雑文 3

2014/06/29 11:36:21 すが

従軍慰安婦問題

塩村文夏(うえむらあやか)東京都議会議員のマスコミの煽り振りを見てると「ああ、また阿倍下ろしに必死だ」と思う。

わざわざ外国人記者に話を広めて貰い、外国でも問題となっているという印象を抱かせるいつもの手法だが、こんなやり口でもネットを使えない人達は騙されてしまうのだろう。

奴らの手法はまず何か日本をおとしめるネタが無いかと探し、政治家や市民団体をそそのかし騒ぎにして取り上げ大騒ぎをする。
そして外国のマスコミに言いつけて騒ぎをさらに大きくして、

「外国でさえ問題になっている」

と印象づける。

ニューヨークタイムス等はよく反日記事を載せているが、なんの事はないニューヨークタイムスは朝日新聞と提携しており、その日本支社は朝日新聞本社の中にある。
大西哲光という(おおにしのりみつ)日本からカナダに移住し、現在はカナダ国籍を持つ記者が記事を書いているが、元在日朝鮮人であるという説もある。

産経新聞社会部デスクの高山正之は週刊新潮への寄稿の中で

>「もっと問題なのは同紙東京特派員N・オオニシのようにマスコミ界にも帰化人がいて、日本人の名を使って日本を非難する。こんな賢しい輩を排除するには米国と同じにその出自を明らかにし、発言させるべきではないか。」<

と主張している。


今問題になっている慰安婦の問題も吉田清治の嘘話

http://dogma.at.webry.info/201401/article_2.html

を人権屋弁護士の福島瑞穂や高木健一

https://www.facebook.com/ianfumondai/posts/488822287854342といった連中が日本をおとしめ

るためにでっち上げたのだ。

高木のごときは有りもしない強制連行話をでっち上げるために、インドネシアで「強制連行された従軍慰安婦はおらんかね?名乗り出たら200万あげるよ」と言ってまわっていた。

https://www.facebook.com/ianfumondai/posts/488822287854342

< IFRAME WIDTH=640 HEIGHT=360 SRC="//www.youtube.com/embed/piYEA2VsQY0?feature=player_detailpage" FRAMEBORDER=0 ALLOWFULLSCREEN></IFRAME>

後ろで聞いている人達のなかに憤然としている撃墜王坂井三郎も居る。

そらあ怒るわな。
自分たちが命をかけて戦ってきたインドネシアの地で、有りもしない事をでっち上げられて名誉を傷つけられれば。

福島瑞穂、高木健一は日本政府を相手に訴訟を起こそうとして、韓国でも慰安婦は名乗り出るようにとやった結果、韓国政府も政治利用できると思って騒ぎ始める。
そして自称従軍慰安婦達が賠償を求めて日本に対し裁判を起こすが、嘘がばれてことごとく負けてしまう。

それはそうさ、日韓基本条約で全て解決済みの事なのだから。
日韓基本条約で日本は本来払わなくとも良い金、技術を、韓国によって拿捕され人質にされた漁民の解放と引き替えに与えた。

最初は個人に直接払うと言ったのに、今の朴大統領の親父が

「何れ統一するのだから北朝鮮の分も払え、個人への分配は国がやる」

と言って受け取り、国民には渡さず、日韓基本条約の事も秘密にし、受け取った金と技術で「漢江の奇跡」と呼ばれる発展を遂げた。

インドネシアが「隣に日本があればどんな国でも韓国程度の発展はできる」と言うのはそういうことなのだ。

植村隆という朝日新聞記者は嫁が韓国人なのだが、嫁の母親が従軍慰安婦だったと裁判を起こした。
その裁判を有利にするために植村隆は「女子挺身隊として強制連行された」とねつ造記事を書く。

この植村隆は今年の3月に朝日新聞を早期退職し、4月より神戸松蔭女子学院大学教授に就任予定だったが、学校に慰安婦ねつ造記事に対する批判が殺到して採用が見送られ、今は左翼の多い札幌で北星学園大学の非常勤講師となっている。

ちょうど河野談話の検証が行われると言われ始めた頃で、河野本人の参考人招致の話も出始めていて、朝日としても尻に火が付きそうなので、トカゲのしっぽを切ったのだろう。

その植村隆の母親の裁判があった頃、
福島瑞穂が韓国から金学順という自称従軍慰安婦を連れてきて日本に対し訴訟を起こさせた。
最初の訴状では

「親に売られてキーセンになった」と言っていたのだが、植村の記事と合うように「軍に強制的に連れてこられた」と訴状を書き換えた。

反日政党、人権屋弁護士、ねつ造マスコミのでっち上げた嘘の炎を韓国が薪を継ぎ足し、それをまた売国奴共が煽り、どんどん大きくして国際問題にまでしてしまったのが従軍慰安婦問題なのだ。

本来日韓基本条約で全て解決済みの事なので、もし仮に強制性があったとしても韓国政府が支払うべき金なのだ。
しかしそんな金はとうに使い込んでしまっているので、韓国政府も強制慰安婦の強制性を煽って日本から金を出さそうとしている。

従軍慰安婦なんてただの売春婦で、日本軍の将校の給料よりも遥かに稼いでいたのだ。

彼女らの証言はジープに乗せられただの、ヘリコプターに乗せられただの、クリスマス休暇だけが休めただの、、、お前!それは朝鮮戦争の話だろ!

そして今、今度は朝鮮戦争時の従軍慰安婦達が韓国政府に対して訴えを起こしている。

彼女たちの場合は本当に北朝鮮から拉致されてきたり、強制連行されたりしてドラム缶に詰められトラックで運ばれて、第5種補給品という名目で米軍や国連軍の慰安婦にさせられている。

その訴訟がどう転がっていって、日本の従軍慰安婦を非難してきたアメリカや韓国自身に帰って行くのか楽しみに見ることにしよう。

いずれにしても検証は続け、河野洋平や反日利権の高木健一、福島瑞穂、朝日新聞、植村隆などを参考人招致するべきだ。

2014/06/10 03:53:04 すが

燃料電池車

トヨタが今年中にも燃料電池自動車を販売するという。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2014060402000127.html

燃料電池自動車と電気自動車とどう違うのかと思ったら、両方ともモーターでタイヤを回すのだが、電気自動車は蓄電池で、燃料電池車は水素を酸素と化合させて水になるときに出来る電気を利用してモーターを回す。

水素燃料電池はマイナス電極(燃料極)とプラス電極(空気極)の間に電解膜を挟み込んだ構造になっていて、マイナス極にはカーボンシートにプラチナが貼りついており、触媒であるプラチナによって、水素分子から電子が分離される。

電子はモーターのコイルを通ってプラス極に流れ込み、電流はプラス極からマイナス極に流れる形になりモーターを回す。
プラス極に入った電子は、そこで外部から取り入れた空気の中の酸素と結びつきマイナスの電荷を帯びた酸素イオンを作る。

一方電子をはぎ取られ、プラスの電荷を持った水素原子核(プロトンまたは水素イオン)は電解膜(イオンだけしか透過させない)を通ってプラス極側に流れ込む。
プラス極で水素イオンは酸素イオンと合体して水が出来る。

http://www.jari.or.jp/portals/0/jhfc/beginner/about_fc/index.html

2014/06/04 08:20:31 すが

エレベーター

祭りの食材を仕入れに「現金問屋」で買い物をして、荷物を両手で抱えてエレベーターに乗る。
内装の綺麗なエレベーターで、何処の会社の製品かと見ればOTISだった。

オーチスという会社はエレベーターに創製期から関わっている会社で、1853年のニューヨーク万博では蒸気を動力としたエレベーターが出展されている。

普通エレベーターには吊りワイヤーが破断したときに籠が落下しないように、調速機用ワイヤーと連結した落下防止装置という物が付いていて、定格速度の1.4倍の速度になるとレールとガイドローラーの間にくさびを打ち込んで落下を防ぐようになっている。

この落下防止装置を付けたエレベーターが初めて公開されたのがこのときの万博で、エリシャ・オーチス自身が実験台となってその安全性を実証したという。

この頃は電気式のエレベーターは無く、蒸気式や水圧式の物だったらしい。
エレベーターを含めてあらゆる物が電気になったのは、1893年のシカゴ万博の頃からだ。
エッフェル塔のエレベーターも当初は蒸気式だった。

しかし火力発電にしても原子力発電にしても、最終的にはお湯を沸かして蒸気の力でタービンを回し発電しているわけだから、蒸気というのは産業革命以来ずーっと変わらず使われているわけだ。

仕事の関係上、昇降機検査資格者なのだが(もう流れてしまったか?)その時の講習で、アメリカで起こった地震で、コンクリートの建物が崩壊した瓦礫の中にエレベーターシャフトだけが四角い煙突のように立っている写真を見た。

エレベーターシャフトは狭い空間を4面鉄筋コンクリートで囲まれているから、ものすごく頑丈なのだ。
ワイヤーだって安全率が10で3本あるから、地震くらいでは切れないだろう。
地震感知器が付いていて、地震の時は直ちに近くの階に停止するように設計されている。

エレベーターに乗っているときに地震にあったとしても、じたばたせずにおとなしくしていた方が良い。
1945年7月28日にエンパイアーステートビルに飛行機が衝突し、エレベーターが300メートル落下したが、死亡事故にはなっていない。

オーチスという会社のエレベーターはエッフェル塔、エンパイヤステートビル、自由の女神、ツインタワーにも設置された。
エスカレーターもオーチスの発明で、1890年のパリ万博で公開されている。

空母で航空機を出し入れするエレベーターも作っている。
空母を造っていた国はエレベーター技術が発達していると聞いたことがある。

蒸気や水圧式エレベーターはさすがにないが、油圧式エレベーターは普通に使われている。
オーチスではリニアモーター駆動のエレベーターも開発しているらしい。

昔はエレベーターには専属の操作員がいて格子状のドアを開け閉めしていたが自動運転に変わり、今エレベーターガールが残っているのは一部のデパートや、観光用のエレベーターだけらしい。

元の大丸デパート辺りのビルには格子式の引き戸の、アル・カポネが降りてきそうな古めかしいエレベーターがあったなあ



2014/05/11 15:23:30 すが

ビバ!浄化槽

田舎の道を走っていたら農家の建物があって、この辺りは汲み取りらしく便槽から古い石綿製の臭突が立ち上がり、二階の部屋の窓のど真ん中に風で回って臭気を排気する換気扇がある。
窓を開けると目の前に来る状態だ。

朝窓を開け、換気扇が振り散らかすかぐわしい匂いを嗅ぐと、今日も一日頑張って働こうという気力が湧いてくるという特殊体質の人なのか?
もう少し筒を伸ばすか縮めるか、左右に動かすとか出来なかったものだろうか。

純子は俺より5歳下だが、小学校は最初から水洗トイレだったという。
我が家が洋式水洗トイレになったのは高校生の時だったと思う。
戦後一般的に普及していた厚生省式改良便所の構造を調べると、便槽の中に隔壁があって二つに分けられていたらしい。

貯留槽に糞尿が落ち、あふれ出た物が汲み取り槽に溜まる。
その間三ヶ月程で腐敗が進み、細菌や寄生虫が死滅して安全になるので汲み取り槽だけを汲む。

しかし北海道でそんな仕切りのある便槽なんて見たことが無い。
まあ、あんまりしげしげと覗き込む物でもないが。
実際、水洗化の為に掘り起こした便槽を見ても隔壁なぞ見あたらなかった。
凍結の問題でもあったのだろうか。

シベリア抑留者の話では冬期間、便槽の中の便が凍ってしまう。
便を取り除くためにツルハシで掘り起こすのだが便が服に飛び散って、部屋に戻るとそれが溶けて悪臭を放ったということだ。

もう記憶に無いが、北海道の便槽の中も冬期間凍っていたのだろうか。
すると雪の降る前にくみ取っておかなければ悲惨な事になりそうだが。
汲み取り槽の便が凍るなら、仕切りで分ける意味が無いから単槽式になったのかも知れない。

平成24年末の日本の下水道普及率は76.3パーセントであるが、この数字は先進国の中では低い数字らしい。
結果田舎ではくみ取り式便所になってしまう。

数年前に十勝清水の私設キャンプ場コニファーに行った時ログハウスを建設中で、敷地に何処かから貰ってきた水洗便器が2個ほど転がっていた。
水洗便所を作るのだろうが処理はどうするのだろうと思っていたら、手伝ってくれているアメリカ人のスコットが

「アメリカデハ コノヨウニヤリマース」

と言って地面をユンボで掘り起こし、其処に浄化槽を設置してくれたらしい。

確かにアメリカの田舎に住んでいる日本人のブログによれば、水洗便所から流れた糞尿は地面に埋められた浄化槽に流れ込むようになっている。

浄化槽は3つのタンクに別れていて、固形物が沈殿して上澄み水が次のタンクに流れ、同様に最後のタンクに流れてゆく。
(ブログの書き手は浄化槽の専門家ではないので詳しく書かれていないが、おそらく最後の槽は曝気槽で、空気を大量に送り込んで好気性細菌を繁殖させて汚水を浄化していると思う)

最終的にはSeptic Moundという所にポンプで送られ、バレーコートくらいの広さの地面にゆっくりと浸透させて、地中の細菌で綺麗な水にして自然に帰す。
タンクに溜まった汚泥は時々バキュームカーで吸い取るらしい。

日本でも下水道の普及していない場所での浄化槽の普及に交付金制度や融資制度を設けて推奨している。
トイレの水だけを浄化する単独処理浄化槽は禁止となり、生活排水も一緒に浄化して河川や水路に流す、合併処理浄化槽のみとなっている。

http://www.zenjohkyou.net/tankInfo/whyTank/page_4.html

ビルなんかは糞尿と生活排水を地下の雑排水槽に一旦貯めて、ポンプで汲み上げて下水道に流す方法と、浄化槽を設けて河川に流す処理方法があるようだ。
そういうビルでは一年に一度、道路の混んでいない早朝、沢山のバキュームカーで溜まった汚泥を吸い上げてタンクの清掃をしている。

最新の浄化槽で処理された水は下水処理場から排水される処理水と同じく、飲めるくらい綺麗らしい。

大型の施設などでは始めから浄化槽を備えていて、再生水をトイレや噴水の水に再利用しているらしい。
川を綺麗に保つには水量が必要であり、そのためにも水の浄化槽によるリサイクルが有効らしい。

姉さんの所もそうだが、日本の田舎も浄化槽を設置してトイレは水洗にし、生活排水と共に浄化槽で綺麗な水にして川に流すなり、農業用水として利用するなりした方が良いと思う。
水洗に慣れてしまうとちょっとポットントイレは、、、




2014/04/19 19:06:32 すが

オルゴール館へ行く

今日は久々に天気が良かったので玄関の階段のモルタル修理。
ついでに下水のマンホールの、除雪車で削られた部分も修理。

気になっていた洗車も行う。
面積が多いから大変だ。
ぴかぴかになって気持ちがよい。

車体の下回りを覗くと錆が出ている部分がある。
これは塗装しなければならないが、どんな塗料が良いのだろう。
なんか錆に塗るだけで錆自体が皮膜になるようなものもあるようだ。

野幌の百年記念塔は高張力鋼で出来ているが、錆自体が被膜になってそれ以上内部が錆びないらしい。
だから、茶褐色をしているが、あれと同じ原理か。

車が綺麗になったのでドライブに出かけたくなる。
小樽に向かう。
埠頭の側の駐車場に車を置き散策する。

まだ観光シーズンでは無いので人は少ないが、台湾からのツアー客が日本人よりも多い。
台湾人か中国人かは服装で分かる。
やはり台湾人の方が垢抜けている。
中国人の様に人の迷惑顧みず騒がない。

オルゴール館に入る。
純子とは以前にも入ったことがあったと思うが、すっかり忘れているらしく新鮮な驚きを感じて楽しんでいた。

以前から思っているのだがオルゴール館があるのなら、オートマタ館があっても良いのじゃないだろか。
オートマタとは自動機械の事で、狭義には西洋からくり人形を指す。

歴史上最も古いオートマタは古代ローマ、アレキサンドリアのヘロンが作った聖水の自動販売機だと思うが、我々が見知っているからくり人形の元を正せば時計造りの技術が元になるらしい。



時計作りの技術がからくり人形やオルゴールに使われ、さらにカムなどが発明され自動織機等の機械になってゆく。

現代の車や飛行機などもルーツも遡ればそこに辿り着く。
一昔前の手回し式計算機も歯車を組み合わせた物であり、それを思うとコンピューターのルーツも時計と言える。

オルゴール館にも一つ筆記をするオートマタがあったが、神戸には「有馬玩具博物館」という西洋からくり人形の展示館があるようだ。


http://www.youtube.com/watch?v=whzoMIL-y3k

2014/04/16 17:44:36 すが

コロンブスはろくでなし

先日の胃の内視鏡検査の折、胃の荒れ方からピロリ菌がいるんじゃないかと疑がわれ尿検査をした。
その結果ピロリ菌の抗体が見つかったとのことで、今度は呼気を採集して精密な検査を行ったところやはり陰性だった。

これで陽性だったら日本の法律では別の薬を試すことが出来ないらしく、とりあえずは良かった。

今の歴史の教科書では「コロンブスのアメリカ大陸発見」の記述は無いらしい。
コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは1492年だが、それより500年も前の紀元1000年にレイフ・エリクソンというヴァイキングがカナダの東北部に到達し、発見した島や陸に「ヘルランド」「マークランド」「ヴィンランド」という名をつけた。

紀元1000年ということは日本で言えば平安時代で、清少納言や紫式部が活躍していた頃だ。
これらの事は北欧神話「サーガ」で伝えられていたのだが、それらの地名が今の何処なのか分からなかったのだ。

1960年、イングスタッド(Helge Ingstad)というノルウェーの学者夫妻が、17世紀にアイスランドで作られた地図の西端に「ヴィンランド岬」という地名を見つけた。
それは今のカナダの東端のニューファンドランド島だった。

その後ニューファンドランド島の北部の漁村で、長い間インディアンの遺跡だと思われていた場所を調べるとヴァイキングが使う道具が見つかったので、言い伝えの地は北アメリカ大陸だと分かった。
「ヘルランド」はバフィン島、「マークランド」はラブラドル地域らしい。

ヴァイキングはアメリカ大陸に入植したのだが、インディアンとの抗争からアメリカを去ったらしい。

したがって今の教科書にはコロンブスの新大陸発見の記述はないらしい。
しかしこのコロンブスという男、現代にいたら懲役10000年くらいの刑を受けてしかるべきろくでなしで、インディアンを動物の様に扱い大虐殺を行っている。
その後のスペイン人達の原住民の虐殺も、コロンブスのやり方をまねたらしい。

この時代生きて帰れるかどうかも分からない海の向こうに行こうなんてやつは、犯罪者とか陸で食えなくなったやつとか、一発逆転を狙うろくでなしばっかりだったのだろう。

2014/03/31 17:13:44 すが

セノーテが見たい

マヤ族の聖なる泉で、水汲み場として利用されていたセノーテは、何故6500万年前にユカタン半島に落下して恐竜を滅ぼしたチクシュループ クレーターの外輪山に沿って点在しているのだろう。

http://matome.naver.jp/odai/2129420780029972801

WIKIPEDIAによれば

セノーテ (cenote) はユカタン半島の低平な石灰岩地帯に見られる陥没穴に地下水が溜まった天然の井戸、泉のこと。泉の下層には大規模な鍾乳洞が水没していることが知られている。水面下では決して形成されることのない鍾乳洞が見られるのは、次のように説明されている。氷期の海水準低下時に形成された長大な地下川型洞窟系が後氷期の海面上昇にともない、内陸部では地下水位が上昇することによって洞窟系全体が水没した。このような洞窟の天井の一部が崩落して陥没ドリーネが生じた結果、セノーテができた。
語源は、ユカテコ・マヤ語の「ゾノト」 (dzonot) から転化したと考えられている。ユカタン半島の北部低地では、川も湖もないため、主要な水源であった。ユカタン半島のセノーテは、チクシュルーブ・クレーターを埋めた石灰岩の層の中に形成されたものである。

ということなのだが、それだけでは何故外輪山に沿って地下水脈が出来たのかの説明になっていない。
チクシュループ村を中心に半月みたいな形でセノーテがあっても良いんじゃない?
色々調べてもその理由が書かれた物が見つからない。

1977年に発見された中生代白亜紀と、新生代古第三紀の間の隕石起源と思われるイリジウムを大量に含んだ地層には海洋プレートの塵が含まれているので、隕石は海に落ちただろうといわれていたが、何処に落ちたのかは分からなかった。

実は翌年1978年にはメキシコで油田探査のため重力分布を調べていて、ユカタン半島の地下に直径170キロ米のクレーターが埋まっているのが見つかっていたのだが、それと恐竜絶滅を結びつける事が出来なかった。

1990年代初頭に隕石落下時の津波で流されてきた岩石がカリブ海周辺に集中しているのが見つかり、もしかしてあのユカタン半島の地下に埋まっているクレーターがそうなんじゃないかと調べたら、生成時期が一致した。

