶壁を降りる訓練をしている。
ほとんど垂直の崖だ。
騎馬戦の歴史の長い西洋では、馬が崖を降りるのは普通だったのかも知れない。

そういえば映画の中とは言え「ロード・オブ・ザ・リングス」でも、急勾配を騎馬で駆け下りて総攻撃をしていた。

http://www.dailymotion.com/video/x3qlhex

普段、横方向を移動している馬しか見ないから想像が付かないが、垂直方向に駆け下りる能力も高いようだ。





バカは死ななきゃ治らない

2017年 6月19日(月)
森友学園、加計学園て、野党はなんであんなに騒いでいた訳?

mixiでもどっかの政党から委託受けたバイトみたいのが騒いでいて、何処が問題なんだ?と聞いたら、問題があるから騒いでいるんだろう、と言うので法律的にどう問題なの?ねえ教えて、教えてとしつこく聞いたら俺の米勝手に消して逃亡しやがった。

「組織的犯罪処罰法改正案」いわゆる「共謀罪」が成立したらとたんに静かになって、野党もマスコミも要はただ単に潰す為の言いがかりだったのだろう。
そして今度は自民党の支持率が下がったと印象操作に励んでいる。

俺はイラクの人質事件の時の北海道新聞の社説を読んで

「これを書いたやつはキチガイか!」

と思い購読をやめた。
もうその頃にはネットをやっていたから、テレビやラジオも聴かなくなった。

そうしてみると如何に日本のマスコミってのがクズかというのが良くわかった。
自分たちの思想の押しつけのための機関である。

外国のマスコミも似たようなものらしいが、違うのは国民がマスコミを信用していないという点らしい。

彼らマスコミがこんなに偏った思想をずーっと言い続けて来れたのは、マスコミがネットの世界と違って一方通行で、読者や視聴者の批判に晒されないからだ。

勿論反論や批判は届くだろうが、自分たちに都合が悪いことを取り上げる訳が無い。
都合の悪いことは報道しない自由を行使する。
挙句の果てには朝日新聞の従軍慰安婦の様に捏造さえする。

裏取りさえしていない嘘を吐き散らかす。
彼らはネットの情報なんて便所の落書きみたいなものだと言うだろうが、裏取りもしない情報を載せてるんなら、お前らの報道だって便所の落書きみたいなものだろう。

そういやどっかの新聞の社主が

「新聞が真実を書かなければならないという法律は無い」

と開き直って居た。

北海道新聞を定年退職した記者がブログを開設し、例のごとく偏向した記事を書いた。
たぶん社説を書いたりする人だったのだと思うのだが、ネットであるから当然反論が来る。
その結果、コメントは会員しか書き込めないようにしてしまった。

こいつら他人には激しく攻撃するが、反撃されると弱いんだなあ。
ネットの世界にはなんぼでも論客がいるから。

自分の意見が絶対に正しいんだ、お前らはマスコミの言うとおりに考えていれば良いんだという偉そうな考えが、ネットの世界でも通用すると勘違いしていたのだろう。

こういう選民意識が腹立たしい。

俺にも頭が付いていて、曲がりなりにも脳みそが入っていて自分で考えることが出来る。
情報の素材は加工された新聞やテレビ、ラジオではなくネットの中に転がっている様々な一次情報と思われるものを探し、いろんな視点から見てみる。

がんのマーカー検査なんかはあんまり精度が高くはないが、何回も検査することによって精度が上がってゆく。
沢山の情報を集めて判断してゆけば、朧に真実らしきものが浮かび上がってくる。

しかし日本のマスコミの偏向した記者たちも又被害者といえるのかも知れない。
我々団塊の世代なんて、教師からして左翼が多かった。
社会科の教師なんてほとんどだろう。

俺も北海道新聞という北の朝日新聞なんて揶揄される新聞をずっと読んでいたから、見事心情左翼になりました。
こういうのは洗脳ではなく刷り込みというらしい。

洗脳は暴力をもって思想を植え付けることであり、刷り込みは幼い頃から思想を教えつづける。
「お前は将来医者になるんだ」と言われ続けた医者の息子が医学の道に進むとか。