セノーテの地層は石灰岩だが、石灰岩は珊瑚礁が起源だ。
現在も水深30メートル程だが、当時もこの辺りは浅い海だったのでは無いだろうか。
珊瑚は水深30メートルより浅い海で珊瑚礁を作る。

浅い海に落下した隕石が作ったクレーターの外輪山は珊瑚の生育に適した深度だったのかも知れない。
或いは山頂が海面に出ていて、斜面の丁度良い深度に珊瑚礁が出来たのか?
それで外輪山に珊瑚が出来、クレーターの沈下か海水面の上昇によって珊瑚礁が発達していって石灰岩が出来たのでは?と俺は思うのだが。

それで調べているうちにこんな動画を見つけた。


http://www.youtube.com/embed/Dcp0JhwNgmE?feature=player_detailpage

しかしこの動画を見ると隕石は今より少しだけ北の、もっと深い海に落ちたらしい。
何で今はユカタン半島の下に埋まってるの?プレートが移動した?確かにカリブプレートとの境目だけど、、、ユカタン半島が何時どうやって出来たのか知らないと分からんな。

直径10キロメーターの(下のコメント欄では少なくとも15キロメーターはあったろ(-_-)と言っている。10〜15キロの間らしい)隕石は南から時速64000キロでユカタン半島に落下したが、そのエネルギーは第二次大戦時に使用された原爆の30億倍のエネルギーを持ち、発生した津波の高さはおよそ100メートルに達したらしい。

この動画では100メートルより浅い海に垂直に落下した場合、浅い角度で落下した場合、さらに今より北の深い海に落下した場合のシュミレーション映像を紹介している(黄色○の数字が津波の高さで単位はメートル)ようで、遠い所迄山崩れを起こすような強い津波が到達している事から、今より少し北の深い海に落下したようだと言っている。

    

2014/03/18 12:38:54 すが

人麻呂忌

こんな記事を見つけたが、何故?と思ったら陰暦の3月18日は柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が石見の国(島根県益田市)で亡くなった日だからかも知れない。

http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/others/pa88ba2d5b43437789ac0eb2411a0977a

万葉集の中の雄大な歌「東(ひんがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ」 の中の「かぎろひ」とは何なのかという議論があって、その一つに黄道光(こうどうこう)説がある。

黄道光というのは黄道(太陽が空を移動してゆく軌道)に沿って太陽を中心に現れる光で、正体は地球軌道近くに存在する塵に太陽の光が乱反射して光っている物で日没時の西の地平線、あるいは夜明け前の東の地平線に釣り鐘状の光芒が立ち上がる。
朝焼け説や陽炎説などもあるが、風景的には黄道光であるのが一番雄大だと思う。

月と太陽の位置関係から人麻呂がこの歌を詠んだのは陰暦の11月17日、太陽暦では西暦692年{持統六年}12月31日のAM5時50分ごろらしく、奈良県大宇陀町主催の「かぎろひを観る会」では12月31日に山の上で朝6時頃かぎろひを観望しているらしい。
しかしここで見ようとしている「かぎろひ」とは、地面から立ち上がる水蒸気に朝日が乱反射したもので、黄道光とは違うものらしい。

この高校の古典で教えられる歌は本当に「ひんがしの、、、」と歌われていたのかは分からない。
原文は「東野炎立所見而反見為者月西渡」で、「ひんがしの、、、」と当てはめたのは江戸時代の賀茂真淵という学者で、それ以前は

あづま野の けぶりの立てる所見て
 返り見すれば 月かたぶきぬ
(第五句,又ハ,月西渡る)

と読まれていたらしい。
しかし万葉人がそう読んでいたかはわからない。

さらに最近は賀茂真淵の読み方も違うんじゃないか?と

ひんがしの
 野に燃ゆる火の 立つ見えて
返り見すれば 月かたぶきぬ

ひんがしの
 野らには煙 立つ見えて
返り見すれば 月西渡る

という読み方も現れているらしいが、賀茂真淵の読み方が一番雄大で、景色が思い浮かぶ。

島根県益田市は人麻呂ゆかりの地であり、女子プロレスラーの豊田真奈美の故郷でもある。
今年は裏日本を走って九州、四国に行こうとしているので益田にも寄る予定である。


2014/03/14 12:17:14 すが

イギリスの芝

「何でも鑑定団」なんか見ていると何の変哲も無い(と俺には見える)湯のみが、家が買えるくらいの価格が付いて、思わず我が家の押し入れの中に何か先祖が残した物が無いかとひっくり返したくなる衝動に駆られるのだが、そもそもそんな物があったらとうに売り払っているから捜すだけ無駄という物だ。。

しかしあなたの飼い猫の餌を入れている茶碗だって、1000年も割れずに残っていれば他の同時期に出来た茶碗はすべて割れているだろうから、国宝に祭り上げられるかも知れない。

あるアメリカ人がイギリスの何処にもある美しい芝を見て感嘆し、
どうしたらこんなに青々した芝を育てられるのかイギリス人に聞いた。
するとイギリス人は

「特別なことは何もやっていない。ただ水をやって芝を刈ってるだけだよ。それを何百年も続けるとこういう芝になるんだ。」

と答える。

時の価値だけは値段の付けようが無い。

2014/03/12 05:28:53 すが

生き物としての人

昭男の会社に予備自衛官の人が居て震災の後、被災地の瓦礫の撤去に行ったのだが、津波というのはある高さまでは瓦礫と化しているが、それより上になるとまったく被害が無い。

自衛官が瓦礫の中で行方不明者の捜索をしている少し上の家の住人はのんびりと洗車をしていて「これで良いのだろうか?」と感じたというが、それで良いというか、それが人間だと言うしかない。

その人だって津波で犠牲になった人たちを悲しむ気持ちが無いわけでは無いだろうが、さりとて自分の生活もして行かなければならない。
仕事を投げ打って救助活動を手伝っていたら会社を首になってしまうかもしれない。

どんなに悲しい目に遭ったって腹は減るから飯を食わなければならない。
それが生き物としての人間の自然な姿だ。

愛する人が亡くなったからといって「ロミオとジュリエット」のように自殺していたら人間はとうに滅んでいる。
瓦礫の中から何度も何度も立ち上がってきたから人間は生き残っている。

人は刺激に麻痺するように出来ている。
悲しい記憶もずっと続けば、閾値が上がってそれが普通の状態になる。
精神の自己防衛機能というものが元々人には備えられているのだろう。

それを呼び起こしてくれるのが腹が減るという現実。
北杜夫のエッセイの中に学徒動員で工場で働いていて空襲の瓦礫の中で弁当を食べようとしたら、傍に死体が転がっていて

「ちぇっ、飯が食えないじゃないか」

と移動して行く。

死に対して感覚が麻痺していたと回想しているが、隣で人が死んでも自分は飯を食うのが生き物として正しい姿なのだと俺は思う。

2014/03/07 20:06:19 すが

東京は日本国の首都なのか?

東京都は日本の首都となっているが、明治天皇は正式に東京に遷都すると詔勅(しょうちょく)を出した事はなく、東京への遷都ではなく東京への奠都(てんと)がなされたということになっている。(実は奠都すら詔勅されていないが)

遷都と奠都の違いは前者は前の都を廃棄することを含む意味合いを持つが、奠都は京都はそのままに、天皇や政治機能は東京に移すという事なのだが、実質的には同じ事なのだ。

何故こんな事になってしまったのかというと、明治になった時、政府に何かと干渉してくる公家や京の有力者から天皇を切り離そうと新政府は考えた。

そこで大久保利通は浪速遷都の建白書を提出したのだが、公家たちの反対にあって廃案になってしまった。
それでとりあえず大阪に行幸(ぎょうこう)するという事にして、40日ばかり大阪に滞在し京に還幸(かんこう)した。

佐賀藩の大木喬任(おおきたかとう)と江藤新平の、「西を治める京都に対し、東の江戸を東京と改め東日本を治める『東西両都』で良いんじゃない?」という建白書が岩倉具視に出され、慶応4年(1868年)7月17日 「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書(しょうしょ)」 が発せられ江戸は東京となる。

公家たちや京都の住民に配慮して東京奠都を明確にしなかった。
つまりなし崩し的に「東西両都」をやってしまおうと考えたんだろうね。

明治元年9月20日、明治天皇は東京に行幸し、10月13日に江戸城へ到着、江戸城はその日のうちに東幸の皇居と定められ東京城と改称された。続いて同年10月17日には、天皇が皇国一体・東西同視のもと内外の政(まつりごと)を自ら裁決することを宣言する詔(みことのり)を発した。
12月8日ひとまず還幸し、12月22日に京都に到着。

その後もいろいろ理由を付けて東京への行幸をくり返し既成事実を積み上げる。
中央行政機関をどんどん東京に移してゆき、首都機能は東京に移されてゆく。

>明治3年(1870年)3月14日、東北の平定が未だに行き届かないこと、諸国の凶作、国費の欠乏など諸々の理由で京都への還幸を延期することが京都市民に発表された。翌明治4年(1871年)3月になって、結局大嘗祭は東京で行うことが発表され、同年11月17日に東京で行なわれた。<

と、なし崩し的に政治経済の中心は京都から東京になってしまったのだが、首都という物の定義が大日本帝国憲法にも、日本国憲法にも、いかなる法律にも規定されていないので、東京が日本国の首都であるのか分からない。

ただ政治経済の中心であるので日本人も、外国人も、東京が日本の首都なんだろうと思っているだけなのだ。
ただ、都ということになると未だに遷都されていない京都が都で、天皇は明治以来長い長い行幸を続けて東京に滞在しているということになるのだろう。


2014/03/01 19:43:55 すが

危機一髪

知る権利と騒ぐけれど、知らない方が心穏やかに暮らせる事もある。

1960年代は米ソの冷戦の最中で、アメリカは24時間体勢で核爆弾を搭載したB52を常に飛ばして、何時でもソ連に核攻撃に向かわせるクローム・ドーム計画を開始した。
その結果あわや大惨事という事故が多発した。

有名な事故を並べてみると


1961年1月24日


J.Fケネディが「国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国家のために何ができるかを考えようではありませんか」と就任演説をした3日後、米南部ノースカロライナ州ゴールズボロ上空で飛行中の米軍爆撃機B52が、右翼の燃料漏れからきりもみ状態になり空中分解して墜落。

2発の水爆がつり下げポットから脱落、そのうちの一発のパラシュートが開き起動シーケンスが起ち上がり起爆装置が作動し始める。
4つある内の3つの安全装置が外れたが、残りの一つが壊れていたため作動せず水爆はパラシュートが木に引っかかって回収される。

もう一発の水爆は地面に6メートル潜り込んで分解したが爆発しなかった。
落っこちたぐらいで爆発していたら、危なくて飛行機なんかで運べない。

核爆弾と一言でいうが、水爆と原爆は原理が全く違う。
原爆は核分裂、水爆は核融合するときに放出するエネルギーを利用していて、原理は太陽の爆発と同じだ。

水素の同位体の重水素や三重水素をリチウムと化合させ、重水素リチウムという固体にする。
起爆装置である原爆の爆発時の放射線と超高温、超高圧を利用して重水素リチウムの核融合を誘発させるのが水素爆弾で、原爆よりも遥かに破壊力が大きい。

起爆装置である原爆を爆発させるには、球形に並べられたプルトニウムの外側に配置された火薬を爆発させて、プルトニウムを中央に集めて圧縮して臨界させて核分裂を起こす。
この最初の火薬を精妙なタイミングで爆発させなければ、起爆装置の原爆は爆発しない。

墜落の衝撃で何個かの起爆装置の火薬が爆発してもプルトニウムを四散させるだけだ。
尤もプルトニウム自体放射性物質であるし、猛毒でもある。

何故このとき起動装置が作動し始めたのかは、色々調べても言及している記事は見つからなかった。
ただ

「もし爆発していたら、半径27キロ圏の住民は確実に命を失い、ワシントン、ボルチィモア、フィラデルフィア、ニューヨークに死の灰が降り注ぎ数百万の犠牲者がでていたと推定されている。
この事故については危機一髪だったのではとの報道もあったが、米国政府は繰り返し核事故防止スステムがほどこされているので、危険はなかったと表明していた。事件直後、ペンタゴンの報道官はB-52は『核爆弾が起爆しないプログラム』で飛行していたと言い、20年後にも『二つの安全装置が機能していた』ので危機的状況ではなかったと説明していた。これが、真実ではなく政府の嘘であることをシュローサ―(ゴーズボロの事故を調べ本にしたアメリカのジャーナリスト)は証明したのである。」


1965年12月5日


鹿児島県奄美大島の喜界島の南東(北緯27度35分2秒 東経131度19分3秒)の海でベトナムでの任務を終えた米空母「タイコンデロガ」のエレベーターから1メガトンの水爆を積んだA4スカイホークがパイロット諸共落下。

5000メートルの深海で回収は不可能。
いまだに日本の海の底で腐食を続けているのだろう。



1966年 1月17日


スペイン南部上空でクローム・ドーム作戦中の米軍のB52G爆撃機と、空中給油機KC−135Aが9450メートルで給油作業中に衝突、双方とも墜落しKC−135Aの乗員は4名全員死亡、B52Gの乗員は4名が脱出。

積んでいた4発の水爆が地中海に面した小さな田舎町パロマレスに落下。
1発は海に落下、1発はパラシュートが開き地上に着床、2発は地上に激突し起爆装置の火薬が爆発して、ウランとプルトニウムが飛散。

海に落ちた最後の一つは80日後深海探査艇アルビン号により発見され、潜水艦救難艦ペトレルに引き上げられる。


1968年1月21日


クローム・ドーム作戦遂行中のB52の機内で火災が発生、乗員7名脱出、1名脱出に失敗し死亡。
機体は4発の水爆を抱えたままデンマーク領グリーンランドのチューレ空軍基地西側12キロの海氷原に落下して炎上。

水爆は起爆装置の火薬が爆発しプルトニウム、ウラン等を飛び散らせ周囲を汚染した。
アメリカおよびデンマーク当局は直ちに、残骸の除去および環境被害阻止のための「プロジェクト・クレステッドアイス」(非公式に「ドクター・フリーズラブ」と呼ばれた)を発動。

この作業は氷が溶けて汚染物質が海水に混じらないように冬の間に終えなければならないから大変だったらしい。

事故当時4発の水爆は全て回収されたとされていたが、2008年にBBCが情報公開法で事故資料を調べたところ、1発が回収されていないことが分かった。
それが海底の何処かに沈んでいるのか、粉々になってしまったのかは分からない。

しかしさすがに米軍も常に核爆弾を積んだ飛行機を飛ばす危険性を思い知り、クローム・ドーム作戦は中止となった。


1980年9月19日


アメリカ アーカンサス州タマスカス近くのミサイル基地で、地下に埋められたミサイルのサイロで点検中の作業員が外した部品とスパナを落としたのだが、たまたまミサイルの燃料タンクに穴を開け燃料が漏れ出してしまった。

色々措置を講じたのだが結局ミサイルは大爆発を起こし、核弾頭が数百メートル飛ばされる。
この事故の経験からミサイルの燃料は固体燃料になってゆく。

これはアメリカ軍の事故だが、ソ連も多くの事故を起こしている筈だが余り公表されていない。
原子力潜水艦の原子炉のメルトダウンや、沈没なども沢山おこっている。


http://homepage1.nifty.com/koarashi/genbaku/genbaku-5.htm



    

2014/02/20 19:04:34 すが

反射鏡製作

反射望遠鏡を日本で初めて作ったのは江戸時代の鉄砲鍛冶、国友一寛齋(くにとも いっかんさい)だ。(天保3年 1832年頃)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8F%8B%E4%B8%80%E8%B2%AB%E6%96%8E

しかも比較的簡単なニュートン式ではなくグレゴリー式の反射望遠鏡で、主鏡は口径60ミリの放物面鏡、副鏡は楕円凹面鏡という製作が難しい物で60倍の倍率だった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BD%93%E6%9C%9B%E9%81%A0%E9%8F%A1

彼はこの望遠鏡で太陽黒点、月や惑星を観測している。

国友一寛齋は国産反射望遠鏡製作の圧倒的先駆者なのだが、技術の伝承は絶えている。
現在の日本の反射望遠鏡製作のルーツを辿れば中村要(なかむら かなめ)に辿り着く。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E8%A6%81

28歳の若さで死亡となっているが、目を患って将来に不安を抱いての自殺だったらしい。
300枚近くの反射鏡を研磨し、西村製作所や五藤光学の望遠鏡に使用された。

この中村要の作ったニュートン式の反射望遠鏡は苫小牧の「ミール展示館」のある「苫小牧市科学センター」内にも一台展示されている。
真鍮製の鏡筒、極軸に天体を追尾するためのウォーム&ホィールという組み合わせのギアを持つ赤道儀だ。

この中村要の鏡面磨きの技術と、書き綴った資料を受け継いだのが木辺茂麿で、木辺鏡といえばその精度と鋭い映像で有名だった。
この当時の反射鏡づくりは手仕事で職人技の世界なのだ。

「反射望遠鏡の作り方」という著書もあり、俺も中学生の時この本と、星野次郎の同名の本を読み反射鏡を磨いてみたいと思ったのだが、金はないし、材料も手に入らずあきらめた。

木辺茂麿は大型望遠鏡メーカーの主鏡も製作していたと記憶しているが、本業はなんと滋賀県野洲市の平安時代から続く真宗木辺派の本山、錦織寺(きんしょくじ)の僧侶で、第二十一代門主 宣慈上人の法名を持つと云うことを今調べていて初めて知った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E8%BE%BA%E5%AE%A3%E6%85%88

反射鏡は2枚のガラスの間にカーボランダム(金剛砂)という研磨剤を挟んで特殊な方法で摺りあわせ、砂を細かくしていって、最後は土台側のガラスにコールタールを流し、切れ込みを入れて研磨剤のベニガラ(酸化鉄)で磨いてぴかぴかにする。
今はベニガラではなく、酸化セリウムとかレジンといったレアアースを使っているらしい。

その間フーコーテストとかナイフエッジテストといった鏡の曲面を調べるテストをしながら、最終的には鏡の断面が放物線を描くように修正してゆく。
焦点距離の長い物なら凹面でも目立たないが、短くなると放物面で無いと一点に焦点を結ばない。

http://web.canon.jp/technology/kids/mystery/m_02_06.html

今、自分で反射鏡を磨き自作の望遠鏡を作っている人たちが沢山いるが、それは先人たちの技術が人から人へ、或いは資料として残されてきたからで、後世に技術を伝える努力は大切だ。

http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/ren/web/ren8/tasaka.html

< IFRAME WIDTH=640 HEIGHT=360 SRC="//www.youtube.com/embed/-1FumJ322-I?feature=player_detailpage" FRAMEBORDER=0 ALLOWFULLSCREEN></IFRAME>



2014/02/19 14:32:13 すが

こんな医者はいない、、と思う

胃の内視鏡の検査の前日は、夜9時以降は喉を潤す程度の水以外飲めない。
当然酒も飲めないので代わりに睡眠導入剤を飲んで眠る。
おかげで朝方までぐっすり眠れた。

朝起きて一通りの掃除をして、風呂に入る。
内視鏡を鼻から入れるのに鼻の詰まりを良くするためだ。
元々鼻孔が狭いので、ちょっと入りつらいのだ。

頃合いを見計らって家を出て、約束の9時に病院の受付をする。
本を読んで待っていると看護婦が呼びに来る。

検査前の準備をする。
まず鼻からゼリー状の液体を垂らす。
これは軽い麻酔薬か。
しばらく経ってから内視鏡と同じ径のパイプを入れる。

「少しきついですね」

と言われる。

やがて医者がやってきてパイプを抜き内視鏡を鼻から通そうとするが

「ちょっときついなあ」

と言いながら何度か押し引きやっているうちに、鼻の奥がつーんとして内視鏡が入ったのが分かった。
さらに今度は喉の辺りがもぞもぞして、これも一瞬「うっ」となったが、通過するとどうとも無くなった。