そういう人間も社会で働き始めれば少しづつ思想が変わってゆくのだが、学校とかマスコミとか政党とか同じような考えを持った人間が多い閉ざされた世界にいると、思考放棄が起こってしまう。

例えば宗教なんか良い例だ。
全託といって、自分で考えず指導者の教義に従うことで自分が空になり楽になれる。
これも思考放棄だ。

人は何故思考放棄をするのかというと、逆に、思考放棄するからこそ人は生きていられるのだと思う。

幼児は眠る時間が多い。
遊んでいる最中にも寝落ちしてしまう。

これは幼児には外部からの刺激を整理する回路が不十分だからだ。
プログラム制御で言う「こういう情報が来たらこういうふうに処理する」というサブルーチンの数が足りないのだ。

だから脳は情報処理を一時的に放棄してシャットダウンし、それ以上情報が入らないようにする。

しかし成長するに連れ脳のサブルーチンがたくさんでき、それぞれ勝手に情報処理をしてくれるからそんなに眠らなくとも良くなる。

つまり脳のメインルーチンは繰り返し何度も入ってくる刺激に対しては思考停止をしてサブルーチンに放り投げ「やっといてね」とやることにより、新たな刺激に対応できるのだ。

憲法9条があるから戦争が起こらない、人殺しの機関である軍隊なんか要らないと言っている人たちも子供の頃からの刷り込みによってそうなったので、今更考えを変えることは出来ないだろう。

ネットも出来ない世代だから、マスコミの加工された情報しか知らないし。
でも宇宙の摂理でどんどん数は少なくなってゆくのは確実なので、少し時間はかかるが日本も変わって行くのではなかろうか。


何故か気になる

 2017年 6月14日(水)
我が家は良く旭川にラーメンを食べに行くのだが、国道275号線を走ることが多い。
札幌から275を北に走って新十津川町に入ると、正面に開拓記念館のある中央公園がある。

275はそこで左に曲がるが、その角に古びた家が一軒ある。
知り合いでも無いのに何故か我が家はそこの住民に親近感を抱いていて、そこを曲がるときにはしっかりと観察しながら走る。

最初にそこの住人を見たのは5年以上前の事で、夕方玄関先でおじいさんが椅子を出して涼んでいた。

家の様子からして絶対年寄りが住んでいるなあとは思っていたが、案の定であった。
おそらくこどもたちもとうに独立し都会で働き、それぞれ家庭を持って

「爺さんももう歳だし、一緒に暮らさないか。」

と言ってくれているのだが、頑固者の爺さんは

「わしは都会なんぞに住みたくない。」

と頑なに拒んでいるのではないかと推察される。

その次にそこを通ったら、カートと一体化した婆さんが家の玄関の所に居た。
近くのスーパーで買い物をしてきたらしい。
何だ爺さん独りじゃないんだ。
二人暮らしなら、どちらかに何かあってもなんとかなるだろうと安心する。


その次に見たら家の前に電動三輪車が置いてあった。


「婆さんレベルアップしたじゃないか。カート押すのも大変になってきたんだろうなあ。」


純子と話し合ってそういう結論に達した。


数年後通った時には電動三輪車が見当たらなかった。


「ああ、婆さん呆けて施設に入ったか、転んで骨折して入院したか、下手すると死んじゃったな。」


と思った。

そしたら今年の春通ったら、家の裏手に小さな畑があるのだが、そこで爺さんと婆さん揃って畑を耕していた。

婆さん勝手に殺して済まなかった。


ドウモイ酸

 2017年 5月 9日(火)
昨日はヒッチコックの「鳥」をテレビでやっていたのだが、我が家の窓の外でも30羽くらいのカワラヒワ、シメ、スズメ、シジュウカラが常に乱舞している状態で、我が家とおんなじじゃないかと思う。

昨日なんか朝カーテンを開けたら30羽ほどのシメが電線に留まっていて餌を狙っていた。
一羽が餌台にダイブすると次から次へと舞い落ちてきて餌台が鳥だらけになっていた。
ヒッチコックの「鳥」の様に怖くはないが、かなりすごい風景である。

ヒッチコックの映画「鳥」は、1961年にカリフォルニア州キャピトラの町で起こった事がヒントになっている。

この日、町の住民は屋根の上でハイイロミズナギドリが騒がしいことで目が覚めたが、見ると道路が鳥の死骸でいっぱいになっていた。

ハイイロミズナギドリがドウモイ酸(Domoic Acid)という記憶喪失性貝毒を持った貝、イカ、カニなどを食べたのが原因だった。

1987年にもカナダのプリンスエドワード島で養殖のムール貝を食べた人が中毒を起こし、4人死亡、12人が重度の記憶障害に陥った。
その原因もムール貝に含まれていたドウモイ酸だった。

ドウモイというのは徳之島での紅藻ハナヤナギの呼び名で、以前から駆虫薬として使われており、それからドウモイ酸を分離して命名したのが醍醐皓二という日本人なのだそうだ。

異常繁殖した珪藻が活動を停止する時にドウモイ酸が作られ、それを食べた貝やらカニやらによって生物濃縮されていく。

人の致死量は体重60kgの人で300mgで、煮沸しても毒性が消えないから食事で中毒になってしまう怖い物質だ。

http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/poison/animal_det_11.html

きっと我々も知らないうちに身体に取り入れて居るのだろう。
量が少ないから死なないだけで。


ルンバ猫大量発生

 2017年 3月 6日(月)
お掃除ロボット「ルンバ(ROOMBA)」ってのはキューバ生まれのダンス音楽「Rumba」から名付けたのだろう。

軽やかにダンスをするがごとく円盤がくるくる回りながら走り回り、ブラシを振動させてごみや埃を取除いてゆく。

その様子は箱フグが鰭を小刻みに震わせて泳いでいるのに似ていて、なんとなくユーモラスで可愛い。

人がそう感じるのだから、猫にとっては「なんじゃこれ!」と初めは怖れ、ネコパンチを食らわせては後ずさりする状況になるだろう。
しかし猫は利口であるからそのうちに

「こいつはくるくる目まぐるしく動き回っているが、こちらに攻撃を加えようとしている訳では無いらしい。それどころか自分には全く無関心で逃げようともしない。」

と分かってくる。

動物は逃げる物を追う習性があるが、ルンバのように全く興味を示してくれないと追うのではなく観察の対象となる。

そうやってじっくり見て居ると

「こいつの上に乗ってみたい。」

という衝動が沸々と湧いてくる。

多分その衝動はマタタビを見ると反射的によだれが流れ、腑抜けになってしまうのと同じで、猫が生まれ持った本能なんじゃないかという気がする。

おまけにサイズ的にルンバは猫に乗ってくれと言わんばかりの手ごろな大きさだ。
その結果、世界中でルンバ猫が大量発生することになってしまった。

猫にとってルンバは遊園地のメリーゴーラウンド、回転するティーカップみたいなもので、我が下僕の飼い主が自分の為に用意してくれた高価なマイカーなのだ。

ルンバの開発者は、まさか猫がルンバをマイカー代わりにすることを想定していなかった
ことだろう。

しかし以後お掃除ロボットの新製品開発に際しては、最大猫荷重というものを考慮しなければならないと思う。

PL法で訴訟される可能性も考え、

「本製品は猫の手の届かない所で使用してください。」

という注意書きも必要だと思う。

それならいっその事、最初から猫の乗り物としての安全対策をして設計、掃除機能はおまけとしたらどうだろう。

いや、いっその事掃除機能なんかいらない。
猫専用の乗り物としてスピードを追求し、世界各国のお掃除ロボットとルンバ猫が日本に集結し、競馬のダービー様なレースをやっても良い。