「今、食道に入りましたからねぇ」

と医者が教えてくれる。

目の前には小さなモニターがあって内視鏡からの映像が映されている。
食道の先に穴が見えてきた。
胃の上部の噴門だろう。

そこをさらに下がって行き胃の中に入る。
胃液がたまっていてライトの光を反射して揺らめいている。
胃液を吸い取りながら周りを観察してゆく。

「おぉ?」

と医者が声を出す。
看護婦が大きなモニターを見つめる。
ちょっとその辺りを、内視鏡の頭を回しながら観察する。
モニターを見るとポリープらしき盛り上がりがある。

そのまま進んで十二指腸まで入ってゆく。
「怪しい部分は後回しにして、とりあえず先に進んでるんだな」と思う。

ピンクのヒダヒダが見える。

「うん、十二指腸は綺麗ですね」

ちょっと安心する。

そこからまた戻って幽門の辺りを観察する。

「うーん、これは何で前回、、、」

等とつぶやいている。

「何か見つかったんですか?」

と耐えきれなくなって聞いてみた。

「この辺りが堅くなって小腸の内部みたいになっていますねえ。えぇまあ問題はないんですが、、ちょっと胃が蠕動運動していませんねえ。」

さらに内視鏡をUの字に曲げて胃の上部を逆さまから見たりしてまた

「うーん、、、」

とつぶやいている。

「先生、悪い所があったら隠さずに話して下さい」

と言う。
鼻からつっこむ内視鏡は吐き気を催さず話せるから良い。

「分かりました。いや今のところは大丈夫なのですが、どうもピロリ菌にやられているような風に見えます。胃が荒れていますねえ。」

「ピロリ菌は以前除去治療したのですが、再発ってあるんですか?」

と言うと、看護婦が6年前に治療してピロリ菌の抗体がマイナスだったことを告げる。

「99.9パーセントは再発しないのですが念の為、尿検査をしてみましょう。」

と言う。

そうやって調べているうちに、入ってくるときに見えたポリープの所に来た。
内視鏡を操作していろいろな角度から観察していたが、突然医者が

「あっ!」

と叫ぶ。
とうとう見つかったかと観念し

「先生、がんですか?!」

と聞くと

「いや、まあその、誠に言いづらいんだが」

と言い渋るから、

「先生私はこう見えて禅の修行をしております。うろたえる事は無いのではっきりと宣告してください」

と迫った。

「いや、ちょっとコーヒーをこぼしてしまって」

見ると床に採尿用の紙コップが落ちていて、茶色の液体がこぼれている。

「先生、コーヒー飲みながら検査するのやめてくださいよ、心臓に悪い。」

「リラックスしていると冷静に観察出来るものですからね、私は検査の時は何時もこうしてます。このポリープはこの辺りには良く出来る物で、自然に無くなってしまうことも良くあるので問題は無いと思います。」

さらにその周辺を詳しく調べていたが

「あーららららら〜、、、やっちゃったー」

と残念そうに医者がつぶやく。

「先生、やっちまいましたかっ!」

禅の修行の成果も何処へやら、動揺しまくり内視鏡を囓み砕きながら叫ぶ。

「とうとうやっちゃいましたよー ほら」

と医者が指さす床を見れば、紙コップが落ちていて琥珀色の液体が。

「検査の時にウィスキーを飲むと手の震えがぴたっと止まるものですからね、飲まないで内視鏡を入れようとすると目やら耳の穴に入りそうになり患者の迷惑になるので、私は検査の時は何時もこうするんです。」

「看護婦さん!先生にバーボンをダブルで!!」


そんなこんなで検査も終わり、諸問題はあれど、とりあえずの生存に支障は無いようだった。

2014/02/17 08:43:29 すが

山形の通勤ラッシュ

久しぶりにバスと地下鉄に乗る。
バスなぞずっと乗っていない。
地下鉄に乗り継ぐにはどうしたら良いのかも忘れた。
なんとか乗り継ぎ券を買い地下鉄に乗る。

白石での「SONG BOOK」と「トプクリ」のライブを聴き終えて、地下鉄に乗ろうとしたら

「降りる人が済んでからお乗りください」

というアナウンスがあったので思い出した。

東京の人が山形で電車に乗ろうとすると

「落ちる人が死んでからお乗りください」

とアナウンスがあったので驚いたという。

山形弁では「降りる」を「おぢる」と言い、「ス」を「シ」と発音するのでこのような素敵なアナウンスになるらしい。

従って山形は田舎であるにもかかわらず通勤ラッシュがひどい。
足を踏み外してホームに落ちた人がいると、死ぬまでじっと待たないと列車に乗れないからだ。



2014/02/15 08:59:15 すが

富士山噴火

体調が思わしくなかったのであまり酒も飲まず早めに寝たら、真夜中に目が覚めてしまい眠れない。
オリンピックにはちっとも興味が無いのでネットを見る。

先日富士山が噴火したら、、、という番組をやっていた。
13日にジャワ島のクルド山(1731メートル)が噴火し半径10キロメートルの範囲の人たち20万人が避難したと云う。

ジャワ島はユーラシアプレートとオーストラリアプレートの境目で、ユーラシアプレート側にある。
と云うことはオーストラリアプレートがユーラシアプレートの下に沈み込んでいるのだろう。

何故かというと火山列島が出来る訳は、プレートが斜めに沈み込んで行き地下100キロメートルに達すると、プレートに含まれた水分が高温高圧のため陸地のプレートの下にあるマントルに逃げ出してゆく。

マントルはかんらん岩で出来ているが水のためにかんらん岩の融点が下がり、溶け出してマグマが出来、周囲の岩石を溶かしながら上昇して地表に噴出し火山を作る。

プレートは40度から50度の角度で沈み込んでゆくから、海溝(深度6000米より深い物)やトラフ(6000米より浅い物)からある距離の位置に火山列島が出来る。

日本列島も海溝やトラフに沿って出来ているが、ジャワ島なんかもそういう火山活動で出来たのだろう。

遥か遠く離れたジャワ島の噴火と富士山の噴火の因果関係は無いのだろうが、2004年以降世界には4回のM9の地震があって、そのうちの3回はその周辺で大きな火山の噴火が起こっている。

起こっていない1回が東日本大地震で、それを考えると富士山が噴火する可能性も十分ありうるらしい。
富士山が噴火した場合静岡県だけでも56万人が避難することになるという。

1980年にアメリカのワシントン州のセント・ヘレンズ山が山体崩壊を起こす噴火をした。
この山は成層火山で富士山の様な形をしており、アメリカのフジヤマと呼ばれていた。
標高は富士山より低く2950米であったが、崩壊により2550米になってしまった。

http://www.youtube.com/watch?v=UK--hvgP2uY

この映像はフイルムカメラでコマ撮りしたものを繋げた動画だが、この中で望遠鏡のような物を覗いている火山研究者のディヴィッド・ジョンストンは、無線で本部に呼びかけながら亡くなっている。


山体崩壊に至るまでの経過は次のような物だ。

1980年3月20日、セント・ヘレンズ山付近を震源とするマグニチュード4の地震が発生

3月27日最初の噴火が起こり、その後連日噴火をしつづける。

4月に入り噴火は減少したが地震は続く。北側斜面の膨張確認。

4月の末に北側斜面の一部が1.5米/日移動し続けているのを観測。

5月18日8時32分(現地時間)セントヘレンズ山でM5.1の地震発生。

それとともに北側斜面が崩壊し土岩石がスピリット湖になだれ落ちる。

山の内部にたまっていたマグマが噴出し爆風と火砕流が山の北側を襲う。

山の北側から11kmは吹き飛ばされ、22kmまでの木がなぎ倒される。

山火事が起こり東京23区に相当する区域に被害が及ぶ。

最終的には広島型原爆2万7,000個分に相当するエネルギーがセント・ヘレンズ山から放出された。
火山の噴火のエネルギーは凄まじい。

近場で言っても支笏湖の場所には4万年前には支笏火山という巨大な火山があった。
噴火を繰り返していたがとうとう32000年前に大爆発をして出来たのが支笏湖なのだが、当時は円形のカルデラで今よりも大きかった。

その後恵庭岳とか樽前山とか風不死岳が出来て今のようなひょうたん型の湖が出来たのだから、支笏火山はこれらの山々を包み込んでしまうような大きな山体だったのだろう。
標高2000米は軽くこえたらしいから、セントヘレンズ山くらいあったかも。

その時の火砕流が石狩や勇払の低地を覆い、それまで苫小牧の方に流れていた石狩川が日本海に注ぐようになった。
ゆっくり冷えて固まった溶結性凝灰岩が石山で切り出され、今は小樽の石造りの建物を造っている。

富士山にしても2900年前には噴火により山体崩壊が起こっているし、1707年の宝永大噴火では山腹に火口が出来た。
宝永の噴火の時は宝永大地震が起き、それから富士山が噴火した。

噴火の前にはセントヘレンズ山や宝永の噴火の時のように、山が揺れ動くからある程度予測は付きそうだ。
セントヘレンズ山の時も群発地震や山の温度の変化で噴火を予想して住民は避難していたから57人ほどの死者で済んだ。

富士山が爆発したらただでは済まないけれど、やっぱり地震の方が怖いよなあ。

    

2014/01/28 23:47:11 すが

記憶の風景

今日は風が強かった。
先日落としてしまったデジカメの遺失届を交番に手続きに行ったついでに散歩をする。

住宅街を歩いていると白鷺が長い足を揃えてゆったりと飛んでいた。
その背景には吹き散らかされた黄色っぽい冬雲があり、その雲の中から遥か上空を飛ぶ白い旅客機が抜け出てきた。

旅客機と白鷺は一瞬視野の中で交差して、それぞれ反対方向に飛び去って行った。
白鷺は旅客機の事など知らないし、旅客機の乗客も遥か地上に近い所を飛んでいる白鷺の事など気付きもしない。
ただ旅客機と白鷺を結ぶ線の末端に居た俺が一瞬「良い対比だなあ。」と思った。

ここでカメラを取り出して白鷺に向けてピントを合わせて写真を撮ったとしても、遥か上空の芥子粒ほどの旅客機は写らない。

俺の目はまず白鷺が飛んでいるのに気が付きそれを追い、その間に背景の雲の中から視認も困難な旅客機が出てくるのを見た。
その時に白鷺と旅客機の対比は面白いと思い、俺の脳は白鷺と旅客機のサイズの差を修正して一つの画面を作り出し、記憶の中の風景として記憶しようとした。

時が経てば経つほど、自分がその時受けた感情を精錬してピュアなものにしてゆく。
それが記憶の中の風景で、それは自分が心地よいと思う風景を頭の中で作り出しているのだ。

研ぐ
2014年01月10日03:23
包丁研ぎのチラシが入っていたのだけれど、結構高い。
7〜800円くらい取っている。
我が家の包丁は全部自分で研いでいる。

砥石は電動式の物も有るし、普通の砥石も荒砥、中砥、仕上げ砥と持っているが荒砥は刃が欠けた時と、中砥を平に修正する時に使うくらいだ。
仕上げ砥は殆ど使わない。

我が家の出刃と菜切り包丁は高い物ではないが職人が使う物で、初めて買った時にはその切れ味が怖いくらいだった。
その切れ味を保ちたいので、こまめに研いでいる。
我流ではあるが、いまだに怖いくらいに切れている。

裁縫用の裁ちばさみも研ぐ。
要を外して研ぐのだが、研ぐ角度は包丁とは全く違う。
純子が捨てようと思っていた鋏も復活した。

本当は鋏というのは平らな板ではなく、浅い樋みたいな板が擦れ合っているのだ。
だから素人は裏面を研いではいけないらしい。
研いじゃったけど。
包丁を研ぐよりも難しい。

http://www.resharp.co.jp/hasaminotogi2.htm



砥石については「王城五里を離れず」という諺があって、良い仕上げ砥石が産出する所には立派な建物が建ち都が出来るという意味だ。
しかし今の砥石は人工砥石であり、自然産出の砥石より品質が安定していて、自然産出の砥石の出る幕は無いと思う。

でも何故か我が家にはその砥石が一つある。
妹が亡くなった後始末をしている時に出てきた代物で、おそらく亡くなった旦那が使っていた物だと思う。

今、研ぎ方に思案しているのはチェーンソーの刃の研ぎ方で、これは工業製品であるからきちっと角度とか寸法とか手順が決まっている。
慣れた人はヤスリだけでやるようだが、素人なので色んな器具を試してみた。
でもどれも今いちで、刃の形が「こんな風になってはいけません」の見本の様になってしまう。

ドリルの刃とかチェーンソーの刃は難しい。
田中はプロに頼んでいると言っていたし、チェーン自体も馬鹿高い物ではないから買った方が良いのかもしれない。
でも我が家では建築の廃材を薪にするのに使っているので、注意していても隠れた釘を切ってしまう。
なんとか目立てをマスターしなければならない。

江戸時代、一般に流通する刀は試し切りという課程を踏まなければならず、その結果は刀の柄に隠れた茎に刻まれていた。
試し切りは処刑された死体を使って行われていたのだが、死体を重ねて何人切れたかで刀の切れ味を証明していた。

本来罪人の首を刎ねるのは新参者の同心の役目であり、刀の研ぎ賃として2分を下される。
その2分は同心の物となるのだが、同心は処刑執行を代々その役を行ってきた山田浅右衛門に委託する。
処刑が終わると山田は同心に代行させて貰ったお礼として金を渡す。

山田になんかメリットはあったんかいというと、副収入が凄かった。
試し切りをした経験を生かし刀剣の鑑定をしたり、死体から脳、胆嚢、肝臓、胆汁などを取り出し、丸薬を作って莫大な収入を得ていたらしい。

現在の中国も同じだが、死体は金になる。
現在では新鮮な死体がより金になり、中国は何時でも必要なだけの新鮮な死体を市場に供給できる。
裏だけどね。

でも山田家は罪人の供養には金を惜しみなく使ったらしい。


たかじん逝去

2014年01月08日16:26
雪の日は除雪、晴れた日は歩くのが運動の代わりだ。
以前は躊躇したような距離でも、徒歩で行けるようになった。
慣れの問題だ。

江戸の旅人は大体一日8里から10里を歩いたという。
32キロから40キロだから、直線距離でいうと手稲から余市くらいまでの距離だ。
当時は宿以外で宿泊することが禁じられていたから、日暮れには宿場に到着する必要がある。

途中で物見遊山したり食事も摂ったであろうから、余裕を持ってこの距離を歩いたのだとすると当時の人はかなりの健脚だ。
我々なんかついて行けないくらいの早足で歩いていたんだろう。

歩いているとだんだんペースが上がってきて心臓の鼓動も呼吸も速くなる。
景色を見たり、考え事をしながら歩いている。
今日はたかじんの事を考えていた。

たかじん64歳、大瀧詠一65歳、ちょうど年金生活を始める頃と云うのは人生の節目なのだろうか。
俺なんか「年金一銭も貰わずに死ねるか!」と繰り上げ受給をした。
此処を乗り越えるとまた、人それぞれの、だらだらした人生や、老後を楽しむ人生が始まる。

スーパーマーケットの壁に川柳同好会の人たちの川柳が貼ってあって

「金はある 趣味が無いけど 気力も無い」

というのがあった。

金だけでは駄目で、やりたいことと、それを実行出来る体力があってはじめて老後を楽しめる。
どれ一つ欠けてもいけないのだから、楽しめる期間って人生の長い航海のほんの一瞬だ。

行程のほとんどが暴風、荒波に翻弄される日々で、船体には穴が開き、マストは折れ、船底には貝が貼り付き、難破船の様相を呈しながら風と波に押されて何時か「彼岸」の波打ち際に打ち上げられる。

それでも航海の後半には波が収まる穏やかな日々があるかも知れない。
空は晴れ上がり風向きも上々、帆布は風を受けて膨らみ、船首が波を切って海面を疾走する。
運が良ければそんな日があるかも知れない。

デッキに寝そべって輝かしい空を眺める。
海風が心地よい。
「これは幸せってものだろうか」と感ずる一瞬があったのなら、辛くて長ったらしいばかりだった航海も報われるかもしれない。

しかし「たかじんのそこまで言って委員会」もご意見番の三宅さんが亡くなって、たかじんも病気で休んでから途端につまらなくなって見なくなってしまったが、これで番組自体も消滅するんだろうか。

2013/12/13 05:03:24 すが

潜水艦

1976年9月6日、当時秘密のベールに包まれていたソ連の最新鋭迎撃機 MIG25が函館空港に強行着陸した。
このとき俺は第二航空団千歳基地にいて、昼過ぎに2機のF4EJファントムが轟音を上げて離陸するのを見ていた。

http://www.youtube.com/watch?v=q2Z2mE7A1yc


普通、昼休みは訓練をする時間ではないからスクランブルだと思った。
記憶の中では土曜日だと思っていたが、調べると月曜日だった。
夕方食堂に行くとMIG25が函館空港に強行着陸したという夕刊が置かれていた。

航空自衛隊はミグが侵入してくるのを発見してスクランブルをかけたのだが、MIG25を操縦していた亡命目的のヴィクトル・ベレンコ中尉は、ソ連機の追撃をかわすために高度を下げ低空飛行をしたため、地上のレーダーからもF4EJのレーダーからも機影が消えた。

当時はE−2C等の早期警戒機が無く、低空で飛行する戦闘機を見つけることが出来なかったのだ。
この反省を元に早期警戒機を配備したわけだが、これがもし亡命目的ではなく原子力発電所でも爆撃するつもりだったらとんでもない事になっただろう。

結局ベレンコはアメリカに亡命することになったのだが、トムクランシーという保険代理店を営んでいる男と知り合い、その男の作家としてのデビュー作「レッドオクトーバーを追え」という、ソ連の最新型原子力潜水艦がソ連の原潜の追撃を振り切ってアメリカに亡命するというストーリーの小説を書く時に助言を与えている。

この「レッドオクトーバーを追え」はショーンコネリー主演で映画化されており、俺の繰り返し見る映画のひとつだ。
潜水艦の映画というのは閉ざされた空間の中でストーリーが進んでゆく。
聞こえるのは音だけという、緊迫感が否が応でも高まるような設定が多くあって、とてもドラマチックだ。

第二次世界大戦の末期、ドイツのUボートは海上ではディーゼルエンジン、水中では電気モーターをバッテリーで駆動していたが、バッテリーは37時間しか保たない上に水中の速度は14キロメーター毎時程度で、潜行出来る深度も100メーター程度だった。

船から爆雷を撒かれたらひとたまりもない。
だからヒットアンドアウェイに徹していて、見つかったら終わりだった。
潜水艦乗りの戦死率は一番高かったんじゃないかな。

潜水艦が恐るべき兵器になったのは原子力潜水艦が出来てからで、電気は元より、空気や水も海水を電気分解して作れる様になったからだ。
船の形も涙滴型や葉巻型になり、水中での速度が海上を航行するよりも速くなった。

食料払底、故障、乗員の精神的ストレス、病気などが無い限り潜行し続けられる。
安全潜行深度も700メーターくらいはあるようだ。
日本は原子力潜水艦を持たないが、専守防衛という観点から言えば原潜は無用の長物だ。

自衛隊の潜水艦はディーゼルエンジンだ。
しかしディーゼルエンジン駆動の潜水艦は音が小さくて相手に気付かれにくい。
潜水艦はソナーを使って相手の位置を特定する。
5000キロメーター先の相手さえ見つける事が出来る。

潜水艦のスクリューが回って水を切る時に小さな泡が出来てプチッとつぶれる。
その時の音は各潜水艦のスクリューによって固有のものになる。
プロペラの羽根を作るときの工作精度の微妙な違いのためだ。
さらに工作精度が荒いと音は大きくなる。

日本の潜水艦は音が静かで米軍との摸擬戦で米海軍相手に12戦全勝で、米空母も撃沈している。
米軍があまりにも発見してくれないので「何かあったのですか」と浮上して聞いたこともある。
シナの原潜なんか銅鑼を鳴らしながら進んでいるようなもので、潜行の意味がない。

さらに海自は、対潜能力に優れた水上艦艇に加えて、P3C哨戒機やSH60J/K哨戒ヘリといった最強の対潜機を約160機も保有している。
さらにさらに、日本は潜水艦を10年という短い期間で新しいものに交換しているが、退役したものはちゃんとメンテナンスをして何時でも現役に復帰できるようにしている。

シナと戦争が始まった時、シナの潜水艦や航空母艦は日本に近づくことさえ出来ないだろう。
そもそもシナの航空母艦「遼寧」(りょうねい、中国語: ??(Liaoning))はソ連のポンコツで、カタパルトも無いから船の速度を上げ、向かい風を利用してジャンプ式の滑走路で自力で飛び立たなければならない。

しかもエンジン無しの状態で払い下げられたものだから自分の所のエンジンを載せていて、これがまた出来が悪く十分に速度をあげられないときたもんだ。
つまり飛行機を飛ばすことが出来ない航空母艦、海に浮かぶ巨大なドラム缶、ハリボテ、演習用の的でしかない。

空だって尖閣辺りが戦場になるとしたら、シナの戦闘機は自衛隊機の倍の距離を飛んでこなければならない。
補給を考えれば、守る方が絶対有利なのだ。

シナは昔も今も、戦争になるまでは図体を膨らませて大きく見せる恫喝外交をするが、いざ戦争になると驚いてしまうくらい弱い。
中華民族は「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という考えが出来ず、自分さえ良ければ他人なんかどうでも良い、ましてや国家なんてものはもっとどうでも良いと思っていると思う。

昨夜の食事はタンシチュー。
堅い肉以外は最高だった。

2013/11/27 07:03:07 すが

ミニジャンボ

あこちゃんの久しぶりのライブがすすきのであったので出かける。
キャンピングカーを置く駐車場が思い当たらなかったので、電車と地下鉄を乗り継いでゆく。
札幌駅で地下鉄に乗り換えるため歩いていると宝くじ売り場があった。