ただなあ、猫って飽きっぽいから途中でレース放棄が続出する不安もあるなあ。

https://www.youtube.com/watch?v=wjWT2GZKLzE

古代のチーズ

 2017年 2月27日(月)
昔、明日香村の旅館で飛鳥鍋という物を食べたことがあって、そんな昔に牛乳があったのだと知った。
1300年前、唐から来た僧侶が伝えた、牛乳を使った鍋だ。

日本人が牛乳を飲み始めたのは何時からかと調べてみると、もっと前、560年に百済(くだら)の智聡(ちそう)という人物が搾乳術を日本に伝えている。
そのころから搾乳した乳を加熱殺菌して飲んでいたのだろう。

記録として残っているのは考徳朝(645年~654年)の長屋王家木簡に、牛乳を長屋王家に持参する者があったことが書かれている。

其の後仏教が国教となり、675年に天武天皇から殺生禁断令が出され動物の肉が食えなくなっても、牛乳を飲むことは許されていた。

加工乳製品について触れられているもっとも古いものは、AD300年頃に作られた仏教の大乗経典『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう)で、

牛より乳を出し、乳より酪(らく)を出し、酪より生酥(せいそ)を出し、生酥より熟酥(じゅくそ)を出し、熟酥より醍醐を出す、仏の教えもまた同じく、仏より十二部経を出し、十二部経より修多羅(しゅたら)を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅密を出し、般若波羅密より大涅槃経を出す

と書かれていて、仏教経典で最高の物である「大般涅槃経」を乳製品の最高の物「醍醐」に例えている。

これが「醍醐味」という言葉の語源だ。
また酪とは乳を発酵させて作られた発酵乳、ヨーグルトなのだが、これが酪農の酪だ。


其の後AD500年頃にまとめられた「神農本草教集注」においても乳製品について触れられているが、その製法までは書かれていない。

牧畜民由来の鮮卑の集団が中国華北地方に北魏を建国したのだが、北魏の末期(AD530~AD550)に賈思勰(かしきょう)が「斉民要術(せいみんようじゅつ)」という農業技術書を編纂し、ここで初めて乳製品の作り方を記している。

http://ir.obihiro.ac.jp/dspace/bitstream/10322/3074/1/seimin.pdf

日本で乳製品が作られた記録は、645年に智聡の子の善那(ぜんな)が初めて孝徳天皇(644~664)に蘇を献上したとある。

平安時代中期(AD927年)に定められた「延喜式」には納税に用いる蘇(フレッシュチーズ)の作り方が規定されていて、関東から四国にかけての地域で牧畜がおこなわれ蘇が貢進されている。

蘇は「斉民要術」でいう酥とは違う日本式の製法で作られている。
牛乳を加熱して十分の一にまで濃縮し、上に出来た浮皮を集めた物が蘇で、同じ事を豆乳でやると湯葉になる。

ざっくり十分の一と延喜式には書いてあるが、実際には14%まで濃縮するのが限度で、14%まで濃縮したものはカビも生えないので保存が効くらしい。
従って関東や四国などからも運んでくることが出来た。

加工乳製品の最上のものである醍醐とはどんなものであったか、帯広畜産大学で再現してみた。
その結果出来た物は脂肪分99.7%、水分0.3%のバターオイルの様な物だった。

http://ir.obihiro.ac.jp/dspace/bitstream/10322/1879/3/A081001-2.pdf

そして「斉民要術」でいう酥から醍醐を作ることは出来たが、延喜式の蘇からは決してできなかった。
これは一回目の加熱時間の違いが原因らしい。
であるから日本では醍醐は作られなかったかも知れないらしい。

蘇の貢進は鎌倉時代で終わり、江戸時代まで乳製品は作られなくなり技術も失われてゆく。
其の後乳製品製造法についての記述が現れるのは明の李時珍(り じちん)が1596年に上梓した「本草綱目」で、1607年に林羅山が長崎で手に入れ、健康おたくの徳川家康に献上している。

鎌倉時代って貴族から武士の社会に変わっていった時期で、紙なんかの貢進体制も崩れていたみたい。
公家のための加持祈祷をしていた伊勢神宮の御師たちも仕事が無くなって、仕方ないから旅行代理店を始めたりしている。