年末ジャンボにはミニ年末ジャンボというのがあって、一等賞金が7000万円なのだが当たり本数が10本と多いので、「7億円あってもゴールが見えているこれから先、使えきれないから意味ないしい」と思い、ミニの方を買う。
7000万当たったらマイクロバスのキャンピングカーを買って、、、等と夢想する。

ライブの最後にあこちゃんが、自分のライブに必ず来てくれていたSさんが好きだった「What a Wonderful World」を歌う。
Sさんは俺の高校の先輩で、仕事を引退後、家族を本州に残したまま岩見沢の田舎で畑を耕しながら一人暮らしをしていたのだ。
もっとも俺が入学した年に卒業したので、当時は面識がない。

手遅れのがんが見つかり、家族は戻ってきて一緒に暮らすよう進言したが「俺がそんな性格じゃないことはお前達分かってるだろう?」と言って、周りの人にも何も言わず一人で暮らしていた。
最後は自分で食事を作ることが出来ず宅配をして貰っていたが、結局家の中で倒れて死んでいるのが見つかったのが今年の事だ。

最後の頃はさすがに音楽仲間も異常を察していたらしいが、結局何も言わず独りで死んでいった。
心の強い人だなあと思う。

この歳になると「もう良いかなあ」と思う事が多い。
もうこの後の予想もついてしまうし。
思い残す様な事がないようにだけしたい。

2013/11/12 09:45:18 すが

愛で作る

窓辺に置いてあったハイビスカスが花を咲かせた。
石油ストーブを使っていた頃は蘭も花を咲かせなかったのだけれど、薪ストーブにしてからは真冬にいくつもの花を咲かせるようになった。
やはり薪ストーブの暖かさは全然違うのだろう。

ブラジル生まれの日系ブラジル人でボサノバ歌手の小野リサさんが、ポルトガルのファドを学びに行く番組を見たが、その中でポルトガルの人が「ポルトガルは銃ではなく愛で植民地を作ったのだ。」と語る。

南米の殆どの国はスペイン語を話すが、ブラジルだけはポルトガル語が公用語だ。
大航海時代にスペインは銃で次々と植民地を作っていったが、ポルトガルは貿易で交流しながら港々に若い船員達を置いてゆく。
やがて船員達は現地の女性と結婚し、子孫を作り植民地化していったのだという。

成る程、だから純粋な黒人も白人も黄色人種も居らず、白人の様に見えるが少し違うような、黒人のようだがそんなに黒く無い人達がいるわけか。

しかし元々ブラジル人の中の黒人の血はポルトガル人がアフリカから連れてきた奴隷の血であり、サンバは奴隷のアフリカ人の娯楽として始まったらしい。
ブラジルにも肌の色による差別はあったらしく、初期のサンバでは差別や政治への抗議が歌われたらしい。
しかし現在の様に混血が進んでしまえば、人種差別のしようが無くなってしまうわ。


2013/11/02 04:25:41 すが

戦争を知らない子供達

1948年製作のジョン・ウェィン主演の「赤い河」の中で、主人公がミシシッピ河畔の広大な土地にやってきて牧場を作ろうとする。
そこに600キロも離れた牧場主から土地の管理を委託されているらしいメキシカンが馬でやってきて、ここはその牧場主の土地であるから立ち去るようにと言う。

するとジョン・ウェィンは

「原住民から奪い取った土地だろう?この土地はもう俺の土地になったから雇い主に伝えろ」

と喧嘩を売って銃を抜かせて射殺する。

無茶苦茶な話だ。
600キロも離れた土地を自分の持ち物だと主張する牧場主もそうだし、突然やってきて

「ここいら辺りは今日から俺の土地だ」

と言う奴も言う奴だ。
ジャイアンだらけの世界ではないか。
言った物勝ち、力が正義のならず者の世界だ。
しかしこんな事は今の中国がやっていることで、過去の話ではない。

我々は団塊の世代だ。
学生運動はもう末期に入っていたが、それでも学級封鎖等という物もあった。
その頃の友人達と話していると激論になる事が多い。
アメリカの狡猾さを非難するが、だからといって中国を選択する思考回路が理解できない。

彼らは普通の小市民だ。
社会の中で普通に生活しているフツーの人達だ。
そういった人と飲んでいて激論になった。
彼はこれからは中国と付き合わなければならないと言う。

それから尖閣の問題があって中国があんな国だとは思わなかったと言うので、「バッカじゃないの? 今頃気付いたのかよ?」と呆れた。

日本人は性善説というのが心の底にあって、人は誰でも他人を思いやって生きることで社会が上手く回って行くんだという思いこみが有るが、実際はひからびた世界でサソリのように砂に潜んで獲物を狙っているような国や、人の良い国民性につけ込んで強請、たかりをしてやろうと虎視眈々と狙っている国ばかりなのだ。

どこの国だって自国の利益を考えて行動している。
アメリカだって中国が日本に核ミサイルを発射したとしても、報復をするかどうか大いに怪しいと思っている。

ケネディがフランスの核開発を止めようとアメリカの核の傘に入るよう勧めたが、ドゴールはフランスが敵国から核の攻撃を受けたときに、アメリカが報復する具体的なシナリオを示してくれと言ったらケネディは青くなって沈黙し答えなかったという。
アメリカの核の傘なんてものは幻想に過ぎないと考えておくべきだと俺は思っている。

もうそろそろあの世への引っ越しの準備をしないとと思っているので、我々団塊の世代って何だったのだろうとずっと考え続けている。
そしておぼろに浮かび上がってきたのは「戦争を知らない子供達」なんじゃないかと。

人数だけは沢山いたから優秀な奴も数に見合って居て、高度成長期を支えてきた。
だけど政治思想的にはガキの頃から左翼教師やら、左翼マスコミに洗脳されてきて、あるところまで来ると思考停止状態になる。
子供の頃に刷り込まれた物から脱出するのは難しい。

団塊の世代より年上の人達は戦争を体験しているし、戦後日本国内の朝鮮人達が無法の限りを尽くし警察も手に負えず、山口組が戦っていた事などを知っている。
又逆にネットを使える世代は新聞やテレビというバイアスのかかった情報ではなく、元々の情報を知ることが出来るから団塊の世代より正しい歴史を知っている。

団塊の世代の連中に、何故駅前の一等地に焼き肉屋やパチンコ屋があるのか知っているか尋ねてみたら、あっさりと「知らない」と答えていた。
若者達の方が理由を答えられると思う。
マスコミはシナ・チョーセンのろくでもない部分は絶対に報道しないから。

自分自身がかつて心情左翼だったことを顧みて、何故そうなったのだろうと分析すると、社会科の教師も、新聞もテレビも日本は戦争をした悪い国だったと言っており、戦争ドラマなどでも戦争は悲惨で、そういう戦争を起こした日本軍部は悪であるとうんざりするほど繰り返し流されていた。

そんな物見せつけられていたら「日本は悪い国だったんだ。ずーっと迷惑をかけた国に謝罪をしなければならない。」と思うよな。
そんな嫌な思いをするのならこれ以上そんな問題に関わりたくないと思考停止をしてしまう。
マスコミに巣くう左翼、シナチョーセンの工作員共の思うつぼだ。

田嶋陽子なんか見てると、新聞の言っている事をそのまま鸚鵡のように繰り返している。
何を教えてるのか知らないが、一応大学教授の肩書きがあるんだからお勉強は出来たんだろうよ。
だけど鸚鵡程度の言葉しか発することしか出来ない馬鹿なんだよな。

学校なんてのは長く行けば行くほど馬鹿になる所なのだ。
だって専門馬鹿を作るのが大学というところなんだから。

我々の時代は朝日新聞の「天声人語」なんかから入試問題が良く引用されるというので購読して受験に備えた。
新聞の言っているように思うのが正解と思っちゃっているから、自分で調べる事もしない。

幼児は遊んでいる時気絶するように眠る。
これは脳が未発達でなだれ込む情報に対応できなくなってしまい、脳が情報を拒否するかららしい。

ところが成長するに連れ、脳の中にパソコンプログラムでいうマクロという小さな回路が出来、入ってくる情報をマクロが自動的に処理してゆくようになるので脳全体の機能がフリーズしてしまうことが無くなり睡眠時間が短くなってくる。

こういう入力情報にはこのマクロが作動し、過去の経験で学んで組み上げたプログラムで適切と思われる出力を出すという事を無意識にやってくれている。
だから我々は脳がフリーズ状態にならず生活していられるのだが、実はこのマクロが田嶋陽子を鸚鵡にしているのじゃないかと思うのだ。

以前「宮崎駿の無意識」の中で引用した彼の発言

http://www.ghibli.jp/docs/0718kenpo.pdf

を読み、何故あれほど素晴らしい作品を作る人が、これほどあからさまな子供だましの詐欺に遭ってしまうのだろうとずっと考えていて得た結論が、人は多くのマクロから成っているという事。
そのマクロの集合体が自分を他者と区別する物、アイデンテティというんですか?、、なのじゃないのかと思ったんです。

宮崎駿の家は戦時中飛行機の部品の製造で稼いでいて裕福だった。
空襲でトラックの荷台に家族が乗り逃げる時に乗せて欲しいと母親と子供が懇願したが、親はそれを無視して家族だけ逃げたらしい。
そのことがトラウマになり戦時中の軍国少年は戦後心情左翼になり、東映動画では労働組合運動をやっていたらしい。

宮崎駿のマクロはシナチョーセンは日本の被害者であるから、「日本は過去を謝罪せよ」という入力が入ると「ごめんなさい」と出力してしまう。
本人は自分自身が思考停止をしていると気づいていない。

いや、もしかすると無意識下では気づいて居るのかも知れないが、認めてしまうと今までそうやってマクロを発動させて築き上げてきた、自分が自分であるという理由、他者と区別するものが崩壊してしまうので気づかないようにしているのかも知れない。


2013/10/18 18:39:19 すが

手術完了

純子の手術が無事終わる。手術室に入ってから出てくるまで2時間40分。最初一時間半くらいだと言っていたので癒着していて時間がかかったのかと思ったが、手術自体は1時間40分で終わったらしい。

なかなか手術室から出て来ないので何か有ったのじゃないかとやきもきした。
主治医の若い女医さんが執刀医だったのだが、純子の話によればかなり新米らしく注射も苦手なのか「刺しますよ、、いち、にい、さんっ」と言いながら刺し、結局血管に入らずやり直す事がしばしばだったという。

手術の前もエレベーターの前で待っていたら詰め所から走ってきてつんのめって転びそうになる。

「おいおい大丈夫かよ、、、」

と思っていたので、メス持ったまま転んで血管を傷つけて大出血なんて事になっていないだろうなと心配になり手術室の前に行ってみたが、青ざめて輸血用の血液を持って走って居る看護士もおらず、とりあえずは大丈夫そうだった。

やがて呼ばれて手術室で医者の説明を受けた。
切除した腫瘍を見たら予想通りかなりの大きさだった。
取り出すのに出し切れず予定より多めに腹を切って取り出したという。
正常な方の卵巣はウズラの卵ほどの大きさだったから、本当に大きい。
でも帝王切開程度の傷では無いだろうか。
赤ん坊ほどの大きさの腫瘍なんて滅多に無いだろう。

取り出してからメスを入れて開いたらしいが切開部を見ると随分肉が分厚く、中は褐色の液体で満たされていて腹腔にも少し溜まっていたらしい。
悪性だったらがん細胞が散らばるところだが、腫瘍を揉んでみても堅いしこりは無かったという。
最終的には病理検査に出さなければ分からないが、どうも大丈夫そうだ。

明日は麻酔の管を外し、5分粥となり、歩く様にするらしい。

2013/10/15 16:11:57 すが

メロン熊が来るぞ!

昨年の4月に夕張に行ったときに初めて夕張の名物キャラ「メロン熊」を見た時、「なんという愛嬌のない怖いキャラだろう。こんな物絶対売れるわけ無いなあ。」と思っていた。
ところが昨今のゆるキャラブームで日本全国のゆるキャラの催し物で「メロン熊」が引っ張りだこだ。

今年のメロン熊はさらに凶悪さを増し、目は血走り、静脈のような果皮のスジは怒張し、ただひたすら凶暴、凶悪なキャラと進化し、くまモンだろうがふなっしーだろうが誰彼構わず噛みつきまくるので大人はただ遠巻きに眺めて後ずさるのみ、ガキは直径10メートルの円を描いて走り回りながらわけの分からない事を叫びまくり、赤ん坊は恐怖で小便を漏らして泣きじゃくるという阿鼻叫喚の地獄図絵となっていた。

まさにゆるキャラ界のなまはげ、アブドーラ ザ ブッチャー、ホタテマンの様な存在と化し、生ぬるいゆるキャラ界に旋風を巻き起こし、あちらのイベント、こちらの町内の祭りに呼ばれる売れっ子となってしまった。

まさかあのでっちあげて作ったようなキャラがこんなに化けるとは、クラスの中の不細工な女の子が突然売れっ子歌手になって帰ってきた様なものだ。

http://www.youtube.com/embed/Qz-_NPDIkQ0?feature=player_detailpage

http://www.youtube.com/embed/FvNozel4vWk?feature=player_detailpage

/10/05 08:31:26 すが

御伊勢参り

伊勢神宮の20年に1度の式年遷宮の「遷御」の儀がおこなわれている。2日の内宮(ないくう)に続き今日の午後八時から外宮(げくう)のご神体の引っ越しが行われる。

御伊勢参りに参拝すべき重要な社殿が二つある。
食物など生活を支えてくれる豊受大御神(とようけおおみかみ)を祭る外宮を参拝し、天照大御神を祭る内宮への道5.5キロメートルを八百万の神をお参りしながら、途中の繁華街で珍しい物を食べたり、景勝地や史跡を見ながら観光を楽しむというのが御伊勢参りのルートだ。

日本の庶民が旅をするようになったのは世の中が安定した江戸の中期からだ。
幕府は「入りでっぽう出おんな」といって、江戸に鉄砲が持ち込まれるのと、人質として江戸に住まわせている大名の妻子が逃げ出すのを防ぐため各所に関所を設けた。

従って物見遊山の旅などは出来ず、何らかの口実を付けて旅をした。
神社仏閣を参拝するだとか、百姓だったら農閑期を利用しての温泉で湯治だとか。
でも実際は観光旅行なのだ。

その中で一番人気だったのが「伊勢参り」なのだが、これは自然にブームになったのではなく秋元康や太巻きプロデューサーの様なブームの仕掛け人が居たのだ。

伊勢神宮の御師(伊勢神宮の場合はおんし、その他の寺社ではおしと呼ぶ)がそれで、平安時代の御師は貴族のための祈祷を行っていたのだが、鎌倉時代になると武士の時代になり、早い話景気が悪くなってしまった。

そこで伊勢大神宮の下級神職者の御師達は積極的に各地の村を巡って布教活動を始めた。
御祓い札を配り、金銭を受けとったお礼に伊勢暦などのお土産を渡す。
お土産はだんだんエスカレートし、おしろい、のしあわび、箸、鰹節などといった魅力的なものになってゆく。

「今これを買うともう一品これをつけます」というテレビショッピングみたいなもので、壇那(もともとダーナという梵語でお布施の事。後にお布施をする人の意味になる。奉公人が主人を、妻が亭主を呼ぶ旦那もここから来ている。)数が10万人を超える御師も現れる。

こうした布教活動の結果伊勢信仰が浸透すると、御師達は信者自らが伊勢参りをするよう勧める。

「天皇家の神様なので一般の人は直接参拝できないが、御師を通せば参拝できる。」と口説き文句を言い、案内、宿泊、すべてまとめて御師が面倒を見ると言って安心させる。

「でもー、、、お金が、、、」

と渋ると

「大丈夫、講を作りみんなで少しずつお金を積み立て、お金が貯まったらくじ引きで代表者を決めお参りをしましょう。」

と、資金作りから旅の面倒まで一切合財計画してくれる。

今の旅行代理店みたいなもので実際、後には御師は神宮とは関係が薄くなっていって、ツアー会社のようなものになっていったらしい。

江戸から伊勢を往復するのに24日間。
費用はお土産代などを入れると2両2分、大工の給金ひと月分ほどかかったらしい。

庶民の旅行がブームになると宿場も景気が良くなる。
宿場以外で停泊することは禁じられていたからだ。
武士が泊まる本陣、庶民用の旅籠、激安だが素泊まりの木賃宿等があった。

旅にまつわる出版物なども出てくる。
旅先で注意すべき事を書いた「旅行用心集」、観光ガイドブックの「道中記」「案内記」、
旅紀行コメディ小説の「東海道中膝栗毛」や旅行写真集の様な「東海道五拾次」などが出版される。
全く今の時代にある物は当時すでに原型があったんだよ。

今回の旅では伊勢志摩もゆく予定だったけど、ちょうどお盆のラッシュに巻き込まれて行けなかった。
来年また行こうと思っている。
今度は春か秋だな。

ものすごくのどが痛いと思っていたら鼻水、咳、痰と風邪の症状が出た。
純子は手術日まで風邪をひいてはいけないので、今日は病院に行って静かに寝ていることにしよう。



2013/09/02 23:17:27 すが

熊出没注意

函館から大間に着いて忘れ物をしたことに気がついた。
丁度大間の駐車場で停泊していた時に、パトカーだかが、熊が近所に出たので注意するようふれ回っていた。

その時に函館に着くまでに「熊出没注意」のステッカーを買おうと思っていたのにすっかり忘れていたのを思い出した。

札幌ナンバーにはなんとしても「熊出没注意」のステッカーが貼られていなければならない。

しまったなあと思っていたら、宮城の「村田」という道の駅で、同じ会社の色違いのキャンピングカーに乗っている人が声をかけてきたのだが、その大分ナンバーの車には網走刑務所とか富良野とかのステッカーの他に「熊出没注意」のステッカーが貼られていた。

何故か北海道の我々がうらやましく思ってしまった。

その夫婦は我々とは逆に北海道を巡って大分に帰るところだった。
北海道は遠くないかと聞いたら、高速を乗り継いでくれば2、3日で行けると言っていた。

確かに本州の高速道路網は完成しているし、料金も安い。

「熊出没注意」のステッカーは札幌の「クリエイティブコンパス」という会社が、「NORTH ISLAND」というブランド名で製作販売をしている。

http://www.north-island.co.jp/

北海道の田舎では「熊出没注意」と「鹿飛び出し注意」の看板はよく見かけ、最初から出来合いの製品があるようだが、本州では狸だとか、猿に注意を促す看板をよく見かけた。

熊の看板はあまり見かけず、大畑で手製としか思えないへなちょこ「熊出没注意」の看板を見たきりだ。
あれはあれでステッカーにして車の後尾に張ったら、後ろの車の爆笑を誘ってくれるとは思う。

北海道に戻ってから道の駅に寄ったときに探したのだが、無いんだよなあ。
何処にでもあるもんだと思っていたら。


2013/06/06 23:23:52 すが

自転車整備

「梁塵秘抄」の中のかたつむりの歌

舞え舞え蝸牛(かたつむり)
舞わぬものならば
馬の子や牛の子に蹴(くえ)させてん
踏破(ふみわら)せてん
真に美しく舞うたならば
華の園まで遊ばせん

子供の歌には結構残酷な歌詞がある。
この場合の「舞え」というのは、かたつむりがゆっくりと歩く様を「舞」ととらえているらしい。

だからこの歌は

歩け 舞え かたつむり
舞わないなら
馬の子や牛の子に蹴させよう
踏みつぶさせよう。
本当に美しく舞ったならば
花の園で遊ばせてあげよう

という意味なんだろう。

かたつむりの事をマイマイという。
アフリカマイマイなんていう馬鹿でかいかたつむりもいる。
どうもこのマイマイという、かたつむりの別称はここからきているらしい。

かたつむりの事をでんでん虫ともいうが、元々は「出出虫(ででむし)」が変化したらしい。
出出とは「いでよ」の意味との事。
角出せ 槍出せ 目玉出せ♪ということだろう。

本日は折りたたみ自転車の整備。
俺の自転車の後部に籠を付け、純子の自転車の荷台にも籠を付ける。
純子の自転車にはライトと鍵が付いていなかったのでそれも取り付けた。
何れもダイソーだ。
自転車屋でLEDライトを買うと2000円以上はする。
それが100円で済むのだから「まずは百均」だ。

俺の自転車は大分前に買ったのだが純子のは先週の土曜に買った。
何故かというと純子は俺の自転車のような一文字のハンドルには怖くて乗れないらしい。
それであきらめていたのだがたまたまジョイフルに行ったらママチャリ風の姿勢で乗れる折りたたみ自転車が9980円で売っていた。

またがってみると違和感が無いというので買うことにした。
本当はアルミ製が欲しかったのだが贅沢は言っていられない。
色も気に入らなかったが、これも我慢することにする。