明治になってからは富国強兵政策のため牧畜生産が勧められる。
明治4年に仮名垣魯文(かながきろぶん)が書いた「安愚楽鍋(あぐらなべ)」という書物では

「世の中の人はこぞって牛鍋を食べなければ開化に乗り遅れた者とされる。遠方の人は人力車で、近くの人は銭湯帰りに寄って牛乳を飲んでいる。全くおかしな世相だ。」

てな事が書かれていて、一般庶民にも牛乳を飲むブームが広がっていたようだ。
海江田万里がかかわっていた株式会社安愚楽牧場の名前は、この「安愚楽鍋」から取っている。

大般涅槃経に5味として乳製品が語られているが、仏教と乳製品は関係が深く、特に密教の修法には蘇が不可欠であった。

カルピスの創業者の三島海雲(みしまかいうん)という人も偶然か、元々は僧侶だった。
雑貨商の仕事で内モンゴルに行った時に体調が悪くなったのだが、酸っぱい乳を勧められるままに毎日飲んでいたら体調がすごく良くなった。

それで日本に帰ってから乳酸菌飲料「カルピス」を作ったのだが、最初は牛乳に含まれるカルシウム+醍醐(サンスクリット語でサルピルマンダ)から「カルピル」と名付けようとしたのだがゴロが悪いと思い、カルシウム+熟酥(サルピス)で「カルピス」としたのだそうだ。

現在明日香村では「蘇」を再現して販売しているようだ。

http://www.asukamilk.com/so/




鳥居

2017年 2月22日(水)
外人は鳥居を見ると漢字を実体化した物の様に思うらしい。
確かに「開」の門構えの中は鳥居に似ている。
何気なく見慣れている鳥居だが、外人にはエキゾチックに見えるようだ。

この鳥居、神域と俗界を分ける門の役割をしているのだが、その起源も名前の由来も実は良く解らない。

木と木の間に縄を結んで結界を作ったのが最初の形であるらしい。
古い文献には「於不葦御門(うへふかずのみかど)=屋根をかけない門
」と書かれていて、8世紀ころには神社建築の門として現在の形になっていた。

インドの仏教寺院のストゥーバ(卒塔婆)の四方に建てられていた門(トーラナ)が起源だという説もあるし、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとする説もある。

元々そのころには建築用語として鳥居桁(高欄の一番上の木の事)というのがあって、鳥居と呼ぶようになったという説もある。
襖をはめ込む溝の付いた上桁を鴨居と呼ぶように、柱と柱を繋ぐ桁は鳥が留まるのに都合が良い。


古墳時代の日本人の身長

 2017年 2月13日(月)
1500年前の古墳時代、群馬県の榛名山が噴火した。
4年前、その破砕流の堆積の下から鎧を着た男の死体が見つかった。

http://www.nhk.or.jp/osaka-blog/historia/262037.html

このNHKの番組の中で男の身長が164cmあり、当時としては大きかったというので「ええ?違うだろう。」と思う。

昔の人の身長が低かったと思い込んでいるのは、江戸時代の人が小さかったからであって、古墳時代の男の平均身長は163cmだったのだ。
1850年頃のヨーロッパの男の平均身長が165cmくらいなので遜色が無い。

(古代ローマ人の身長は150cmなので「テルマエロマエ」で188cmの阿部寛がローマ人の役をやるというのはおかしい。)

図1を見ると縄文時代から古墳時代までは身長が伸び続けている。
これは動物性蛋白質の摂取量が多かったのか、あるいは背の高い弥生人との混血が進んだからなのかも知れないと俺は勝手に想像してるんだけど。

古墳時代から江戸時代に至る間で身長の低下が起きているのは仏教の影響や稲作の発達で動物性蛋白質の摂取量が少なくなったからじゃなかろうかと、これも又勝手に思っている。