重さを気にしたのはサイクルキャリアに自転車を載せる時に一メートルくらい持ち上げなければならず、普通のママチャリなんかを載せるのは結構大変なのだ。

空間も多く取り、折りたたみ自転車の様なコンパクトなサイズでなければ乗せるのに一苦労するだろうと思った。
それでアルミフレームの折りたたみ自転車を探していたのだ。

アルミフレームではないが純子の自転車もそれなりに軽量で、2〜3分で二台積み込むことが出来た。
それで以前から「自転車で走ったら気持ち良いだろうな」と思っていた「ほしみ緑地」に試運転を兼ねて行く。

歩くと結構な時間がかかるが、自転車だと大した広さではない。
やっぱり自転車は便利だ。
バードウォッチングをしている老人がいる。
どんな鳥がいるのか尋ねる。

こういう事は車では出来ない。
早く移動すればするほど周囲の人との関係は希薄になる。
しかし歩くだけでは多くの物を見ることが出来ない。
自転車というのはより広い場所を歩き回り、多くの人と接触を持てる丁度良い速度の乗り物なのだ。

ましてや不案内な町でキャンピングカーで歩き回っても、窓外の景色を見るだけになってしまう。
それであれば車を駐車場や道の駅に置いて、自転車でのんびりと巡るほうがその町を深く探索する事が出来るだろう。
そう考えて買う時にサイクルキャリアだけは追加して貰った。


2013/06/04 02:43:01 すが

遊びをせんとや生まれけむ。

祭りの片付けが終わる。
最近はもう人の入りを気にする事も無くなってきたが、それでも売り上げは10万を超えた。
皆さん気合いを入れて飲んでくれて有り難う。
今年は8月に放浪の旅に出るので、野外は出来ません。

平安時代末期に白河上皇が編纂した「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の今様(当時の流行歌)、後に続くのは

戯れせんとや生れけむ
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ揺るがるれ

意は

人は遊ぶために生まれてきたのだろうか
戯れる為に生まれてきたのだろうか
遊ぶ子供達の声を聞くと
我が身もつられて揺れ動き出す

人生の折り返し点を曲がると子供に戻ってゆく。
要らない物をどんどん捨ててゆき最後は生まれた時と同様、裸で死ぬ準備をしてゆかなければならない。
そのような準備の時間を持てたというのは幸せな事だ。

http://www.youtube.com/embed/g-8tlCijZ2Q?feature=player_detailpage


2013/05/11 02:39:57 すが

口は災いの、、、

純子と知り合って結婚したのは純子が40代の半ばだったのだが、数年後のある日

「ねえあんた、最近私歳を取ったように思うんだけどどう見える?」

と訊いてきた。

正直者の俺は

「知り合った頃からいい歳だったから大して変わらないと思うけど」

と答えたら、その答えがお気に召さなかったようで

「そうだよねえ!最初っから婆だったものねええぇ」

と皮肉っぽく言われ、それ以来事あるごとに

「最初から歳とっていたからねえ」

と嫌みを言われ

「女は昔のことを何時までも根に持っているから気を付けないと」

と思っていた。

すると先日洗面を終えた純子が俺に向かって歩きながら

「すがちゃん、ちょっといい?」

と言う。

その口調が俺の無意識に潜む過去の記憶に感応し「これは災いをもたらす凶兆である」と危険信号を発したので呼吸を整えて身構えた。

パソコンの椅子に座っている俺の顔の前に顔を近づけ

「ねえ、最近私目尻が下がってきていないかい?」

と言うので

「やっぱりそれか。そりゃ歳取れば顔の筋肉も緩むから目尻も垂れるだろうけど仕方ないのになあ。一緒に歳取っているんだから別に問題無かろうが、やっぱり女は何時までも若くありたいんだろうなあ。しかし昔の失敗もあるし、この場をどうやり過ごせば良いのだろう」

とスーパーコンピューター「京」の何万倍もの速度で計算し、出た結果が

「曖昧に誤魔化せ」

という事だったので

「うーん、、、そんなことも無いんじゃない?」

と答えたのだが、やはり正直者なので一瞬眼を反らせたか、逆に不自然に眼力が入ってしまったのか、純子は身体を起こしてSM女王のごとく見下ろし、鼻から声を出すようにして

「ふうぅん、、そうだろうね、昔から歳取ってたから大して変わらないよねえ」

、、、、感づかれてしまった様だ。

これは死ぬまで言われるな (^^;)


2013/04/18 01:54:50 すが

街の風景

街を走っているとこちらから見ると普通の建物だが、側面から見ると斧の刃を正面から見ているような建物を見かける。

いくつもの道が合流する交差点付近にはこのような三角形の土地が出来、普通は家も建てられず空き地になっていることが多いのだが、そのような土地に無理矢理家を建ててしまうとこのような裏に回ると舞台のセット、或いは正面から見ると立派な服を着ているが、後ろから見るとケツ丸出しのびんぼっちゃまみたいな建物が出来上がってしまうのだろうか。

正面から壁に寄りかかるとそのまま後ろに倒れてしまいそうだが、こういった建物に住んでいる人達に何らかの精神的肉体的悪影響と云うものは無いのであろうか。
最近どうも神経がとげとげしくなってきたとか、身体が薄くなってきて風が吹くと凧のように飛ばされそうになるとか、鼻が尖り出っ歯が悪化してラッセル車の先端の様な顔になってきたといった事は起こらない物だろうか。

書類を急いで運ぼうとしたOLが足を滑らしたら尖ったコーナーに食い込んでしまい、みんなで引っ張っても抜けてこないから大ハンマーで建物を叩き、鉋の台を叩いて刃を抜くようにしてようやく引き抜いた等と云う事故は起こらないのだろうか。

車で街を走っていると様々な発見がある。
二階建ての建物で一階がラーメン専門店、二階がジンギスカン専門店の看板が掲げられているのに二階に上がる外階段もなく、どう見ても二階に行くには一階のラーメン屋を「ちょいとごめんなさいよ」と階段を上るしか無く、そうであるのなら経営者は同じと考えるのが自然で「一体どっちが本業なんだよ」と突っ込まざるを得ない。

小樽の花園の辺りを昼間走っていると、やることがない年寄りが暇に飽かせて墨を摩り続けて作った墨汁に浸した様なお帽子を被った男が歩いていた。
純子に

くっきりはっきり鮮やかな帽子だね

と言うと

あれは安物の海苔じゃないね。山本山の海苔を貼り付けているね

と言う。

街の中には面白いことが転がっている。
そういう物を見つけようとする眼で見ていれば、面白い物は見えてくる。

本日は駐車場の車路の陥没を砂利で修理。
ベランダの柵の腐食部分を修理。


/02/02 00:25:03 すが

ミイラ

みんなが風邪でダウンしてしまい、急遽夜勤に駆り出された純子を迎えに行くと顔が白い。
どうしたのか聞くと、仕事に行くまでは何ともなかったのだが夜の8時頃から胃がむかつき始めたと言う。
ミイラ取りがミイラになってしまった。
一体ここはどうなっているのだろう。

純子の施設では風邪のばい菌が食堂で足を組んで椅子に座り、偉そうにタバコをくゆらせながらテレビを見てくつろいだりしていて、時々自分の仕事を思い出し、婆さん達の部屋を尋ねて風邪菌をうつそうとしているのではないか?

しかし、そもそも婆さん達は自然界の弱肉強食の世界を生き残って来た訳であり、自然界の非情な篩にしがみついて振り落とされず生き残ってこうやって惚けるまで生き、家族に余されて施設にいるくらいなのだ。
風邪小僧ごときは鼻っから相手にして貰えないのだ。

意気消沈したばい菌は食堂の椅子にへたり込み、ぜいぜいと息をするのだが、気を取り直し相手してくれそうな若い連中を捜す。
するとそこに若い頃の体重に戻り「あらごめんなさい、贅肉って何なんざます?」と言う、痩せて体力の弱った純子がいた。
取り憑かれた純子は苦しんでいたが、随分と眠り続け大分良くなって来たらしい。


2013/01/14 00:06:28 すが

ハラキリ

アメリカの独立戦争時の映画を見たら、片方が銃撃する時にはもう片方はただ立っているだけ、撃たれる奴は撃たれ、次は反対側の攻撃の番となるというシーンが有ったが、本当にあんな馬鹿な事をやっていたのだろうか。
あれじゃ射手と的を交互に繰り返しているだけじゃないか。

蒙古が攻め入ってきた頃の日本の戦は「やあやあ我こそは何処の誰べえ」と名乗りあってから戦っていたのだが、蒙古軍に対しても同じ事をやったら船上の蒙古兵達が大笑いしたという。

日露戦争の旅順要塞の攻撃では日露双方の兵隊の死骸を片付ける為に、一時的に戦闘を休止する時間を取ったらしい。
しかし太平洋戦争ではそんな悠長な事はやっていない。
日露戦争は武士と騎士が居た頃の最後の戦争だ。

乃木将軍とステッセルの水師営での会見後の写真は、戦いが終わってノーサイドとなった記念写真のようだ。
のどかな戦の時代だ。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」では乃木将軍を、悪戯に突撃を繰り返し日本兵の死骸の山を作る無能な指揮官の様に描かれているが、旅順要塞の内部構造を見れば何十にも防衛戦が張られた蟻地獄に似て、空から爆撃出来ない時代にこんな物を攻略できたのが不思議なくらいだ。

司馬遼太郎は「殉職」で明治天皇崩御の後、妻と共に自害した乃木希典を描いたが、これは乃木に対するお詫びだったのかな。

乃木希典は腹を十文字に切る割腹自殺をしている。
介錯人が居ないため膝で刀の柄を挟み、身を投じて頸動脈を切ってそのままうつぶせになって絶命する。

素晴らしきヒコーキ野郎」という映画があって、飛行機の草創期ロンドンとパリの間で世界各国のヒコーキ野郎どもが早さを競うという映画なのだが、日本からは石原裕次郎演ずる山本というヒコーキ野郎が参加することになる。

ところが飛行機に細工をされて不時着するのだが、身体にワイヤーがからみついて脱出できない。
救助に来た男に「ナイフはないか?」と言うと「腹を切るのか?」と聞かれるシーンがあった。
日本のサムライと言えば「ハラキリ」というイメージが浮かぶらしい。

「ハラキリ」が欧米に知られるようになったのは森鴎外の小説でも書かれた「堺事件」での切腹の強烈なイメージからで、日本人は名誉ある死というものに自分たちには理解できない価値観を持っていると思ったのだろう。

薄気味悪さを感じたと思う。
こいつ等は本気で怒らせたら何をするか分からないという。
彼らの死はそれだけでも無駄では無かったと思う。

武士の切腹の始まりは鎮西八郎為朝、源義経の叔父さんだ。
第一回の野外の時のポスターで拝借した歌川国芳の「讃岐院眷属をして為朝をすくふの図」のあの為朝だ。
あれは曲亭馬琴の「椿説弓張月」の1シーンだ。

保元の乱の後伊豆大島に流されたが、そこでも暴れて追討され追い詰められて腹を切った。
「敵に捕らえられ生き恥を晒すくらいなら」という事なのだろう。
切腹が武士の名誉ある死ということになったのは戦国末期かららしい。

しかし切腹の場になっても往生際悪く暴れる奴も居たらしく、柄を外した刀身だけで切腹させるようになったらしい。
人間らしくて良いわ。
誰も痛い思いして死にたくないものね。
最後は腹を切る真似だけで斬首して居たらしい。

一番最近のハラキリというと三島由紀夫かな。
まあこれは三島美学を自分で演出、主演したんだろうけれど。

なんだか竹島だか従軍慰安婦問題に抗議するとカッターナイフでちょこっと腹を刺した南朝鮮人も最近居たみたいだが、本当に死ぬ気があるのなら我が家のものすごく切れる出刃包丁を貸してやるよ。


2012/12/17 16:44:42 すが

大山 巌

民主党選挙前の予測最低ライン70議席にも届かないとは見事に玉砕だな。

金も無いのにあれもやる、これもやると言って結局何一つ出来ず、辺野古移設でまとまっていた物をごしゃごしゃにして、原発では現場にしゃしゃり出て被害を大きくして、尖閣では押せば引き下がると誤ったメッセージを与えロシアや韓国につけいる隙を与える。

マニフェストに掲げられていない外国人参政権や人権保護法案を通そうと企み、一体お前達の言う国民というのは何処の国の国民なんだ?と怒り心頭だったが、国を売り渡される寸前でかろうじて踏みとどまった。

鳩も菅も酷かったが、鳩はあまりのアホさ加減に笑ってしまうところが有ったが、菅は自分が利巧だと思ってる分始末が悪かった。
自分が馬鹿だと自覚している馬鹿と、自分は利巧だと思っている馬鹿を比べれば前者の方が遥かに利巧だ。

大体指揮官が最前線に行ってはいけない。大局を見誤る。
こういうタイプは自分以外は馬鹿ばっかりだと思っているから人任せに出来ないのだろう。
イラ菅などと言われるのも、自分ほど出来る人間はいないと思ってるから周りの人間のやることにいらだつのだろう。
大山巌の爪の垢でも煎じて飲みやがれ。

日露戦争当時満州軍司令官であった大山巌は、司令室から緊迫した怒号が飛び交っているのを聞いた。
秋山好古少将率いる騎兵第一旅団が、ロシア軍に包囲されたという報告が司令室に飛び込んできたからだ。

秋山旅団が崩れれば、全軍が分断される。
司令部に戦慄が走った。情報が錯綜し参謀次長の児玉源太郎の怒声が響き渡る。

このとき大山は自分が指揮を執らなければならないかと一瞬考えたが、尊敬する従兄弟の亡き西郷隆盛だったらこういうときどうしたろうと考え、わざわざ寝間着に着替えてドアを開け、とぼけた調子で、

「はぁー、なんじゃ、にぎやかじゃのぉ。さっきから、大砲の音がしちょりますが、今日はどこぞでいくさでもやってござるのか?」

と言う。

するとあまりの暢気さに司令部の全員が笑いだす。
それで冷静さを取り戻し的確な指示をすることになる。

大山巌は自分自身維新戦争を戦ってきて、大砲の設計もする優秀な軍人なのだが、現場は切れ者の児玉源太郎に全て任せて、責任は一切自分が取るというスタイルに徹した。
時として馬鹿の振りもする。

とても温厚な人で他人の悪口は言わない、人を区別しない、金や名誉にも関心が無かったようだ。
奥さんの捨松さんは津田塾大学の設立者、津田梅子等と共にアメリカに留学しアメリカの大学を卒業している。

背が高く美人の誉れ高かったのだが、元は会津藩の家老の娘だ。
奇しくも大山が砲兵隊長として会津城に雨霰と砲弾を撃ち込んだその城に籠城し、打ち込まれた不発弾に濡らした布団を被せて炸裂を防ぐという危険な作業をしていたのだ。

大山巌の一目惚れで後妻になったのだが、当然結婚に対しては捨松の家族の猛反対にあう。
しかし大山の熱意により家族も諦め、本人同士の意志に任せるということになるのだが、デートを重ねる内に大山の人柄に捨松も心を惹かれてゆく。


生涯夫婦仲はとても良く、捨松さんをとっても大事にしていた。
大山には連れ子がいたのだが、捨松もその子達をとても可愛がっていたようだ。

徳富蘆花の「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」という台詞で有名な「不如帰」のモデルは大山の連れ子の長女信子で20歳で結核で死ぬのだが、小説を面白くするために継母が冷酷非情な人間に描かれていて、捨松さんがそういう人だと思われて迷惑したらしい。

太平洋戦争が終結し軍人の銅像は皆撤去されたのだが、大山巌の像だけは残された。
マッカーサーが大山巌を尊敬していたからだ。
自室には大山巌の写真が飾られていたという。

そういえば親父も巌という名前だったが、もしかすると大山巌から貰ったのかも知れない。
親父の親父は陸軍の軍人だったからそういう可能性は有るかも。

 

2012/11/02 17:58:31 すが

ネジ求む

キャンピングカーのエントランスの鍵とブラックタンク(トイレのタンク)の扉のスペアキーが必要なので、キャンピングカーのパーツを販売している会社に問い合わせたのだが、エントランスキーはアメリカ製で同じ物手に入らず。
ブラックタンクのキーはシリンダーごと交換との事なので、諦めて鍵の救急車に行って合い鍵を作ってもらうことにする。

何せ特殊なキーだから、ホームセンターなどでは絶対作れないと思ったのだ。
ここはブランクキーの数と種類が桁外れだ。
現車を持って行ったら見事に合わせてくれました。
さすが鍵の110番だなあ。

それからネジを探しに行く。
エントランスの錠前のネジが欠落しているのだが、アメリカ製なのでインチのネジなのだ。
ミリで言うと直径4.5ミリ位なのだが、何処に行っても小さなインチネジなど置いていない。

水道管の配管のねじ山とか、航空機のネジなんかはインチだろう。
日本はミリだがヨーロッパはミリとインチが混然としているらしい。
メートル法は18世紀の後半にフランスで単位制度の統一の為に作られた。

地球の北極点から赤道までの距離の1000万分の1を1メートルとしたのだが、元々長さを測るのは人間の身体の一部を利用していたので、無理矢理作ったメートル法ってのは感覚に合っていないのかも知れない。

メートル法を使っていないのは世界で三カ国あり、アメリカはその一つだ。
他は聞いても「そんな国あるの?」というような国だ。
アメリカの惑星探査機が宇宙空間であさっての方向に飛んで行方知れずとなったことがあったが、これはマイルとメーターを間違ってコンピューターに打ち込んだ為だった。

それはともかく俺のキャンピングカーのエントランスのインチネジだ。
インチネジを求めて俺もネットを調べたさ。
帝国製鋲株式会社のHPの「ネジの歴史」に行き当たった。
いかにしてネジというものが発明されたかというと、、

以下引用

ある晴れた日に、浜辺で貝掘りをしていた原始人がたまたま尖った巻貝を見つけてそれを葦の棒切れに突き刺し、“回転して”外した・・・。これが人類と“ねじ”との最初のかかわりであったとされています(1987年6月22日、ストックホルムで開催されたISO/TC1第13回本会議における記念講演“ねじの技術史”の要旨から抜粋)。


http://www.tokaibuhin.co.jp/culture_history.html

ともっともらしい事を言っているのだが、いったい誰がその原始人が巻き貝を回して引き抜いてる現場を見たんだ?
その原始人の名前は?家族構成は?何故そんな所で葦に巻き貝突っ込んで遊んでたんだい?大体その日が晴れだったと何故分かったんだい?と思わずつっこみを入れざるを得ない話だ。

俺が思うにそのストックホルムの会議で

「どうも最近ネジが売れないんだが、何かこう世間の耳目を惹き付けるようなネジに関する話題は無いものかねえ。」

と議長が言うと

「そうですねえ、ネジは縁の下の力持ちで、無ければ機械なんて作れないんですが地味な存在で、朝から晩までひたすらネジの事を思い続け『ネジ命』なんて二の腕に彫り物している偏執狂なんて居ませんし、居たとしても近づきたくありませんからねえ。」

と誰かが言う。

するともう一人が

「ネジって最初に誰が発明したんだろうね。釘なんかは木と釘の摩擦力だけで抜けない訳だが、螺旋に溝を刻んだネジだと垂直に引き抜こうったって構造的に抜けやしない。
回して抜くしか無いわけだ。
自然界にある物でネジに似たものがあるかなあ。」

と言い、みんなで頭をかしげて考えていると、一人の頭上に明るく輝く電球が出現し

「そうだ、巻き貝がネジに似ているじゃないか。その巻き貝を暇をもてあました男が葦に突き刺した。引っこ抜こうとしたら山が引っかかって抜けない。
それで色々やっている内に偶々回したら抜けてきた。それは大昔のある浜辺の出来事で、そんな暇つぶしをやってるくらいだから天気は晴れと、、、まあこんな風な起源であれば面白いんじゃないかな。」

と言うと

「おお!それ良い。ドラマがある。」

ということになってISO/TC1第13回本会議で満場一致で起源がねつ造されたのだろう。

それはともかく何とかそれらしいインチネジを買い求め取り付けたのだが、どうも微妙に合っていない。
強く締めるとねじ山がつぶれる。
誰かインチネジ扱ってる店知らない?

2012/10/28 11:56:03 すが

群れる

ある女性が社会人になり、会社に電車や地下鉄を乗り継いだりしながら通勤を始めた。
満員電車が駅に着き、ドアが開くとみんなが一斉に走り出す。
乗り継ぎの電車の発車まで時間が無いからだ。

彼女も一緒に走り出す。
彼女は学生時代足が速いのが自慢だっただけあって、たちまち群れの先頭を走り改札口を抜ける。
そんな事を会社に勤めていた何年間か、休日以外は毎朝やっていた。

今彼女は結婚して会社を辞めその頃のことを振り返り、何故あんな事をしていたのだろうと不思議に思う。
何故なら彼女の乗ろうとしている電車は彼らの電車とは違い、待ち時間に余裕があり、走る必要なんかは無かったのだ。

こんな事は人生でもありそうだ。
みんなが走っているので、走らなければ取り残されそうな不安感や恐怖感を覚え、訳も分からず走ってしまう。

港の岸壁から海を覗き込むと小魚の群れが塊のように泳いでいる。
まるで一頭の大きな生き物のようだ。
先頭の魚が向きを変えると後続の魚も次々と後を追う。
塊の形は丸から長ひょろく変形したりするが、およそ一つの塊であることには変わりがない。

小魚が群れて泳ぐのはおそらく身を守る為だろう。
大きな魚に狙われても食われるのは最初の数匹で、その数匹の中に自分は入らないだろうという楽天的計算が働いているのでは無いだろうか。
集団に紛れていることは本能的に安心なのだろう。

人間社会も似たような物だ。
人も色々な群れを作る。
学校、会社、軍隊、宗教団体、政治団体、趣味のサークル等々。
組織の中の一部であることで精神的安定を得ようとする。
そういった組織を飛び出すのには勇気が要る。

定年などという物は会社という大きな組織から飛び出し、もっと小さな組織、例えば趣味の世界とか、最小単位である家庭という組織に組み込まれる事なのだ。
家族が居るということはそれだけで心が安らぐ。
だから奥さんに先立たれた人が切実に家庭を持ちたいと思うのは自然な事だと思うなあ。


2012/10/10 00:27:24 すが

平安の光

先日の初山別星見ツアーで館員が見せてくれた星団だったか星雲だったかが1060光年彼方にあり、今見ている星の姿は1060年前の光であると語っていた。
1060年前というと平安時代だなあ、「蜻蛉日記」って何時だったろうと思って図書館で借りてきた。

「蜻蛉日記」は天暦八年(954年)の出来事から書かれているから、まさにこの日記に書かれている出来事が起こった頃に発した光が今届いたわけだ。
高校時代古文が嫌いで赤点を取ったことがあるが、卒業後この「蜻蛉日記」を読んで1000年近く前の人が身近に感じられて、何故学校の授業は面白い物もつまらなくしてしまうのだろうと思った。

集英社から出ている生方たつゑさんの現代語訳「蜻蛉日記/和泉式部日記」は、昔読んだ物よりもっとくだけた語り口で書かれていて、より一層登場人物に親近感を感じる。

道綱の母は当時の3大美人の一人で才色兼備、、プレイボーイの藤原兼家に見初められ、モーレツなアタックに初めは嫌々ながらも結局2番目の妻となる。
この頃は一夫多妻の時代だから、道徳的に責められる謂われは無い。

当時は妻問婚(つまどいこん)で最初の頃は兼家も足繁く訪れたが、そこはプレイボーイの兼家の事、すぐに次の女を追いかけ始める。
そこから道綱の母の悶々とした日々が始まる。

嫉妬し、憎み、恨み、相手の女が兼家に捨てられるとほくそ笑む。
兼家に対しても嫌みを言ってみたり、すねてみたり、意地悪をしたりする。
兼家の足は益々遠のいて負のスパイラル。

最初はあんなにつっけんどんにしていたのに、肉体関係が出来ると兼家以外の事が眼に入らないというのはあまりにおぼこよのう、と現代に住む俺は思う。

当時の貴族の結婚は本人達だけの縁組みではない。
藤原の血筋とはいえ作者の父の地位は低い。
玉の輿に乗った兼家との結婚は家の為でもある。

兼家は遊び人ではあるが、仕事も出来るらしくどんどん出世してゆく。
日記は作者の視点で書かれているが公平に見て、兼家って遊びも仕事も出来るだけあってユーモアもあるし、優しさも、男らしい決断力も持ち合わせている。
付き合って嫌なやつでは無いと思う。

道綱の母も現代に生きていれば遊び人の夫なんか放っておいて自分も愛人を持つとか、趣味のサークルに入るとか、気晴らしの方法は色々あったと思う。
最悪別れて慰謝料取って自立する事も出来る。

当時の貴族社会の女って捕らえられた籠の鳥で、飼い主の関心は既に別の鳥に向かっているのに野に放たれることもない。
容色は衰え、再び寵愛を得ることもなく、一生を籠の中でぞんざいな扱いで過ごさなければならない。

そういう将来が見えてくるので子供を頼りに思うが、正妻は子宝に恵まれ将来に不安がないのに自分の子は道綱一人。
兼家が別の女に産ませた子供を養女にするが、その母親の家が貧しい為に子を手放す切々たる心情を綴った手紙に涙し、必ずこの子を幸せにすると誓う。

道綱の母は本来とても愛情深く知性もある人なのだが、この時代の貴族社会で生きていると自分の中のいやらしい面ばかり出てきて、本来の自分ではない、いやらしい自分に自己嫌悪に陥っていたのだろう。


平安時代の後期に作られた「堤中納言物語」の中の「虫愛ずる姫君」は眉毛も剃らずお歯黒もせず、顔真っ黒、歯真っ白にして野山に虫を追いかけ、掌に毛虫を乗せて飽きもせずながめ、そしる人あれば「あら、知らないの?毛虫は蝶や蛾になるのよ。物事の表面だけ眺めていてはいけないわ。」と気にもかけない。
今なら女性動物学者として生きてゆくことが出来るだろうが、当時の貴族社会のしきたりの中、その後どうなったのだろうか。

子供を持った女性が一人で生きてゆくのは現在でも大変だ。
平安時代に比べれば遥かに現代の方が生きやすいとは思うが。
男よりも才能を持った女は過去にも沢山いたのだろうが、その才能が発揮されることもなく埋もれていった者は数知れず居ただろう。

2012/09/18 15:06:11 すが

みんなの敬老会

純子の施設の敬老会で職員がマツケンサンバ2を踊ることになった。
本当は昨年披露する予定だったのが、難しくて踊れないということで取りやめになったのだ。
マツケンサンバ2の振り付け師は間島茂樹さんなのだが、このダンスのステップ急に踏めっていっても無理だと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=Uz22EMV2gXE

それが急にやることになったのは職員のMちゃんのお母さんが簡単なステップにして踊りを披露したというので、それをDVDに焼いて送って貰ったのだ。
それを焼き増しし、それぞれに配って各自家で個人練習。
集合練習は前日一回のみという、殆どぶっつけ本番状態で踊ったのだ。

みんなそれぞれ金太郎とか猿とかウサギの着ぐるみを着て、残暑の中、冷房のない広間で2回も踊ったのだから汗だらだら。
純子は猿に扮したのだが、もう一人の猿の人と

「猿で良かったねえ。金太郎とかウサギなんて暑くて大変だったよ。」

と胸をなで下ろしたという。

そんな努力もあって踊りの完成度はともかく、大受けだったから成功したんじゃないかな。

http://www.youtube.com/watch?v=WNSA7lgA5_I

2012/09/09 10:16:43 すが

贅沢しましょ

北杜夫の短編の中にこんな話がある。
ある浮浪者のごとき身なりの老人があばら屋で目覚め、土間に置いた七輪でサンマを焼く。
脂がしたたり落ち、もうもうと煙が立ち上る。
湯気の立ち上る炊きたてのご飯と、焼き上がったサンマで朝食を摂る。

しかしこのバラックのごとき4畳半の部屋は宇宙船の中に設えられた一室で、老人は実は大富豪で、この惑星間宇宙船も彼がオーナーなのだ。
彼は趣味でこんな生活をしており、美味しい食事を済ますと翌日のメニューを操縦士に伝える。
宇宙船内に空調設備はあるとはいえ、焼いた魚の匂いが立ちこめる。
そんな迷惑顧みず、次の食事のくさやの干物を注文して又眠り込む。
贅沢とはこういう事を云う。

不幸せの形は似通っているが、幸福の形は人それぞれだ。
昔南伸介の「てんぷく笑劇場」という番組の中に「減点パパ」というトークコーナーがあった。
南伸介が子供の話を聞きながらお父さんの想像図を描いて、完成するとお父さんの登場となる。
大体似ているのは事前の打ち合わせがあるからなのだろう。

その中で巡査の子供が出てきて

「お父さんは公園で浮浪者がベンチで寝ているのを見ると、うらやましいなあと思うそうです。」

と言っていた。
その気持ち分からないでもない。
自分が絶対に出来ないことに憧れる気持ち。

仕事をしていると出来ないことが沢山ある。
手枷足枷をはめられていて自由に動くことが出来ないのだが、仕方ないことだと思って生きてゆくしかない。

昨日遺言書を書いた。
肉親が次々と亡くなって行くのを見て、死を意識して生きてゆかなければと思ったのだ。
より良く生きるために死への準備をするのだ。

純子は今までほとんど旅行をしたことがない。
だからその分を取り戻してあげたい。
思い切ってキャンピングカーを買ったのはそのためだ。
俺にとっての贅沢があちこちを見て歩くことで、車はそのための道具だ。

歳を取るって良いことだ。


2012/07/29 23:21:03 すが

婆さんを送る

7月28日8時半、夜勤明けの純子を迎えに行こうと思ったら電話がかかってきた。
婆さんの病院からで婆さんが危篤ですぐ来て欲しいという。
「とうとう来たか。」と思う。

病院に着いて病室に案内されると、婆さんは酸素マスクをしており、ベッド脇の機械を見ると既に心拍が無かった。
未明に危篤になったらしいが、その時既に亡くなっていたのだろう。
夜中に家族を呼んでも仕方がないという事で、適当な時間を見計らって電話をくれたらしい。
何時亡くなってもおかしくない状態であったから、病院の心遣いに感謝をする。

葬儀は何時も慌ただしい。
死ぬ予定なんて分からないから当たり前だ。
すぐに妹の葬式をやって貰った人に連絡をする。
葬式なんて滅多に無いから専門家に教えを請うしかない。
この人には妹の時にも本当にお世話になった。

婆さん末っ子で兄弟なんかみんな死んでいないから、本当に内輪だけの葬儀になる。
我が家で葬式をあげた。
真夏日であるから死体の処理を早くしなければならない。
誠に死体という物は厄介だ。

それから夜勤明けの純子と二人、葬式の準備に大わらわ。
丁度土曜日で金融機関が休みであり、大きな現金が必要なのだが窓口が開いていない。
なんとかカードで現金を用意する。
ATMを使っていると葬儀屋さんから電話があり、婆さんの遺影用の写真を選んでおいてくれと言うので純子に連絡した。

純子は以前よりこんな日のために写真を用意していたのだが、肝心な時に何処にしまったか分からなくなってしまって、適当な写真を写真屋さんに渡した。
それは5年ほど前、まだ病院ではなく老健に入所していた頃の写真で、普段着なものだから写真屋さんが合成して着物姿に仕上げてくれた。

成る程見事に和服を着ているのだが、顔が間伸びしていてカピバラが着物を着ている様に見える。

「これでどうですか?」

と写真屋が言うが、今更どうでも良いので

「とても良いです。有り難うございます。」

と言っておいた。

自分の死後の評判を気にする人は、あらかじめ良く写った写真を用意しておいた方がよい。
北海道ミュージックスクールのJUN君のお母さんのさきさんはたしか俺と同い年だと思ったが

「ちょっと前の写真です。」

と言って数十年前の写真をブログに載せたところ、たちまちメル友申請が5人あったと言っていた。

確かに昔モデルをやっていただけあって美人だったが、80歳にも90歳にもなって亡くなった婆さんが18歳くらいの写真を遺影にするのは反則だと思うが、家族の記憶の中で一番印象深い頃の写真を遺影に使うのは良いんじゃないかな。
まあ本人の遺言で18歳の写真を使いたいと言うのなら仕方がないが。

まあ、慌ただしかったが葬式を終え一安心したのだが、遺骨を骨壺に入れながら思っていたのは次は自分の順番だなということ。
明日香の子供は納骨室で泣きわめいていたが、新しい命が生まれてくれば古い命は去りゆくのが自然の定め。

先月婆さんが一瞬正気を取り戻したような事があったのを話したけれど、ピッピが初めて卵を産んだ前の日、純子は夕方飲みに行ったのだけれど、俺がパソコンをいじっている時に玄関ドアが開く音がして、随分早いけど純子が帰ってきたんだと思った。

ところが居間のドアが何時までも開かないので、トイレに行ったんだなと思った。
でも何時までも入ってこない。
ああ、ドアが開いたのは気のせいだと思ったのだが、そのうち背後に人の気配を感じる。
何度も振り返ったけれど当然誰もいない。
ピッピが騒ぎ始めたのはその頃だったんだけど、それが初めての産卵で不安に駆られたのだったからだろうかと今は疑問に思っている。

純子が帰ってきてピッピの件とおかしな気配について話して、怖くも何ともないから誰か身近な人が連絡しようとしているのかなと話したのだけど、誰なのか思い浮かばなかった。
あれは婆さんの生き霊だったのかも知れない。


2012/07/16 08:23:30 すが

ジーンズ

陸遊びに来る。
明日香が連れてきたのだ。
当然だけど。
生後一月半、顔がはっきりして来て旦那によく似ている。

明日香が抱いていると大きなおならをした。
出ていなかったウンコが出た。
ミルクしか飲んでない赤ちゃんのウンコは臭くない。

純子のジーンズが擦り切れて穴が開いたのでユニクロに行く。
仕事を始めてから痩せてきたので、もっとサイズが小さい物でないとぶかぶかになってしまう。

最近のユニクロのジーンズってジーンズと言えるのかなあ。
薄っぺらくてやたら伸びる。
材質も本当にデニムなんだろうか。
我々の考えるジーンズの布地って厚手でごわごわして、如何にも頑丈無骨な作業着ってイメージだったんだけど。

ジーンズは履く皮膚で、身体にぴったりしていて欲しいと思うんだけど、何かおしりの下辺りにすぐシワシワが出来てしまって「もんぺかい?」と思ってしまう。
結局一サイズ下の61センチじゃもんぺになってしまうので58.5センチの物にした。
純子は58が欲しかったらしい。

ジーンズって最初はキャンバス布地を使っていたらしいけど、その後フランスのニームで生まれた綾織り(サージ)生地「セルジュ・ドゥ・ニーム(serge de Nimes)」が使われるようになった。
DENIMEの名前はそれが起源らしい。

縦糸だけをインディゴで青く染め、横糸は無地のまま。縦糸を2本から3本横糸の上に、下に1本通して縫うために表はブルー、裏が白っぽくなる。
糸の太さによって布地の厚さが変わるが、一平方ヤード(0.84平米)で何オンスかで表現する。

ジーンズという名称はデニム生地がイタリアのジェノバから輸出されてされており、ジェノバの当時のフランス語のGeneからJeansになったらしい。
普通のジーンズは14オンスくらいだが、ファッション為のジーンズは11オンスとか12オンスらしい。
でもユニクロのジーンズはもっと軽そうだ。

しかも今調べてみたら綿100パーセントではなく、化学繊維も使われているようだ。
これはもうジーンズ風のパンツだろう。
この次は専門店で買うことにしよう。

「だめさ!私に頼みに来ないで黒木メイサなんか使うからこういう事になるんだよ。」

と純子が言ってました。
黒木メイサと純子と何処が違うと言うんだい。
目が一重か二重かと、鼻の高さと、体重と、足の長さと、、、、、

2012/07/05 12:50:24 すが

より良く生きるために死を考える

人生最後の食事は何が良いだろう。
今際の際で

「あんた、、、最後に何か食べたいものは無いのかい?!」

ときつく両手で手首を握られながら言われ

「く、、、苦しい。俺はもう死ぬのか、、、それだったら最後に『福助ラーメン』のチャーシュー麺と、『ヤナセ食堂』のカツカレーを食いたい。」

「わかったよあんた! 今、出前頼んだからね、、、それまでは持ちこたえるんだよ!」

と言われ頑張って持ちこたえていると

「へい、おまち〜 チャーシュー麺お持ちしました〜♪」

とチャーシュー麺が届けられ、これが今生の最後の食事だと美味しく戴いていると、カツカレーが配達され

「ラーメンも良いけど、やっぱりカレーよね。」

とカツカレーも平らげ

「やっぱり死ぬ前に牛丼が食いたい!!」

とわがままを言い、牛丼の配達は無いから誰かが買いに出かけ、それを食い終わっても

「やっぱり『ケンタッキーフライドチキン』と『めんよう亭』のジンギスカンも食べておかなきゃ死んでも死にきれない。」

と、爪楊枝でシーハシーハしつつ言うとさすがに逆上され

「はあ〜? 一体真面目に死ぬ気があるんかぁワレ? ん〜?!!!」

と胸ぐら捕まれ、河内弁で斜め下からあおり目で咎められる。
まあ死ぬ間際にこんなに食欲があるのなら回復してしまうだろう。

がんが全身に転移した知り合いが、もう手の施しようが無いというので故郷に帰り、親の運転する車の中で

「アイスクリームが食べたい。」

と言う。
コンビニでアイスクリームを買ってきて食べさせたら、眠るように死んでいったらしい。
昔から末期の水というが、どうも死ぬ時には喉が渇くらしい。

「ウンコがしたい」と言いながら死んでいった落語家はいるが、ホテルのフルコースの出前を頼んで死んでいった人は知らない。

最近の夫婦の話題は年金と、いかにして死ぬかだ。
物理的な死の他に色々な死がある。
今俺は61歳なのだが、身体が自由に動くのはあと10年と思っている。
70を超えて生きていたとしても身体が思うようにならず、やりたいことも出来ないのなら死んでるのも同然。

だからそれまでに思う存分人生を楽しんで、死ぬ時は葬式代だけ残しておけばいいやと思う。


2012/06/23 04:14:25 すが

まどろみつつ彼岸へ

婆さんの入院費を払いに行く。
どうせ何も分からず無駄なんだけど、婆さんの顔を見に病室に行く。

婆さんは今年95歳になる。
数年前に足を折ってから寝たきりで、食事も自力で摂る事が出来ず、鼻から管を通して流動食を直接胃に流し込んでいる。

見舞いに行って話しかけても反応しないのだが、時々ぶちぶち切れまくった脳のシナプスの接続が上手く行くのか、目を開けてうなづくような動作を見せることがある。
今日は話しかけると目を開け涙を流した。
そういう時「哀れだなあ」と感じる。

床ずれをしているらしく、壁には何時間かおきに身体の向きを変えるよう注意書きが貼られている。
もう婆さん話す事も出来ないから、自分から「こうして欲しい」と言うことが出来ない。

昔なら自分で食事を摂ることが出来なければ死ぬしかなかったのだ。
それが今ではこうやって生かすことが出来る。
「もう死にたい」と本人が思っていても無理矢理生かされる。

昔読んだSFで脳だけで生かされている人が居て、ものすごく苦痛を感じているのだけれど、表現し伝えることが出来ない。
その状態を永遠に続けなければならないという設定があった。
本当にそのような状態になった時脳は苦痛を感じないように痛みを麻痺させるとか、夢を見るとか、発狂するという防衛手段を取るのだと思う。

身体を持っている人間だって、苦痛を伝える事が出来ないのなら一瞬でも現実に戻らないで居る方が幸せなのでは無いだろうか。
もう婆さんの脳は萎縮して人間の状態では無いので、流した涙はウミガメが産卵する時に流す生理的な涙なのかも知れないが、自分の現状に気付いて悲しんで流した涙の様にも感じられ純子も涙を流していた。

純子は婆さんに明日香に子供が生まれ、婆さんに曾孫が一人増えたんだよと手をさすりながら話しかけていたが、婆さんの末娘が亡くなったことは話していない。
長生きしすぎると「知る必要が無い 知らない方が良い」事が多くなる。
出来ればうとうとと夢見つつ、三途の川の中州で遊びながら彼岸に渡って欲しい。


2012/06/19 16:25:12 すが

いずれは日本国ハワイ県

昔、仙台に居た時に社員旅行で気仙沼の沖にある大島の民宿に泊まった。
蛍を見たのはここが初めてだった。川の水が綺麗だったのだろう。
あれは平成2年くらいだったかな。

昼は大島の海水浴場で泳いだり、フォールディングカヤックで沖の島まで行って遊んだ。
夜は丁度花火大会が行われていて、浜辺に座って花火を見ていると隣に家族連れが居て、一人白人の3,4歳位の男の子が青い浴衣を着て花火を見ていた。

母親なのか、それとも知人の子を預かっていたのかは分からないが、女の人が母親らしき中年の人と話している会話が聞こえてきた。

「○○は(ジョンとかそういった名前)お爺さんに良く叱られてるけど、それでもお爺ちゃんに何時もくっついて居るんだよ。言葉が分からなくても、叱られても、お爺ちゃんが大好きみたい。」

奥さんの実家に子供を連れて里帰りしたのか、それとも外国の友人の家族が遊びにやってきたのかは分からない。
あの子も、もう立派に成人しているだろう。
2011年3月11日の震災のニュースを聞いた時、幼い頃海の彼方の異国の田舎で、浴衣を着せて貰って花火を見た夜の事を思い出したろうか。
そしてあの母と娘は無事だったのだろうか。