江戸時代は155cmから157cm位で安定していて、明治になってからだんだん伸び始める。
洋風の食事が入って来て肉や乳製品を摂るようになったからだろう。

だけど2000年頃から伸びが止まって171cm位で停滞してる。
これはやっぱりDNA的に日本人の限界なのかな。

しかし図2を見ると外国も身長が伸びる一方ってわけでも無く、伸びたり縮んだりしている。

1800年から1846年頃までにヨーロッパではジャガイモの疫病や、天候不順が原因の飢饉が起こったりしているから、そのころに生まれた子供たちの身長が伸びなかったのかもしれない。


墓地だった
2017年01月14日




昔の札幌の地図を見ていたら、東本願寺そばの仕事上良く行っていたビルが建っている一区画が、以前は墓地だったのを発見。

北海道なんかは人の住みついた歴史が浅いから墓の跡地に家が建つのが珍しいが、本州の方だったら良くあることなんだろう。

平安時代の京都では、人が死んだら郊外の人捨て場に捨てていた。
大体において田んぼや畑を作れないような谷筋がそういう場所にされた。
そういった場所には鳥が集まって死体を食っていたので、鳥に関する地名が付いていることが多いらしい。

たとえば京都市東山区今熊野鳥邉山(とりべやま)町とか、京都市右京区嵯峨鳥居本化野町(とりいもとあだしの)といったところは、昔人捨て場だったといわれている。
嵯峨野は今は観光地になっているけどね。

江戸の町なんて太田道灌の建てた江戸城に徳川家康が入城したとき、八千人の家来の飲料水を確保するのに、局沢川(つぼねさわがわ)を堰き止めて千鳥ヶ淵とか牛ケ淵とかいったダムを緊急工事で作ったんだけど、その時川筋にあった寺を建物だけ他に移設して墓は放置している。

江戸の都市開発の為に寺が移転された時も墓地はそのままだし、大火や地震の時の死骸なんかそのまま海の埋め立ての材料にされちゃったりしている。

享保元年(1716年)には江戸に疫病が発生し死者が8万人を超え、棺桶が足りず築地、品川の海中に捨てている。
元墓地だったからとか気にしていたらとても住めない。



ミツウマのゴム靴
2017年01月12日




大正15年(1926年)の「最新小樽市街図」の裏面の広告を見ると、ミツウマのゴム靴がある。


「三馬印ゴム靴は堅牢をもって天下に知られ 本道において最も古き歴史を有し 製造能力また全道第一なり」

社名が「北海護謨(ゴム)工業合資会社」になっている。

ミツウマってのは最初はゴム靴の商標だったのが社名になったらしい。

今ミツウマってゴム靴の高級品だったんでないか。
調べてみたら創業が大正8年だから、「古き歴史を有し」と言ったところで、わずか7年しか経ってないんだけどね。

現在の社名「株式会社 ミツウマ」になったのは昭和49年(1974年)とのこと。
中国や韓国の安いゴム靴に押されて経営悪化、昭和58年(1983年)札幌地方裁判所小樽支部に会社更生法申請。

そこから事業再生を進め平成12年(2000年)に、当初計画を約5年前倒しして会社更生手続きを完了して再建を果たす。
現在はゴム靴はすべて中国への委託生産をしているとの事。

今の主力製品はゴム靴では無く、工業用ラバーのようだ。
船の防舷材、ゴム製踏切板、立体駐車場のすべり止め車路など。
札幌ドームの8300トンの重量があるサッカーグラウンドを支えている特殊ゴムシートもミツウマ製とのこと。

http://www.mitsuuma.co.jp/rubber/index.html

ミツウマの由来は

「由来健脚の人 靴を穿つ時は峻嶮悪路の別なく 其の歩行 益々速やかにしてその至便なること恰も名馬千里の広野を疾走するに似たり 馬の最も尊きを龍馬と名づけ 次を神馬とし次を駿馬とす 脚力神速なること風の如く電光の如し 是を理想化せるもの実に天馬なり 依って馬中の鏘々たる龍・神・駿の三馬を拉っし来って製品の商標となせり」

だそうだ。