その時の旅行では岩手県のリアス式海岸に沿う国道も走った。
所々に看板が懸かっていて「海を守るために山に木を植えよう。」という内容の事が書かれていた。
実際、漁業に携わっている人たちが山に植林していたのだ。
ガードレールの下を覗き込むと崖になっていて、遙か下に人家が見える。
津波が来たらひとたまりもないなあと思った。


http://www.youtube.com/watch?v=eKp5cA2sM28


http://www.youtube.com/watch?v=ndEBCMUqcAk&feature=relmfu

この映像を見ると日本は常に爆弾が破裂しているようだ。
日本は太平洋プレート、フィリッピンプレート、北アメリカプレート、ユーラシアプレートがぶつかり合っているから、地震は多くなるわな。
プレートがわき上がってくるカルフォルニアからチリのイースター島まで連なる東太平洋海嶺でも地震は発生してるが、規模も頻度も沈み込む側の海溝やトラフの方が圧倒的に多い。

これは何故なのだろう。
地下から湧きだしたプレートをベルトコンベアーに例えると、始めは何も乗っていない状態で出てくるから抵抗が無いが、太平洋を移動してゆく途中でホットスポットで島やら海山を載せてゆく。
沈み込むときはそれが抵抗になり陸側のプレートをゆがめ、はじけて地震が起こるということなのだろうか。

最近の研究では、海山なんかは割れて海溝の中に沈み込んで行くみたいだよ。
海水が無い状態で見ることが出来たらすごい光景なのだろうな。
そんな時に起こる地震というのはどんな物なのだろう。

今、日本には天皇海山群というのが太平洋プレートに乗って押し寄せてきている。
元々こいつはハワイ諸島を作っているホットスポットで作られ、プレートの移動と共に海底に沈み込んでいったのだ。
太平洋プレートは始めは北に移動していたのだが、4000万年前にプレートの移動方向が変わって西方向になったため、海山の列がブーメランの様な「く」の字の形になってしまった。

4000万年より以前に作られた海山には1954年にアメリカ合衆国の海洋学者ロバート・シンクレア・ディーツにより、桓武だとか雄略といった古代の天皇の名がつけられて、そのために天皇海山群と呼ぶ。
何故アメリカの学者が?と思うが、東京大学に留学していたかららしい。

こいつの割と新しい海山と、ハワイに連なる海山が少しずつ日本列島に向かってきているから、海底に引きずり込まれなかった大きな海山なんかが日本列島に乗り上げ、日本は陸が広くなるのかも知れない。
今もハワイには日本人観光客が沢山いるが、いずれは日本人しか居なくなるかも知れない。
まあ、その頃には人類は生きていないか。

そうそう、海溝に沈み込んだプレートはコアまで落ちて融けてしまうと思っていないかい?
それは間違い。

「良い子のための地学教室」を見て頂戴。


http://www.geocities.jp/acorn10jp/plate.html


2012/06/14 18:11:34 すが

植木教

かめ吉がやたら足で頭を掻くので、目の上の羽毛が抜け落ちてしまいピンクの地肌が見えるようになった。
ネットで調べるとストレスや病気で抜けるらしいので心配していたが、又新しい産毛が生えてきた。単に抜け替わっただけだったようで一安心する。

純子を仕事に送ってゆく途中にペットショップがあって、天気の良い日は鷹やフクロウ、ミミズクなどがバリケードや丸太に留まっている。
それを見ると純子は

「ああ、今日はちゃんと働いているね。前なんか止まり木に留まっていなかったら店員の怖いお姉さんに『ちょっと!あんた達何やってるわけ?!』って叱られてたからね。
『あんた達が売れないと私達ボーナス出ないんだからね!餌代だって大したかかってるんだから、もっと首くるくる回して愛嬌振りまきなさい!』って言われてると思うよ。」

外で店の宣伝をしている鳥の中に白いフクロウが居る。
こいつは他の鳥に比べ少し小さいのだが、良く地べたに座り込んでいて営業活動をさぼっている。
この白フクロウは中国原産で

「やっぱり大陸育ちでのんびりしてるんだねえ。マイペースだもの。きっと後でお姉さんにこんこんと説教されるよ。」

と心配になる。

車のラジオを聴いていたら植木等の「地球温暖化進行曲」というのがかかっていて、「植木等は神だ。」と思う

http://www.youtube.com/watch?v=B4w0CEm1DNU

俺が密かに企てている「北海道南フランス化計画」のテーマソングにすることにした。

中学の時J君という同級生が居て、彼は音楽を良く分かっていたらしく、日本で紹介されたばかりのビートルズに夢中でレコードを集めていた。
俺たちは仲が良かったから良く彼のところに遊びに行っていた。
そんな中に歌手の佐々木幸夫も居たのだが、J君はビートルズの曲を良くかけてくれ、ビートルズの話をしてくれていたのだが、俺がその頃夢中になっていたのは植木等であった。

ああいうテキトーな大人になりたいと憧れていた。
改めてこの曲を聴くとやっぱり植木等は俺のアイドルだと思った。
尚テロップは「行進曲」になってますが「進行曲」なので。


2012/06/12 17:04:58 すが

龍馬と直行さんの関係

喉がいがらっぽくて咳がやたら出るから、「仕事で洗剤噴霧してる所為かな?マスクしてても駄目?」と思っていたら、どうもかめ吉の所為らしい。
オカメインコは皮膚が細かい粉になって剥落し空中を舞う。
喉が弱い人は人はそれを吸って気管支炎になることがあるらしい。
かといって家の中でマスクをしているのも大変だし、どうしたものか。

北海道のお菓子メーカー「六花亭」の包装紙のデザインは坂本直行さんの描いた物だ。
直行さんと云えば坂本龍馬の血縁であるが、どういう関係になっているのかと調べてみるとこういう関係らしい。

http://juku.netj.or.jp/kitanokuni/20100108_01.html

直行さんのおじいさんの坂本直寛が龍馬の甥に当たる。
直寛は龍馬の姉の千鶴の子供だったが、龍馬の兄の権平直方の養子になり、権平の孫娘の鶴井を嫁にしている。直道、直恵、直意(直井?)という3人の子供がいるが、後妻が二人いるので誰が誰の子なのか分からないが、直意の子供が坂本直行さんと云うことになるらしい。
だから直行さんは郷士坂本家8代目当主という事になる。

直寛と権平の娘の春猪はいとこ同士、春猪の娘である鶴井は姪に当たるわけだ。
今叔父と姪で結婚できたっけ?
昔は家筋を残さなければならなかったから、こういうのも当たり前だったのかも知れない。

月形の樺戸博物館には昨年行ったが、樺戸郡浦臼町の博物館は見逃してしまった。
町のホームページによれば「坂本龍馬ゆかりの品々を多数展示」とあるから、これは一度見に行かねば。

http://www.town.urausu.hokkaido.jp/gaido_map/shiryoukan2.html



2012/06/05 16:23:25 すが

西部劇が制作されない訳

我々が小学生の頃はテレビや映画で西部劇を良くやっていた。
例えばテレビで言うと覚えているだけでも「ララミー牧場」「ローハイド」「アニーよ銃を取れ」「シャイアン」「ブロンコ」「ライフルマン」「拳銃無宿」等といった題名が思い浮かぶ。

ところが今や新作の西部劇など皆無だ。
何故だろうと不思議に思って調べてみたら、現在のアメリカで西部劇など作れるわけがないと納得した。

西部劇にはインディアンとの戦いのシーンが必ずある。
そもそもアメリカ大陸はインディアンの土地であり、そこに白人が侵入してインディアンを追い払って国を作った。
インディアンから見れば、侵略され虐殺された歴史だ。

これらの西部劇が作られたのはおそらく1950年から1960年頃で、黒人の人種差別反対運動が起こり始めたのは1955年頃だ。
ビリーホリディの「奇妙な果実」の詩が作られたのは1930年頃なのだが、ああいった白人によるリンチ殺人ほどの事は無いにしろ、バスの車内には白人専用席があり、レストランや、プール、図書館など公共の施設で黒人と白人の席が別れていた。

1960年から「シット・イン」という黒人達の抗議運動が始まった。
白人専用のスペースに黒人達が座り込みを行ったのだ。
暗殺されたキング牧師などもそういった公民権活動家だった。
ケネディやジョンソン大統領の様な公民権法推進派によって公民権法が制定されたのは1964年7月。

錘が振れた時は真ん中を通り過ぎて反対まで振れる。
今度は過剰なまで差別に神経質になる。
例えば手塚治虫の「ジャングル大帝」なんかもアメリカで放映するにあたり、黒人の悪人は登場させない。黒人は美男美女に書いてくれと注文を受けている。

そこまでやらなくともと当時は思ったが、訴訟社会のアメリカで法律を盾に訴えられたら負ける可能性大いにありだと今は思う。
そんなわけで黒人もインディアンも白人と同等の権利を持つ様になったアメリカで、インディアンをバンバン撃ち殺す西部劇は放映出来ないよなあと納得。

しかし俺の子供の頃「シット・イン」とか「キング牧師」とか良くニュースで流れていたけれど、人種差別問題が少なくとも法律上解決したのはつい最近だということに驚く。


2012/05/30 23:20:29 すが

イド

朝起きると頭の中で曲が流れていることがあって、前日に聞いた歌であることもあれば、何で突然こんな曲が、、、と因果関係が分からない時もある。
おそらく無意識の中でその歌詞やメロディに共振する何かがあって、それが無意識と意識の境目のゴミ取り網に引っかかってぶらぶらしてたのが、何かの弾みで意識の方に転がってきたのだろう、

今日頭の中に鳴っていたのは

はーなつーむー のべーに ひはーおちてー

みーんなーでーかーたーをー くみーなーがーらー ♪

という曲で、何という曲だったか題名を思い出せないので調べてみたらこれだった。

http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-tarekakokyowoomowazaru.html

何が心の琴線に引っかかったのか分からん。

昔の映画に「禁断の惑星」と云うのがあって、その映画の中に「イドの怪物」というのが出てくる。
「井戸から出てくるのは貞子だべ」と思うのだが、この映画の中のイドは精神分析学で云う潜在意識のことだ。

惑星第4アルテアに移民した人々が正体不明の怪物に襲われてモービアス博士と彼の娘、そしてロボットのロビーだけが生き残る。
その正体不明の怪物というのは実はモービアス博士のイドが実体を成した物であったという話なのだが、人の行動は無意識に支配されている部分が大きいと思う。
何故そんなことをしてしまったのか自分でも説明できない時は「あっ、それはイドの怪物がやったことで。」と言い訳に使える。


2012/05/25 03:57:02 すが

お弁当箱の歌

「お弁当箱の歌」というのがあって歌詞の大部分をはしょって、さびの部分だけを取り出すと


これっくらいの おべんとばこに おにぎりおにぎりちょいとつめて

きざーみしょうがにごま振りかけて

にんじんさん さんしょうさん しいたけさん ごぼーさん

あなーのあいたれんこんさん すじーのとおったふーき♪

なにげに歌っていたが、よく歌詞を読んでみるとこんな弁当食いたくないなあ。

「肉は、、、、肉は何処へ行った? 魚は? ゆで卵は? タコのウィンナーソーセージは?」

車寅次郎なら

「ろーどーしゃしょくん。君たちの食事はまずしーぞー!」

と大声で叫んでいることだろう。

彩りからいってもせいぜいニンジンのオレンジが彩りを添えているとはいえ、昼飯を楽しみに蓋を開けてみたら黄土色。
おまけに蕗の煮付けの汁が浸みだしてご飯が青っぽい土気色に染まっている。

あー、やだやだ、、、こんな弁当俺は食いたくない。
俺等のガキの頃だってこんな貧しい「とりあえず食えりゃいいんだろ?」といった弁当は無かったぞ。

一体何時の歌なんだろうと調べてみれば1978年(昭和53年)にレコードで発売され、その後子供番組に使われ、振り付きで幼稚園や保育園で子供達が歌っていたのだが、昭和53年でこんな弁当は幾ら田舎でも無かったろう。

これが歌詞を再現して作ったお弁当だ。

http://www.youtube.com/watch?v=CPCF-2_zswg

俺は昭和44年に高校を卒業して弁当生活を終えたが、こんなベジタリアンが食うような弁当にお目にかかったことがない。
食い物は目で味わい、匂いで味わい、舌で味わう。
弁当ではもう一つの大切な要素、温かさを味わう事が出来ないから、それを補う為にも見た目が重要だ。
一片のにんじんやトマトの赤があれば温かさを感じるじゃないか。

俺も昔は子供達のお弁当を毎日作っていたから、彩りには気を使ったよ。
普通に弁当を作ると黄土色になる。
赤と緑が必ず入るようにしていた。

先日息子のツイッター見てたらその頃の弁当が旨かったと書かれていて、今更ながらそう思って食べて貰って嬉しく思ったりしていた。

最近日本のべんとーが人気らしいね。
べんとーと言うのも日本の文化なのだ。


http://www.youtube.com/watch?v=kWyOInzopQU&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=dn-gDGTL4x0&feature=related


2012/04/10 19:55:11 すが

孟宗竹

本州ではタケノコが収穫できる季節なのだろうか、テレビでタケノコの事が話題になっていた。
40年近く前、航空自衛隊に入隊して埼玉の熊谷にある教育隊で訓練を受けた。
一泊二日行進なんてのをやらされたのだが、熊谷直実の石碑が孟宗竹の林の中にあって、北海道では見たことのない孟宗竹の太さに感嘆する。

熊谷直実は源義経の家来で、一ノ谷の戦いで鵯越の逆落としの崖を馬で駆け下り真っ先に平家の陣地に乗り込んだ人物で、平安末期から鎌倉初期の時代に生きた人だ。
孟宗竹の林と熊谷直実の石碑のイメージが結びついているために、孟宗竹は平安時代には日本全国に拡がっていた物だとばかり思って居た。


孟宗竹は元々揚子江の下流域の原産で、801年(延暦20年)、京都府長岡京市の海印寺、寂照院の開山・道雄上人が唐から持ち帰った等諸説あるが、
実際に全国に拡がったのは1736年に薩摩藩が清から琉球経由で輸入したのが始まりらしい。

道雄上人が唐から持ち帰ったとなると遣唐使船で持ち帰ったということになろうが、801年に帰ってきた遣唐使船は無い。
道雄上人は空海の弟子だから空海と同行したのだろうかと調べても、空海が唐から帰ってきたのが大同元年(806年)でどうもつじつまが合わない。
単なる伝聞だと思う。

孟宗竹というのは江戸時代の半ば以降にタケノコを採ったりするために植えられた物で、京都から徐々に拡がっていった物だろうから、俺が見た熊谷の竹林などはさほど古い物ではないのだろう。
すると「竹取物語」のおじいさんが切ったら中からかぐや姫が出てきたという竹は孟宗竹なのか別の竹なのか。

「竹取物語」の成立については、源氏物語の中で「竹取の翁」についての言及があることから10世紀半ば以前、通説は平安時代前期、890年台の後半ということらしい。
口承説話を元にした物だから物語自体はもっと遡るだろう。
まあ孟宗竹ではなく、真竹かハチク(淡竹)なのだろう。

ハチクも中国原産だが750年頃には日本に生えていたらしい。
どういう経路でやってきたのかはわからないが。


2012/04/08 22:53:05 すが

オウムのアレックス

テレビを見ていたら賢いオウムの話をやっていた。
アレックスというオウムで、色を見分け、数を判断し答えてくれる。
紙が大好きなのだがPの音が嘴か舌の構造上発音できなくて、「PAPER」ではなく「AER」と発音していたらしい。
今は普通に話せて居るみたいだが。

ある時ケーキを持ってきた人が居た。
アレックスはそれを見て「美味しい パン」と言ったので、そこにいたみんなが驚いた。
アレックスは「美味しい」という形容詞を、「パン」と言う名詞に結びつけてケーキのことを「美味しいパン」と表現したのだ。
それを聞いてアレックス君の飼い主でもある女性研究者は「アレックスは間違いなく自分の話している意味を理解して話している。」と確信したそうだ。
一日の研究を終えケージに戻されるとアレックスは「バーイ」と言い、「バーイ」と答えると「アイ ラブ ユー」と言うので研究者も「ミー トゥー」と答える。
まるで人間同士の会話だ。

物事をすぐ忘れる人間を「鳥あたま」と呼ぶが、鳥は実は頭が良いんじゃないかという事はうすうす感じていた。
ただ鳥は素早く空を飛び回っていたりしていて、ゆっくりと観察したり一緒におしゃべりする事が出来ない。
でも身近にいるカラスなどを見ていても、頭が良いなあとは思っていた。

「ぴっぴかめ吉」を飼いだしてから鳥は「鳥あたま」と侮辱されるほど頭は悪くないと確信するようになった。
人を見分けている。
俺が指を近づけると顔を近づけてくるが、純子には威嚇して嘴で突こうとする。
どうもこいつは雌で俺が好きらしく、純子に焼き餅を焼いて居るらしい。
俺の姿が見えなくなると後追いして鳴く。

それも初めは普通のトーンで短く鳴くのだが、そのうち甲高い声で続けざまに鳴く。叫びすぎて、がらがら声になっても呼び続ける。
うるさくてかなわない。
ホイッスルを何度も吹かれて怒られて居るようだ。

「良い笛の音だね。よし!かめ吉に交通整理のバイトをさせよう。信号が赤だろうが青だろうが構わずピーピー言ってるから大混乱になるよ。」

と純子が言う。

眠るときには籠にシーツを被せてあげるのだが、最近はシーツを持って近づくだけで眠るための準備を始める。
まず身体を前方に傾けすべての翼を広げる。
するとさすがに鳥。
大きくて颯爽としていて、普段のすっとぼけ面と大違いだ。
それで

「凄いねえ、かっこいいねえ、ぴっぴ、『かっこいい』もう一回やって。」

と手を叩いて褒めそやす。
終いには手を広げて二人で翼を広げた格好をして羽ばたく。
他人には見せられない阿呆丸出しの格好だ。
するとピッピは「仕方ないなあ。」とアンコールに応える様に、今度は羽ばたきまでして見せてくれる。
こうやって褒めて育てるのが我が家の教育方針なのだ。

それが終わると、えっちらおっちら歩いて一番下の梯子の中間まで登りいつもの睡眠場所に落ち着く。
これが毎夜の儀式である。
頭の大きさから言って、かめ吉の脳の大きさなど小豆程度だろう。
しかし我が家の惚けた婆さんより利巧なのは明らかだ。

先日かめ吉を手に入れたペットショップに行った。
ショップにはかめ吉と同じような模様のオカメインコが居た。
おそらくかめ吉とその子とどちらにしようかと迷ったインコだ。
兄弟だったかも知れないもう一羽のオカメインコは尾羽がちぎれ、薄汚れた状態でじっと止まり木に留まって居た。

買って家に連れてきた時はかめ吉も同じだった。
数日間餌も水も飲まずじっとしていて、手を近づけると逃げ回っていた。
それが今では手を入れると急いで梯子を登り「めんこめんこ」して貰いにやってくる。
毛づやも遥かに良く、活発で表情がある。

愛情を与えることにより、こんな小さな脳みそ小豆の生き物でも愛情を返してくれるようになる。
もはやただのオカメインコではなく我が家の家族になった。
そして鳥が犬や猫と何ら変わりない感情を持っていることも教えてくれた。
怒る、すねる、甘える、、、好奇心旺盛で何にでも嘴を突っ込む。

先日の新聞に羽毛の痕跡のあるティラノザウルスの化石が見つかったという記事が載っていた。
小型の恐竜では羽毛を纏った物が見つかってはいたが、大型恐竜も羽毛を持っていたとは、、、。
ティラノサウルスの羽毛なんて一枚一枚が巨大なのだろうなあ。
羽毛は元々は体温の保持の為に生えたのだろう。

羽毛というのはは虫類の鱗や、ほ乳類の体毛と同じケラチンというタンパク質から出来ている。
魚の鱗は歯や骨と同じ起源だが、は虫類の鱗や鳥の羽毛は皮膚が起源だ。
恐竜の皮膚がは虫類と同じ鱗で覆われていたとずっと思われていたということは、羽毛が化石になるのが難しいのだろうか。

かめ吉は羽の生え替わりの季節なのか、やたらと羽の毛が抜ける。
羽の他にフケみたいな物も沢山剥落する。
毛繕いにかなりの時間を費やしているが、手入れをしないでおくとどうなるのだろうか。
細菌や寄生虫の格好の住み処になってしまいはしないか。

羽毛を生やした恐竜たちはどうだったのだろう。
ティラノサウルスが足で首を掻きむしったり、鋭い歯で羽毛を鋤いたりする姿を想像してみる。
鳥は首の可動範囲が大きくて真後ろを向くことが出来るから嘴の届かない所は無い。
尾羽ですら根元から咥えて先端まで舌で汚れをこそぎ取っている。
咥えた羽が弓なりに反ってゆく様子は、息がかからないように紙を嚼みながら日本刀に打ち粉をしている光景を彷彿させる。

恐竜だってきっと羽毛の手入れはしていたに違いない。
或いは皮膚に付く寄生虫を食べてくれる小動物と共生していたのかも。
色だって鳥みたいに多様だったのだろう。
ティラノサウルスだって実物を遠くから見る分には可愛かったのかも知れない。

2012/03/30 19:30:13 すが

増毛小学校

ラジオを聴いていたら増毛の「国稀酒造」の話題が出ていた。
日本で最北の酒蔵だそうだ。
「国稀酒造」には今月の初め暑寒別の伏流水を汲みに行った。
雪が多かったなあ。

夏場は外に水汲み場があって自由に汲めるのだが、冬は凍結の恐れがあるので工場内で汲ませて貰うことになる。
京極の水よりここの水の方が何となく美味しく感じる。

最近増毛の話題を聞くことが多く、先日も増毛小学校の話題をテレビでやっていた。
北海道最古の木造校舎で、初めて眼にした時には「懐かしい!母校の幌東中学校の校舎みたいだ。こんなの未だに残ってるんだ。」と感激した。
増毛小学校は明治11年に開校だから今年で134年になるのかな。

増毛小学校が北海道最古の小学校の様に勘違いしている人も居るようだが、それは校舎の話(昭和11年落成)。
純粋な意味でゆくと、現存する北海道最古の小学校は白石小学校(明治5年4月開校)になるのだと思う。
ホームページによると札幌で2番目に出来た小学校だという。
今年で140年だね。
増毛小学校も古い方だけどね。
俺の母校の上白石小学校などはぐっと新しくて、明治33年開校だそうだ。
そういえば在校中に60周年記念で紅白の大福を貰った記憶が、、、。

札幌で最古の小学校は(ということは道内最古だと思うが)中央創成小学校の前身の「資生館」で、明治4年10月に今の市役所前の広場の辺りに新設された。
この「資生館」というのは20歳から30歳の人が多くて子供はあまり居らず、今の小学校とはかなり趣を異にしていたようだ。
学制が敷かれる前の話だからね。

中央創成小学校がいろいろな学校と統合し創成小学校になってゆくのだが、平成15年に大通小学校、豊水小学校、曙小学校と統合して現在は同じ場所に「資生館小学校」として開校する。
街の真ん中に住む子供達が少なくなっているからね。

「資生館小学校」って化粧品会社にゆかりのある学校なのかなと思っていたが、そういう謂われだったんだね。
結局元の名前に戻ったということだったんだ。
だから道内で最古の小学校は「資生館小学校」、同じ場所にあって古いのは「白石小学校」、校舎が古いのは「増毛小学校」ということになるのだと思う。

それにしても「増毛小学校」の建物残して欲しいな。
学校として使うのは無理でも何らかの記念館に使えないのかな。北海道遺産になってるんだからさ。


2012/03/01 21:57:45 すが

ホンダジェット

俺のハイエースのディーゼルエンジン1KZ−TEは名機の誉れ高いのだが、設計開発したのは「ダイハツ」だ。

「ダイハツ工業株式会社」って今はトヨタの子会社だけど創業は江戸時代に遡り、大八車を作ってたって知ってた?
大八車の軸受けに種子島の弾を流用した玉軸受けを組み込んだ「大八未来」は小型の車体にもかかわらず、重量物を軽く曳くことが出来ると云うことで江戸の運送業界に革命をもたらし、大八車の大ベストセラーになった。

維新後も大八車を作り続けていたが明治40年に内燃機関の開発を始め、創業者の社長が「ダイハチ工業」って名付けたんだけど、津軽出身でちょっと訛っていたので社員が聞き間違って「ダイハツ工業」で登記してしまったために、未だに「ダイハツ」と読まれることになってしまった。

まあ、毎度の嘘だけど。

http://www.daihatsu.co.jp/company/databook/pdf/databook2010_5.pdf

それはともかく車メーカーも名前だけは色々あるけど、実態は何処かの傘下にあったり、資本提携したりしていて、日本のメーカーで言うと独立してるのはトヨタとホンダくらいなんですかね。

いずれ車はすべて電気自動車になるのだと思うが、すると、あのメーカーのモーターにこのメーカーのバッテリーを乗せて、車体はこのメーカーのこの型にしてねと街の整備工場に頼んで作ってもらう事になると思う。
自作パソコンを組み立てるように。

既存の車メーカーの優位性は薄れてゆくんじゃないかな。
技術なんか大して要らないから、労務費の安い国で組み上げて輸入した方が安くなるかも知れない。

そういう将来を見越していたのか、ホンダがビジネスジェット製造に進出した。
元々飛行機を作りたいというのは本田宗一郎の夢であり、戦時中「中島飛行機」で航空機エンジンを開発していた中村良夫が本田技研工業に入社面接に行った時に、「ホンダはいずれ飛行機を作るつもりがあるのか?」と聞いたら宗一郎は「ある。」と答えたという。

敗戦後日本は航空機を作ることを禁止され、飛行機の設計者は仕事を失い他の分野の仕事に就いた。
日本のロケットの開発者の糸川秀夫、新幹線を作った三木忠直、、、中村良夫もその中の一人だ。

ホンダのF1レーシングカーが初優勝したのは、初参加の1965年の最終戦「メキシコグランプリ」で、その時の監督が中村良夫だった。
メキシコは標高が高くキャブレーターのセッティングが難しく各国とも苦労していたのだが、高々度を飛行する航空機のエンジンを開発していた中村にしてみれば容易な事だったのだ。
宗一郎と中村良夫の夢は彼らが生きている内にはかなわなかったが、引き継がれて実を結んだ。

ホンダジェットの凄いところはエンジンまで作ってしまったことだ。
実験機に載せられたHF118ターボファンエンジンは完全にオリジナルで、商用化のためにGEと提携し改良をしてHF120となる。
航空機のエンジンは今後も内燃機関が使われるだろうから、ホンダは将来の飯の種を確保したわけだ。

しかしレシプロエンジンとジェットエンジンは全く別物であるから、ゼロからのスタートだったのだろう。
日本のジェットエンジンの開発はガスタービンエンジンから始まったと本で読んだ記憶があるのだが、ネットで調べたがその辺りの事を書いているのが見つからない。
いずれにしても終戦の数日前にジェットエンジンを搭載した「橘花」が初飛行に成功して居り、その当時ジェット機を完成させたのはドイツ、イギリス、日本以外には無かったのだ。
戦後の空白期間が無ければ戦闘機のエンジンくらい自前で作っていただろう。

ジェットエンジンと云うのはノウハウの塊で、簡単に作れる代物ではない。
ホンダが小型ジェット機の研究を始めたのが1986年だというから、26年か。
そんな短い期間で商用のジェット機を作り上げたというのは凄いことだと思う。

ホンダジェットの外観上の特徴は主翼の上に載せられたエンジンだ。
普通小型ジェット機はエンジンを機体後方、左右に配置することが多い。
すると左右のエンジンを固定するための桁が胴体を貫通し、デッドスペースになるらしい。

ホンダジェットの場合は主翼上面にエンジンがあるために、そのデッドスペースが利用できる。
風洞実験を繰り返してテストしたらしい。

そのデッドスペースだった空間にトイレと洗面所を作ったらしい。
どんなに短い旅であってもこれは必需品だと思うんだが、今までのビジネスジェットには無かったらしい。
これはキャンピングカーのトイレのように、一度使ってしまったらもう無いというのは耐えられないという設備だと思う。
車メーカーだからこその発想が散りばめられているらしい。

発売前なのに凄い数の注文があるらしいよ。
俺も一つ買うかな。
プラモデルが出たら。

http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20111109/1038581/?ST=life&P=3


2012/01/10 06:08:28 すが

カムバーック!アンジェリア〜!

純子を朝会社に送る時に、「ほしが丘」という造成中の土地の看板を見つけた。
以前ここは草茫々の空き地で「アンジェリアの街」等という看板が懸かっていた土地だ。
その看板を眼にするたび

「あのー、、、アンジェリアの街ってどんな街なんでしょうか?」

と、看板に書かれている所有者と思われる電話番号に電話してみたい衝動に駆られていたのだが、数年前からその隣の土地が宅地化され、家が建ち、「明日風の街」という名前の新興住宅街になり、地名も「明日風」になってしまった。

すると道を挟んで隣の「アンジェリアの街」になる予定だった草茫々の空き地はどうなってしまうのか、「明日風町字アンジェリア」などという地名になるのだろうか、と思っていたらこの看板だ。

こんな勝手なことが許されて良いのか?!
以前アンジェリアの街の事を書いたら、正直君は、俺はこういう名前の土地に住みたいと言っていたのに。
藪さんの奥さんはとっても買い物好きで、生協に買い物に行くと家を出てからすでに二十数年、いまだに帰らないらしい。
藪母ちゃんとアンジェリアの街は何処へ行ってしまったのか。

大体「ほしが丘」などと言ったって、あの辺りは海岸平野で丘などありゃしない。
日本海で大型津波が発生したら延々と波が押し寄せるであろう。

「カムバーック!アンジェリア〜!」

と、二度と帰らぬ恋人を呼ぶように叫んでみる。

そうやって純子を送り届け、帰り又迎えに行った車中で仕事の事を色々聞く。
純子がこの仕事につくきっかけとなったのは、情報誌を始めのページから見ていったら最初が医療介護の項目で、たまたま募集の公告が目に入った。
ヘルパーの資格もないけれど、駄目もとで電話をかけてみたのだ。
すると面接をしましょうと云うことになり、数日後には採用の連絡があった。

後で聞いた話によるとそれ以前にも募集はかけていたのだが応募が無く、何故か今回の募集には何人か応募があり、その中で39歳のヘルパー2級の資格を持っている女性を採用することに決まっていたのだそうだ。
純子の応募があったのはその後だった。
電話を受けた人が決まったことを知らずその場で断らなかったため、一応面接だけすることにしたらしい。

面接の後再度検討が行われ、面接をした現場の責任者が強く推してくれたために採用となったらしい。
39歳の人には申し訳ないことをした。
でも、これも縁なのだろう。
純子が惚けた婆さんの面倒を見ていた事が一番の理由じゃないかな。
それとあまり若いと惚け婆ども、舐めてかかるらしい。
純子はパートのつもりで居たのだが、入ってみたら社員扱いだった。
面接の時に夜勤は出来るかと聞かれ、構わないと答えたためらしい。

そんな風にして勤め始めてもうひと月、すでに古株のような顔をしているらしい。
我が家の婆さんの面倒を見ていた頃は腹を立てたり、ちょっと鬱状態になって体調を崩したりしたが、仕事となると腹が立つことも無いという。
惚けているとはいえ殆どが自分の事は出来る年寄りだから、仕事の内容は家庭で年寄りと一緒に暮らしているようなもので、食事を作ったり、洗濯をしたり、お風呂に入る補助をしたりといった事なのだ。

食事作りなどは村祭り等で一度に大量の調理をするのに慣れているから仕事が早い。
しかも献立は決まっていて材料は毎日運ばれてくる。
交代で食事を作るわけだが、年寄りが食べる食事は魚の煮付けだとか、旨煮だとか、酢の物とかいった和風の家庭料理が多い。

若い人は作り方も知らないことが多く、自然と純子が食事を作って仕舞うことになる。
風呂の介助の日以外は頼まれて食事を作っているらしく、賄いとして雇われた様な状況になってきたらしい。
いずれにしても純子の得意な事が仕事に生かされており、重宝がられて居るらしい話を聞くと嬉しく思う。

始めはちょっと不安もあったが、もしかしてこれは純子にぴったりの仕事なんじゃないか?と思うようにもなってきた。

2012/01/09 02:17:45 すが

ねつ造

化石って昔から知られていたんだけど、それが大昔の生物だったことが分かったのは18世紀末の事で、例えば生きた化石オオサンショウウオは体長150センチにも及ぶ大きな奴も居るんだけど、ヨーロッパには化石でしか知られていなかった。
それは旧約聖書のノアの箱船の話の大洪水で死んだ人の化石だと思われていた。

だけどシーボルトが日本からオオサンショウウオを持ってきて、それが大きな両生類だと言うことが分かったのだ。
キリスト教が真実を探る目を曇らせたのだ。

ドイツのバイエルンにあるヴュルツブルグ大学の医学教授、ヨハン・ベルンガーは化石を研究していたのだが尊大な男で、同僚の教授達の反感を買っていた。
そこで教授達は悪戯をしてやろうと石灰岩を加工してトカゲ、鳥、カエル、ハチ、巣を張った蜘蛛を化石に似せて作り、ベルンガーが化石を採集する場所に埋めておいた。

当時は化石が生物由来の物か、無機的な作用による物か分からなかったのだが、これらを発見したベルンガーは大喜びで図版付きの著書を発表した。
それらの化石の中には尾を引く彗星の化石だとか、顔のある太陽の化石だとか、聖ヨハネの名前をラテン文字やアラビア文字、ヘブライ文字で刻んだ化石まであったのだが、彼はこれを信仰心を試すための神の気まぐれな悪戯と考えた。

彼は化石は神が過去に作り出した生物の遺骸で、洪水を起こしては過去の生物を一掃した後、新たに生物を作り出してきたと信じていたのだ。
今から考えてみれば彗星の化石だとか、顔のある三日月や太陽の化石なんて噴飯物だと思うのだが、当時のキリスト教の世界観ではおかしくは思わなかったのだろう。

結局二人の教授は自分たちの悪戯の度が過ぎたと思いベルンガーに白状するのだが、ベルンガーは自分の業績に嫉妬してそんなことを言っているのだと思い取り合わなかったらしい。
一説には最後に自分の名前の刻まれた化石が出てきて、ようやく悪戯に気づいたという。

ベルンガーの場合は本人がねつ造したわけではないが、旧石器ねつ造事件の藤村新一の場合は自分で石器を埋めてそれを発掘した。
元々彼は学者ではなくアマチュアの考古学が好きな人だったわけだが、功名心からねつ造を始め「ゴッドハンド」などともてはやされるのが快感となり、ねつ造を繰り返したようだ。

これは個人的功名心から起こったねつ造事件だが、2005年に発覚した韓国の黄禹錫(ファン・ウソク)の人のES細胞ねつ造論文の場合は、個人的功名心の他に韓国という国の異常さが生み出した事件だ。


2011/11/28 12:47:28 すが

ソーイングマシン

我が家にミシンという物がやってきたのは小学生の頃だと思う。
ブラザーだったか、ジューキだったか、ジャノメだったか、シンガーだったのか、もう覚えていないが、艶やかな黒に塗られたそいつの身体は、サラブレッドの背中から後脚に至る優美な曲線を描いていて、ロゴマークの金色が黒地に輝かしく浮かび上がっていた。

今のミシンと違って当時の足踏みミシンはとにかく重たく、大きく、押し入れに仕舞っておいて、使うときに引っ張り出せる様な物ではなく常にそこにあるものだから、家具の一部であり装飾性を求められていた。
確かに昔のミシンは今の物と比べようもなく機能的には劣っているのだろう。
しかし機械的な美しさ、装飾的美しさは圧倒している。

美的要素はともかく、我が家にやってきたミシンは俺の機械的好奇心をそそる物で、どうして布が縫えるのだろうとゆっくりと針を上げ下ろしするのだが分からず、とりあえずミシンという物はどういう仕掛けか分からないが布を縫い上げる魔法の機械なのだと結論付け納得することにした。

ミシンの縫い方には色々あるようだが、その中で本縫いという縫い方の仕組みは次の様な物である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Lockstitch.gif

これを見てもやはり良く分からない。
見えないところで回転しているボビンケースが重要な役割をしているようだ。
ミシンを発明した人は偉い。

ミシンの開発、商品化には様々な国の沢山の人が関わっていて「誰それが作った。」とは言えない。
一番先に実用的なミシンの特許を取った人は、イギリス人の家具製造業者トーマス・セントで1790年の事だ。
特許を取ったは良いが、何故か衣料品の部門に分類されてしまったため話題に上ることがなかった。
英国特許庁の書庫に眠り続け、83年後に再発見された時にはすでにミシンは普通に使われていた。

1832年にアメリカの発明家であるウォルター・ハントが上糸と下糸を縛る本縫いを発明したが、鷹揚な性格だったのか特許出願権を他人に譲渡してしまったらしい。
彼はミシン以外にも沢山の発明をしていたので、ミシンの次の発明に興味が移っていったのかも知れない。
安全ピン、ウィンチェスターライフルの先駆けの連発銃、万年筆、砕氷ボートなどを発明していて、安全ピンなんかは借金15ドルを返済するために400ドルで売却してしまった。つまらん発明だと思っていたらしい。
ハントが特許をその時に申請しなかった為に、後々ややこしいことが起こる。

http://www.google.com/patents/US11161?hl=ja&dq=sewing+machine+Walter+Hunt#v=onepage&q=sewing%20machine%20Walter%20Hunt&f=false

1846年アメリカ人のエリアス・ハウは独自に上糸と下糸を使う本縫いミシンを発明し特許を取った。
これはハントのミシンの再発明、改良品といえる物であったが、ボビンとボビンケースを発明した事で現在の本縫いミシンの原型となる。
ハウについてはこんな逸話がある。

ハウはある夜インディアンに槍で殺されそうになる夢を見た。
目の前に迫る槍の穂先を見ると穴が開いていて、眼が覚めて「これだ!」とミシン針を思いついたという。
ミシン針の事を考え続けていたのでこんな夢を見たのだろう。
でもハントが作ったミシンで、すでに先に穴の開いているミシン針は使われていた。
目的が同じだと結局同じ結論に辿り着くのだろう。

彼は開発したミシンの特許を取ったのだが、事業化出来ず失意の内イギリスに渡る。
3年後アメリカに帰ってみると、彼の特許を使ったミシンが販売されていた。
彼は自分の特許を侵害した会社を相手に訴訟を起こし、1854年に15000ドルで和解し製造販売権を相手の会社に渡す。

その会社がシンガーなのだが、設立者のアイザック・メリット・シンガーがこれ又奇妙な経歴の人なのだ。
最初に特許を取ったのが岩盤掘削機械で、彼はそれを2000ドルで売り、俳優になる夢を実現するために一座を作り公演の旅に出る。
その旅は5年間続く。

その後又発明の仕事をするのだが、レローとプロジェットという人達が開発していたミシンが使い勝手が悪いし、製造も難しかったためシンガーに助言を求めた。
それでボビンケースを回転させるのでは無く直線的に動かし、針も直線にすればこのミシンは信頼性が増すと気づき特許を出願する。

シンガーにしてみればハウの特許を侵害する意図はなく、結果的に似たものになっただけなのだろう。
いずれにしてもミシンを商品にしたのはシンガーで、1851年の事だった。
とても高価な物であったから割賦販売を始めた。
これがローンの始まりなのだ。

特許紛争に関しては1853年にウォルター・ハントが7年前に発効しているハウの特許より優先であることを示すために特許を申請する。
結局争いは法廷に持ち込まれハウが勝つ。
ハントもちゃんと特許を取っていれば、こんなややこしいことにならなかったのに。

日本に初めてやってきたミシンは、1854年にペリーが第13代将軍徳川家定に贈った物で、天璋院敬子(篤姫)が始めてミシンを使った日本人らしい。
民間でミシンを持っていたのはジョン万次郎で、1860年の遣米使節団に通訳として同行したとき購入した物らしい。



日本製のミシンは維新前に大砲職人だった左口鉄造という人が、1881年の第2回内国勧業博覧会に出展した物が国内1号機らしい。
大砲職人で鉄造なんて出来すぎじゃない?

1928年にミシンの修理業をしていた安井 正義、實一兄弟が品質が安定していて壊れないミシンを開発し販売を始めたところ評判を呼び注文が殺到した。
「安井ミシン兄弟商会」にちなんで「ブラザー」というブランド名を使用する。
1934年には「日本ミシン製造(株)」になり、今の「ブラザー工業(株)」になったのは1962年の事で、子供の頃「ブラザー」と言っていたのは社名じゃなかったんだね。

ミシンも家庭に行き渡っているからそうそう売れる物ではない。
従ってブラザーも今はパソコンプリンター、工作機械等を手がけているようだ。
現に我が家のプリンターもブラザー製で、複合機で唯一A3のプリントが出来るので重宝している。
そういえば我が家で最初に買った冷蔵庫も「ブラザー」だったわ。

ジャノメなんかも24時間風呂の「湯名人」とか、工作機械、ステッピングモーター、ロボット、調理用品なども販売している。
「ジャノメ」の名前の由来は「蛇の目」、ミシンのボビンの形が「蛇の目」模様に見えたからつけたらしい。

ジャノメは1921年創業で、ブラザーより先に量産型ミシンを作っている。
創業者は技術者の亀松茂と飛松謹一、そして営業、経営、資金提供の小瀬與作で、亀松と飛松の「松(パイン)から「パイン裁縫機械製作所」と名付けられた。
日本のミシンは優秀で輸出も随分されている。
しかし現在は台湾、中国の工場で生産されているらしい。

現在のミシンは鉄道で言えば新幹線の様な物だなあと思う。
新幹線は流線型で、目に見えないエレキテルで動いていて、スピードは速いし、とても実用的なのだが、蒸気機関車のような、心ときめくメカニカルな美しさが無い。
昔の足踏みミシンの美しいこと。
布を縫うことからは引退しても、骨董品、美術品的価値がある。